116.明日へ向う勇気。
「ねえ! 田中先生、辞めさせられたって!!」
「ええ!? それって小泉のせいって事!?」
「そうだって!! 小泉の父親が怒鳴り込んで来たから!!」
「うわ! サイアクー」
「小泉の家って、寄付金すごいらしいからね」
「マジで!? それじゃ先生達も逆らえないよねー」
以前から音楽教諭が花をひいきしていると陰口を叩く生徒はいたのだが、それが合唱コンクールの騒動で一気に大きく広がってしまった。
そして始まる陰湿な嫌がらせ。
「クスクス。小泉さんどうしたの?」
「あ、もしかして上履きないの? やぁだ、どうするぅ?」
「でも、小泉さんのおうちってお金持ちだから平気だよねぇ?」
直接危害を加えられる訳ではない、誰の仕業かはわからないようなあざとい嫌がらせ。
それでも花は大人の誰にも打ち明ける事なく、黙って耐えていた。
また騒動にしたくないと思って。
でもそれは言い訳。
本当はいじめを受けていると父親に知られたら、また怒られてしまうと思ったから。
自分がいじめられるような人間だと知られるのが恥ずかしいから。
だけど本当に本当は気付いて欲しかった。庇って欲しかった。
毎週のように上履き代やノート代を母親にお願いするのに。
教室でも運動場でもいつも一人でいるのに。
助けて!
口から飛び出しそうになるその言葉を、何度も何度も喉の奥に押し込めた。
その度に息が詰まって苦しくなる。
だから毎晩、明日が来ませんようにと眠る前に必死で祈った。
それでも朝はやって来る。
起き上がるのが辛い、お腹が痛い、玄関から足が竦んで動けない。
「花ちゃん、悪いけどもう話しかけないで。私まで仲間外れにされるから」
幼い頃から仲良くしていた子にそう言われた時も、花はただ黙って頷いた。
学校では呼吸さえも上手く出来なくて、帰宅すると酸素を求めるように急いでピアノに触れ、友達と遊ぶ代わりにピアノと遊んだ。
ピアノは花の心の拠り所。
そんな毎日がもうずっと続いていた。
母親は心配そうに顔を曇らせてはいたけれど、何も言わない。
そうして美津が亡くなってから一カ月が過ぎた頃、花宛てに美津の息子さんから封書が届いた。
ようやく落ち着いて美津の遺品を整理していたら出て来たのだと、遅くなった事を謝罪する手紙と同封されていたのは、美津から花への最後の手紙。
『 花様
お元気ですか?
私はちょっとばかり風邪をこじらせたのですが、ご心配には及びません。どうも年を取ると、周りが大げさになって困りますね。
ところで先日、テレビでこんな事を言っていました。
幸せな事と、不幸な事は半分ずつ、全ての人に平等に訪れるのだと。
しかし、私はそのようには思いません。
不幸の神様はどうやら笑顔が嫌いなようですから、いつも笑顔でいると、辛い事も悲しい事も逃げて行くのですよ。
私は身をもって体験していますので、間違いありません。
以前、とても悲しい出来事があったのですが、その時も不幸に負けないように笑顔で頑張っていると、大きな幸せが舞い込んで来ました。
お名前の通り花のように笑う、とても可愛い赤ちゃんに出会えたのです。
花様の笑顔は私をどんどん幸せにして下さいましたから、花様にはもっと幸せがやって来るに違いありません。
どうか花様がいつも笑顔で、幸せでいられますように、私も笑顔でいますからね。
美津 』
最後の方は涙で翳んでよく読めなかった。
美津は酷い。
いつも笑っていてと言いながら、泣いてしまうような事ばかり言うのだから。
だけどもう今度こそ泣かない。涙を流すのは嬉しい時だけ。
楽しい事だけを考えて、前向きに生きよう。
それでも駄目なら諦めて笑えばいい。
花はそう強く決意して、懸命に流れる涙を拭った。
*****
その日から花はいつも笑顔を絶やさないようにした。
悲しくても、辛くても笑う。
涙が出そうな時はお笑い番組を見て声を出して笑い、いつも楽しい事を考えていた。
クラスメイト達は何をしても堪えた様子のない花に飽きたのか、次第に嫌がらせはなくなっていった。
そして中等部に上がると、コンクールでの騒動を知らない中学受験組がクラスメイトの大半を占め、花にもそれなりの友人が出来た。
だがどうしても、心を許せる相手はいなかった。
誰かが誰かの悪口を言う。
だけど、誰かは誰かと仲良くしている。
花の気持ちは冷えていくばかりで、いつしか諦める事に慣れてしまっていた。
*****
誰かの囁く声がする。
信頼しても裏切られるだけ。
期待しても失望するだけ。
悩むだけ無駄でしょう?
