122.狂気と凶刃。
自室の窓辺に腰を掛け、ルークはただぼんやりと外の景色を見ていた。
だがすでに深夜を過ぎた街は明かりも消え、新月の闇夜に映すのは己の陰鬱な姿のみ。
先程、父親である皇帝の言伝を使いの者から聞いて以来、心が重く気分が晴れないのだ。
正確に言うならば、皇帝から兄であるフランツに代わり皇太子位に就くよう命じられてからずっと心に巣食う不安を消し去る事が出来ない。
厭な予感に胸が騒ぐ。
ルークは暗闇の中で不気味に光る己の瞳を憎々しげに睨みつけたものの、すぐに目を逸らして立ち上がった。
と、そこへノックの音が鋭く響き、ルークの返事も待たずに扉が開いてシェラサナードが駈け込んで来た。
「姉上?」
いつもの温和で柔らかい気を纏ったシェラサナードとはあまりに違う取り乱した様子に、ルークは驚いた。
シェラサナードは侍女も連れていないのだ。
「ああ、ルーク……。私はどうしたらいいのかわからないの。ずっと前にお姉様が教えて下さっていたのに……」
「姉上? いったいどうしたのです?」
「ごめんなさい……。何も、何も出来なくて……」
顔を覆って泣き崩れたシェラサナードに戸惑いながらも、ルークは姉の側に膝をついて落ち着かせようと打ち震える肩に手を置いた。
その時――。
微かに聞こえた悲鳴に二人はハッと息を呑んだ。
しかし、警備兵も近衛さえも異変に気付いた様子はなく、王宮は未だ静けさの中に在る。
「まさか、こんなに早く……」
「――行かなければ」
「ルーク! 待って――」
シェラサナードの絶望に満ちた嘆きを置き去りに、ルークはその場から転移した。
ルークを止めることも出来ずに一人残されたシェラサナードは、激しく震える体を叱咤して急ぎ部屋から駆け出したのだった。
*****
厭な気配を辿って転移したのは、皇太子の居住区になっている東棟の一室。
そこは現皇太子である兄の妃の一人――恐らくフランツが即位した際に正妃になるであろうと言われているコーブ伯爵の娘の部屋であったが、切迫した状況にルークは礼儀を無視して直接室内に飛んだ。
そして、目にした光景に愕然とした。
豪華な室内は血の海と化し、幾人かの無残な遺体――それが兄の妃なのか侍女なのかはルークにはもはや判別がつかない程の姿で横たわり、更に兄の近衛騎士だったはずの残骸が転がっていた。
その中で返り血を浴び茫然として立つフランツの手には、代々皇太子に受け継がれてきた太刀――『若草の太刀』が握られている。
いつもはその名の通り薄青に光る太刀が血を滴らせて赤黒く輝いていた。
「兄上……いったい何が……?」
「――もはや私は私を抑えられない……」
「兄上?」
小さく吐き出された兄の言葉が聞き取れず、ためらいながら近付くルークにフランツは暗く澱んだ目を向けた。
「ルーク……今すぐ私を殺せ」
「何を――何をおっしゃっているのですか?」
むせ返る血の臭いが正常な思考を奪っていく。
だから兄の言葉を、己の耳を狂わせているのだ。
ルークは必死にそう信じようとしたが、次に聞こえた兄の声はとても明瞭なものだった。
「この身に流れる呪われた血が私を狂わせる。次にいつまた狂気が襲うかわからない。これ以上の犠牲を出したくないのだ。だが……私は……」
徐々に兄の体を覆い始めた渦巻く黒い気を見れば、言う通りにするべきなのだろう。
だが、出来ない。
だが、為さなければ。
ルークは浅く荒い呼吸を繰り返しながら、屈んで足下に転がる近衛の剣を拾い上げ強く握り締めた。
そして構え、打ちかかる。
しかし、ルークの剣はあっさりと払われ、フランツの厳しい叱責が飛んだ。
「ルーク!! なぜ本気を出さない!? それで私が殺せるか!!」
「出来ません!! 私には無理です!!」
幼いルークに剣の握り方から教えてくれたのは兄なのだ。
剣を扱えれば、戦いにおける魔力の消費を抑える事が出来ると。
フランツは苛立ちを静めるように一度大きく息を吸うと、ゆっくり言葉を紡いだ。
「ルーク、無理などと次代の皇帝が軽々しく口にするべきではない」
「ですから!! ですから、兄上が帝位に就くべきなのです!!」
「そなたも姉上からの手紙は読んだだろう? 運命はすでに神によって宿められている。我々はそれに従うだけだ」
「――神などと!!」
「ルーク……抗うな、受け入れろ。そなたなら必ず立派な皇帝になる。そうなるべきなのだ。だから……その為にも早く私を殺せ」
