118.駆け引きの落し物。
執務机に置いた二通の書簡を前に、リコは頭を抱えるようにして俯いていた。
その側にはトールドが静かに控えている。
春を迎えて咲き誇る花々が暖かな風に揺れる窓の外とは逆に、執務室には冷たい沈黙が流れていた。
「――トールド、悪いがマグノリアへ行ってくれ」
「それは……」
ようやく口を開いたリコの言葉に、トールドは驚き息を呑んだ。
そんなトールドと目を合わせないまま、再び俯いてリコは続けた。
「ニコスがマグノリアの西南地方にあるウェスサの街へ視察に行く事になったから、お前はそれに付き添ってくれ。皇帝にはその旨の許可はすでに取ってある」
「リコ様……」
その命令にトールドは微かにためらいを見せたが、すぐに表情を改めると厳しく光る瞳をリコへと向けた。
「かしこまりました。ただ一つだけ宜しいでしょうか?」
「なんだ?」
「私は全身全霊を傾けてニコス様をお守りする事を約束致します。ですからリコ様もこの先、御身を一番になさるとお約束下さい。卑怯でも、臆病でも、何でもいい、この国の王はあなたでなければ――我々にはリコ様が必要なのです。どうかその事をお心にお留め置き下さい」
「トールド……」
まるでリコの覚悟を諌めるようなその言葉に上手く返せないでいる間に、トールドはそれ以上は何も言わず退室して行った。
再び静寂の戻った執務室に一人残ったリコは、心身の疲れをほぐすように一度大きく息を吐き出すと、目の前に置いていた皇帝からの書簡を丁寧に折りたたんで仕舞った。
そしてもう一通、ずいぶん遠回りして届いたザックからの書簡を視界から追い出すように、リコはきつく目を閉じた。
「くそっ!!」
リコが小さく吐き出した嘆きは、静かな執務室に虚しく響いたのだった。
**********
そこは、マグノリア王宮にある豪奢な客間の一室。
後宮からは一番遠い東棟にあるその部屋に、今しがた入室したディアンは部屋の主となっているサンドルの王太子に問いかけた。
「何かご不自由でもございましたか?」
「いや、別に不自由はないさ。皇帝陛下の近衛騎士に一日中護衛され、この部屋からも出る事なく快適に過ごせているからね」
ディアンと入れ違いに部屋から出て外で待機する近衛騎士達を指し示すように王太子は手のひらを扉へと向けた。
だがディアンはそちらに視線を向ける事なく、いつもの爽やかな笑みを浮かべて応えた。
「それはよろしゅうございました。私をお呼びだと伺いましたので、何かご不便を感じられたのかと心配致しましたが……。それでは如何なされたのでしょうか?」
「それがさ、ここに着いて三日になるのに未だ皇帝陛下との面会は叶わないし、時間を持て余しているんだよ。ここは快適だけど、さすがに退屈になってきたから、少し話し相手になって欲しくてね」
「それは大変申し訳ありません。陛下は非常にお忙しい方ですから中々お時間を調整する事が難しく……。では、私などで宜しければ」
そう言ってディアンは王太子が勧めるソファへ腰をかけると、笑みを崩さないまま真っ直ぐに王太子を見据えた。
「話に伝え聞いていたよりも、ずいぶんお元気そうで安堵致しました」
「そう? だとしたらきっと噂の『癒しの力』とやらをこれ程近くで受けられているからかな? と言う事は、彼女が側にいれば僕はこのまま生き延びられるわけだ。すごいね、早く彼女に会ってみたいんだけどな」
「今でも十分にハナ様のお力の恩恵をお受けになられているのでしたら、わざわざお会いする必要もないのではございませんか?」
ディアンの白々しい提案に王太子も頷く。
「確かにね。それでも折角なんだから挨拶くらいはしたいさ。ほんのわずかな歪みから大きく転がり始めた運命がこの先どこへ向かうのか、彼女の存在で益々わからなくなってきたからね」