深い闇に沈みながら耳を澄ませば、囁くそれは自分の声。
全てを諦めて手放してしまえば楽になれる。
このままずっと、深く闇の中に沈んでしまえば……。
『――ダメ!!』
再び響いた声に、花の心は一気に浮上した。
体の奥から聞こえてくるような、どこか懐かしくてあたたかな声。
心に愛しくて大切な気持ちが芽生えてくる。
そう、そうだ。
私には美津がいた。沙耶がいた。
そして――。
**********
突然、眩い光が煌めき、一瞬後に大きな雷鳴が轟いた。
ハッと我に返った花が驚いて窓の外を見ると、大粒の雨が降り出していた。
居間のソファで本を読んでいたはずが、いつの間にか夢を見ていたらしい。
「ハナ様、春雷でございます。このような雨が冬の気配を洗い流し、風が南から春を運んで来るのです」
「……そうなんですね。あまりに突然で驚いてしまって……」
安心させるような穏やかな声で説明するセレナに、なんとか笑みを浮かべて応えた花はそっと胸元に手を当てた。
最近、不安になると縋るようについクリスタベルの真珠に触れてしまう。
そんな花を見たセレナとエレーンは一度顔を見合わせると、花が座るソファまで近づいてその足下に膝をついた。
「セレナ? エレーン?」
戸惑う花の手をセレナは優しく包み込むように握ると、強い光を宿した瞳で見上げた。
「――このような事を申し上げるのは、差し出がましい事と存じておりますが……。ハナ様にはずっと何かお心に懸かる事がおありなのではございませんか? 私達には大した力もありませんが、それでもハナ様の御為に少しでも力になれないでしょうか?」
セレナの真剣な言葉を聞いて、エレーンの真摯な眼差しを受けて、花の瞳から一気に涙が溢れだした。
「ハナ様!?」
「わ、私……」
込み上げる感情に喉が詰まって、花の涙にうろたえるセレナとエレーンに上手く応える事が出来なかった。
セレナとエレーンはいつも花の事を気遣い、大切にしてくれる。
花にはそれがとても嬉しくて有難かった。
それでも初めのうちは、感謝しながらも心の奥深くでは冷めていた。
これは私が皇帝陛下の側室だから、『癒しの力』を持っているからと。
花は傷付く事を恐れるあまり、人当たりのいい柔らかな高い壁を築いて自分を守ってきた。
沙耶が強引にその壁を乗り越えて入って来るまで、誰にも気付かせず、寄せ付けずにいたのだ。
中学三年生の新学期に帰国子女枠で編入して来た沙耶と、所属していた吹奏楽部で初めて出会った時も、花は期待など何もないうわべだけの笑顔で接した。
しかし、なぜか沙耶はいつも花の側にいるようになった。
それがどうしてだったのかは未だにわからない。
ただ屈託のない沙耶と、その沙耶の奏でる明るく楽しい音楽に、花の傷付いた心も次第に癒され、心から笑い合える仲になったのだ。
そしてようやく本来の前向きな明るさを取り戻した花だったが、やはりどうしても沙耶以外の人間を信用する事はできなかった。
――― だけど……。
本当は裏切られるのが怖くて、傷付く事に脅えて、諦めたふりをして逃げていただけ。
臆病で他人を信用する事から逃げて、嘘で固めたうわべだけの付き合いをしていた自分こそが厭な人間になっていたのに、他人の厭な部分を見つけては軽蔑していた。
――― 私はなんて傲慢な人間だったのだろう。
「ご、ごめ……ごめんなさい……」
「ハナ様?」
花の手を握るセレナの手に力が入り、エレーンも二人の手に手を重ねて、その瞳に益々心配の色を滲ませた。
扉の内側に立つジョシュも酷く心配した様子で花を見守っている。
側室だからとか、力があるからとか、きっかけなんてどうでもいい。