フランツの声はとても穏やかに聞こえるが、内実は己の身に湧き上がる狂気を抑えるのに必死だった。
このまま、目の前の弟を殺してしまえばよい。
血を分けた兄弟で争うは皇家の呪われた伝統。
先代皇帝もそうして兄帝を手にかけたではないか。
そうして現帝も殺してしまえば……。
「――ルーク! 早くやれ!!」
「兄上……私は……」
苦しむ兄を見て、ルークもまた苦しみに顔を歪め、力なくその手から剣を落とした。
間違っている。
このままでは何も終わらない、何も始まらないのだと。
「――愚かな!!」
フランツはついに溢れ出した闇を制御できずに、覚悟を決めたかのように目を閉じた弟へと若草の太刀を振りかざした。
瞬間――刃と刃がぶつかり合う甲高い音が部屋に響いた。
「ジャスティン!?」
ルークを庇い、フランツの前に立ちはだかったジャスティンが構えているのは黒く煌めく細身の剣。
本気で戦う意思を見せるジャスティンをフランツは冷たく見据えた。
「ジャスティン、私はまだ皇太子の座に在る。その私に近衛のお前が剣を向けるのか?」
「……近衛騎士は皇家の為に在ります」
「それがお前の答えか? 私が皇家の為にならぬと?」
問いかけたフランツは太刀を下ろし、数歩後ろへと下がった。
「その判断は正しい。だが、正しき者が常に勝る訳ではない。世界はこんなにも不条理に満ちているのだから」
楽しげな笑みを浮かべてフランツが示したのは、赤黒い床に散る幾人もの命の骸。
「兄上――ッ!!」
闇に支配されたフランツを前にして握る剣に力を込めるジャスティンを、ルークは押さえようとしたものの、己を蝕むような激しい力に立っている事が出来ず、その背を壁へと預けた。
体中が砕けそうに軋み、頭が割れそうに痛む。
そこに、厳しい顔つきのレナードとディアンが現れた。
「――来たか」
まるで待ち人がようやく現れたかのように、フランツは嬉しそうに細めた目をディアンへと向けた。
あまりの凄惨さに顔をしかめたレナードとは対照的に、ディアンは一切の感情を消した冷ややかな顔つきでフランツの視線を受け止めている。
「ついにその身を狂気に染められたのですね?」
「お前ほどではないさ」
軽蔑もあらわなディアンの言葉にフランツは声を出して笑うと、頭を抱えるように両手で目を覆うルークを守る為に、すでに近衛の剣を抜いて構えているレナードへと視線を移して皮肉気に唇を歪めた。
「全てを守るつもりか?」
「――いいえ、心に拠るものだけを」
「……そうか」
きっぱりとしたレナードの返答を聞いたフランツはどこか悲しげだったが、次にルークへと放った言葉は憎しみに満ちていた。
「ルーク、お前の存在が世界を危うくさせる。お前さえいなければ……私は私でいられたのに。この身はもはやただの器に成り下がってしまった……」
フランツは血に塗れた若草の太刀を鞘へと納めると室外の気配に意識を向け、そして姿を消した。
と同時に、扉が激しく叩かれる。
「殿下!? ご無事ですか!? 殿下!!」
「皇太子殿下!!」
ようやく異変に気付いた近衛達の焦慮に満ちた声が夜のしじまを破って王宮内に響き渡る。
部屋に残された誰もが口を閉ざしたまま、ディアンが扉へと足を向けた瞬間、フランツの近衛騎士達がなだれ込み、すぐにその場で立ちすくんだ。
「殿下は……皇太子殿下はどこにおられる!?」
「――フランツはもうおらぬ」
室内の惨状に青ざめながらも必死に震える声を抑え、フランツの行方を問う近衛に答えたのは、ゆっくりと歩み現れた皇帝だった。
その場の者達がどうにか威儀を繕う中で、未だ苦しそうに両目を押さえ荒い息をするルークに、皇帝は蔑むような目を向けた。
「ルーク、部屋へ戻れ。そして明朝までには己を整えよ」
「陛下!? それでは――!!」
ルークへと冷淡に命じた皇帝は、フランツの近衛騎士から上がった抗議にも近い声を無視して踵を返すと側に控える近衛隊長のガッシュに一度視線をやり、来た時と同じ様にゆっくりその場から立ち去った。
「――このまま副隊長以下五名残り、ここの後始末をせよ。あとの者は持ち場に戻れ」
動揺の激しい騎士達を叱りつけるように厳しい口調で指示を出したガッシュは、顔を覆ったままのルークとその側に黙って控えるレナード達を窺った。
ルークはふらりと体を起こすと何も言わずその場から消え、その後をレナードとディアンがすぐに追う。
ガッシュは残ったジャスティンに目配せで後ほどの説明を求めると、副隊長に後を任せて険しい顔つきのまま部屋から出て行ったのだった。