期待に満ちた楽しそうな王太子の言葉を、推し量るように注視するディアンの視線にも構わず王太子は続けた。
「この先と言えば、残念な事に僕には後継者がいないんだよね。だからそろそろ色よい返事が貰えないかな? 僕の妹達は、魔力は弱いけどみんな素直で可愛い子ばかりだよ? レナード君に婿に来てくれとずっとお願いしているのになあ」
「何度もお答えしているように、弟にはそのような荷の重い役割は務まりませんよ。他にいくらでも候補者はいらっしゃるでしょう?」
幼子をあやすような穏やかな口調のディアンに応えてなのか、王太子は駄々を捏ねるように唇を尖らせた。
「だけど、レナード君ほどの適任者はいないんだよ。そもそもアンジェリーナには昔からレナード君を養子にさせて欲しいとお願いしていたのに聞き入れてもらえなくて。彼女は王家を裏切ったんだから、それくらいしてくれてもいいんじゃないかな? 君達の父親の先代ユース侯爵だって、アンジェリーナを奪った代わりにレナード君をくれてもいいだろうに……。アンジェリーナはサンドル王家の世継ぎを産むべきだったんだからさ」
「それ程にお世継ぎをお望みでしたら、なぜここにおられるのです? さっさと王城にお戻りになられて、どこぞの姫相手にその貧弱な腰をお振りなればよろしいではないですか。数をこなせばきっと御子にも恵まれますよ」
「言うね。でも、どこぞの姫じゃ駄目なんだ。民が望んでいるのはユシュタルの御使いと言われる皇帝陛下のご側室なんだから」
「やれやれ……。いい加減に不愉快な冗談は、貴方の存在だけにして頂きたいですね」
その顔から笑みを消してソファへと背を預けたディアンとは対照的に、王太子は楽しげに頬を緩めた。
「そんなに怒る事ないじゃないか。僕がこのまま後継者も残さず死んじゃったら、王位継承権の順で君が次代のサンドル王となるんだよ? それとも、それがお望みなのかな?」
「ふざけないで頂きたい」
「いや、僕は至極真面目だよ。建前上、アンジェリーナは王籍から除籍せざるを得なかったけど、君達双子は王籍にその名を載せているんだから。まあ、それはわざわざ知らせなくても良かったよね? ずいぶん前に君は手の者に我が王家の系譜を調べさせたようだから。――ああ、そうそう。手の者と言えば、先日ある者が神殿に入り込んでさ、何か探し物をしていた所を捕らえたんだけど誰の回し者だろうね? 名前は確か……ケヴィン・アーテスと言ったかな? 政務次官補の庶務として潜り込んでいたんだよ」
薄い唇に弧を描いて告げた王太子の言葉を聞いても、ディアンは大して興味もなさそうに応じた。
「それは大変でございましたね」
「全くだよ。しかもさ、サンドルの主神殿は他と違ってかなり入り組んでて難しいんだけど、抜け道もしっかり把握していたようで……誰かが前もって神殿内の詳細な配置を教えていたのかな?」
「……では、早々にその者の首は刎ねたのでしょうね?」
「いいや、魔力を封じて投獄したよ。色々と尋ねないといけない事があるからね」
「そうですか……」
王太子は思ったような反応が得られなくて面白くなかったのか、不満そうに首を傾げると、ディアンの背後へと声をかけた。
「ガーディ、あれを持って来てくれないか?」
「かしこまりました」
頭からすっぽりとローブを被り、陰影に隠れるように部屋の隅に立っていたガーディは一旦退室すると、何かを手にして戻って来た。
そして、ガーディが王太子とディアンの間にある応接テーブルの上に恭しく置いたのは、ディアンがザックへと託した元・魔剣と大切なペン。
血に塗れたそれらを見たディアンは目を細めた。