今、こんなにも自分を心から気にかけてくれる人達がいる。
それはとても大きな幸せ。
「……ありがとう…ありがとうございます……」
「ハナ様……」
「私……セレナとエレーンが…大好き……」
以前にも同じ言葉を口にした。
それでももう一度、あの時以上に強く大きなこの気持ちを伝えたかった。
「ジョシュも、カイルもコ―ディも、みんなみんな大好き……」
思いがけず自分へと向けられた花の言葉に、ジョシュはかすかに驚きを見せたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。
花の胸元にある真珠が温めてくれているように、心が軽くなる。
体の奥深くにずっと溜まっていた澱のようなものが、喜びの涙と共に流れて消えていく。
今ならわかる。
沙耶だけじゃない、勇気を出せばもっと信頼できる人達ができたのだと。
全ての壁を取り除く事は無理でも、そこから一歩踏み出せば人と人は繋がっていく。
傷付く事はあるけれど、それ以上の喜びもあるのだ。
いつの間にか雨は止んで、澄んだ陽射しが部屋の中を明るく輝かせていた。
それから不意に、花の手からセレナとエレーンのぬくもりが消え、すぐに大きくてあたたかな胸に抱き寄せられた。
そして聞こえる優しい声。
「どうした?」
心配そうに顔を曇らせながらも微笑むルークを見上げた花は、再びその瞳から涙を溢れさせた。
「ルーク……」
初めて出会った時から強く心惹かれた人。
ルークの為なら傷付くことだって怖くない。
その気持ちが広がって、前へと踏み出す勇気を持てたのだ。
ルークにギュッと抱きついて静かに涙を流す花を、ルークは何も言わずただ黙ってゆっくりその背を撫で続けていた。
気が付けば、皆は姿を消している。
「……みんなが優しいんです」
「そうか……」
やがて口を開いた花に、ルークは穏やかに応えた。
「でも私はすごく厭な人間なんです」
「そうか?」
「そうです。すごく臆病で傲慢で卑怯なんです」
花の告白を聞いたルークはその柔らかな頬に手を添えて、未だ涙に滲んだ瞳を真剣な表情で見つめた。
「例えハナが憶病で傲慢で卑怯だとしても、ハナがハナであればそれでかまわない。俺はそのままのハナが好きだ」
「ルーク……」
優しいルークの言葉に、またこぼれ落ちそうになる涙をルークはその唇ですくい取る。
「……ありがとうございます」
唇を離して心配そうに見下ろすルークに、花は顔を赤くしながらも心からの笑みを浮かべて応えた。
ルークはそんな花を見て眩しそうに目を細め、その唇に口づけようとゆっくり顔を近付け、そして――。
「あっ!! ルーク、虹です!!」
「……」
嬉しそうな花の声に遮られてしまった。
花はルークではなくその後ろを見て顔を輝かせている。
少し複雑な気分になりながらもルークは小さく息を吐くと、立ち上がって花の手を引いた。
「ルーク!! 虹が二つも懸かっています!! すごいですね!?」
「ああ、珍しいな」
窓辺に立って嬉しそうに笑う花を見て、隣に立ったルークもまた嬉しそうに微笑んだ。
「きっとこれから良い事がいっぱいありますね!」
「そうなのか?」
「そうですよ。二重虹は吉兆なんです!――あっ、みんなが気付いていなかったらもったいないので、教えて来ます!」
そう言って侍女達の控室へと向かう花を、ルークは少し残念そうに、それでも安堵して優しく見つめていた。
窓の外は先程までの雷雨が嘘のように穏やかに晴れ渡っている。
その空に懸かる虹のように花の心は鮮やかな彩りに輝いていた。
そしてこの日を境に、花が深い漆黒の闇に沈んでいくような夢を見る事は二度となかったのだった。