「セルショナード王の名代として訪れていた騎士が、なぜか我が王家に伝わる宝鏡――王国建国の折に下賜された神鏡について調べていたみたいなんだけど、いつの間にか姿を消してさ。その騎士が持っていた物だけど、それらは君のだろう? 大切にしている物だって聞いたから、届けようと思ってね」
「それはお気遣い頂き、ありがとうございます。しかし、どこでこれを?」
再び闇に溶け込むように部屋の隅に立つガーディにチラリと視線をやり、ディアンは尋ねた。
「それは聞くまでもないんじゃないかな? それに、もう正直に言っちゃえば、僕は君を苦しめたいんだよ。君の大切な皇帝陛下がいつ壊れるかと楽しみにしていたのに、せっかくのいい所で邪魔が入ってしまったからね。でも君の方がよっぽど面白いんじゃないかと思ってさ。どうすればいいのかな? アンジェリーナ? レナード君? 君が拒めば拒むほど、僕は君に代償を払わせたく――」
「ディアン!!」
王太子の言葉に割り込むように聞こえたのは、差し迫ったジャスティンの声。
その声に、ディアンは目の前に置かれた剣の柄を握りかけた手をピタリと止めた。
「――ディアン、ペンを取りなさい」
「……はい」
続いたジャスティンの言葉にディアンは軽く瞑目すると、素直に返事をして剣から隣にあるペンへとゆっくりその手を移した。
そして、血に汚れたままのペンを定位置となっていた胸元へと戻す。
「ガーディ、お前も退け」
「はい」
つまらなさそうに唇を歪めた王太子の命令を受けて、ガーディはその手に在る発動しかけていた攻撃魔法を中断した。
それを見届けた王太子は闖入者であるジャスティンに向けて問いかけた。
「この国では客の部屋に許可もなく入って来るのは許される事なの? ちょっと失礼じゃない?」
「ご不快な思いをさせてしまい申し訳ありません。もちろんノックはしたのですが、お返事がなかったものですから、何事かあったのかと心配のあまりこのような無礼を働いてしまいました」
深く頭を下げるジャスティンに、王太子は軽く手を振った。
「まあ、別にいいよ。それよりも心配してくれてありがとうと礼を言うべきなのかな? さすが皇帝陛下の一の騎士は気が利くね。――で、何の用なの?」
「……はい、実は宰相であるディアンを多くの者が必要としておりまして。申し訳ございませんが、ディアンが執務に戻る事を許して頂きたくお願いに上がりました」
「ああ、それは悪かったね。もちろん構わないよ。十分に楽しい時間は過ごせたからさ。ありがとう、ディアン君」
「いいえ、こちらこそ。貴重なお話をして頂いただけでなく、わざわざ私の大切なペンを届けてくれたのですから、お礼を申し上げなければならないのは私の方です。ですが、私の役割は剣を握る事ではございませんので、その剣は必要ありません。――先程は少々取り乱してしまい、申し訳ありませんでした。それでは、これで失礼致します」
立ち上がって深々と頭を下げたディアンに並び、ジャスティンも退室の礼を取ると扉へと向かう。
「――ああ、そうそう……」
わざとらしく王太子の口調を真似て呟いたディアンは扉の前で立ち止まると、ソファの肘かけに凭れて頬杖をついた王太子へと振り向いた。
ジャスティンはそんなディアンへ窘めるような視線を投げかけたが、そのまま黙って先に出て行く。
「申し訳ございません、殿下。大切な事を一つお伝えするのを忘れる所でした」
「……何?」
「遅くなりましたが、陛下との面会の場がようやく調いました。明日の昼の刻になりますので、そのおつもりでいらして下さい。ハナ様もご臨席なさいます」
「――それは確かに大切な事だね。思い出してくれて嬉しいよ」
その嫌味にディアンは爽やかな笑みを返して退室した。
王太子もそれ以上は何も言わずにその背を見送り、ルークの近衛達が入れ替わりに戻って来ても尚、閉じられた扉を見つめていたのだった。