111.呆気ない幕切れ。
「陛下、何をおっしゃっておられるのです? なぜ、兄上が? なぜ、私が――」
皇帝の執務室に呼び出されたルークは、今しがた告げられた内容に愕然としていた。
その様子を見たフランツ――ルークの兄はかすかに苦笑を洩らした。
普段のルークは無表情で感情を表に出す事など滅多にない。
それ故に幼い時から何を考えているのかわからないと評され、最近は急激に増していく力と共にその存在を恐れられているが、本来のルークは繊細でとても優しい人間なのだ。――自分とは違って。
だがこの先、その優しさがルークの枷となり、ルーク自身を蝕んでいくのだろう。
その皮肉に、込み上げてくる笑いをフランツは必死で抑え、穏やかな口調でルークを宥めにかかった。
「ルーク、もう決まった事だ。近く朝議の場で陛下が言明なされるから、お前も心得ておきなさい」
「……兄上もなぜ黙って従おうとなさるのです? 今まで兄上がどれ程この国の為に力を注いでこられたか。それを、その兄上が廃太子などと……」
「ルーク、そなたの魔力はすでにフランツを超えておる。帝位継承の定めに従い、そなたが皇太子となるは必然。いつまでも駄々を捏ねるは童のようで見苦しい」
物憂げな中にも苛立ちを含んだ皇帝の――ルークの父親の声は重くその場に響く。
「定めに従うならば、そもそも陛下が――」
「ルーク!!」
ルークが思わず口にしそうになった言葉を、フランツが今度は厳しく遮った。
しかし、皇帝はそんな二人の様子を気にも留めず用は済んだとばかりに執務室を出て行き、重い沈黙の中にルークとフランツは残された。
「――父上は私を恐れておられるのだ」
小さく溜息を吐いて、暫く続いた沈黙を破り口を開いたフランツに、ルークが焦れたように詰め寄る。
「それは……兄上のお力が父上よりも勝っておられるからですか? でしたら父上こそ定めに従い兄上に譲位するべきなのです!」
「……ルーク、そうではない」
「兄上?」
皮肉気に微笑んで皇帝の執務机に浅く腰をかけたフランツを見て、ルークは眉を寄せた。
殆ど政務を行う事のない皇帝の代わりに、皇太子であるフランツが長い間その任を担ってきたのだ。
その指導力と道義に満ちた人柄で臣下からの信も厚く、民からの人気も高い兄をルークは尊敬し、慕っていた。
しかし、なぜかルークは今目の前にいる兄に違和感を覚えた。
「私に双子の弟がいたことはお前も知っているだろう?」
「……はい」
「弟のエーベルは七歳の時に亡くなった。だが、あれは……私が殺したのだ」
「な――!?」
どこか冷めたような、淡々とした口調で語る兄の言葉にルークは絶句した。
今のは聞き間違いではないのか、それとも冗談なのかと必死で兄の顔を探るが未だ皮肉げに歪んだ笑みが浮かんでいるだけだった。
「あれは事故だと誰もが思っていたが、父上――陛下だけはどうやらご存じだったようだな。それで……今はもう初めから存在しなかったかのように皇籍からさえもエーベルは名を消されてしまった」
ルークの困惑にも構わずに話し続けたフランツは、ゆっくりと立ち上がった。
「父上が恐れておられるのは私の中に在るサンドルの血。――ルーク、サンドルの双子は神の御子などではない。ただ……呪われているだけだ」
そう言い捨てて、フランツは茫然としているルークを残し執務室から出て行った。
**********
「邪魔な記憶だな……」
サンドル王国主神殿の奥――居住区になっている区画の一室で浅い眠りから目覚めたクラウスは、一人呟いて窓辺へと近づいた。
この国はどこよりも早く春が訪れる。
その暖かく気だるげな午後のひと時、先程まで響いていたマグノリアからの澄んだ音色に共鳴したかのように光り輝く外の景色をクラウスは眺めた。
「アリーシャス……」
クラウスは皮肉気に唇を歪め、現れた気配の方へと振り向いた。
「そろそろ潮時でしょうかね?」
優雅に応接ソファへ腰をかけた王太子は、ずっと部屋にいたかのように自然な口調でクラウスへと問いかけた。
「……今回はかなり手間をかけたのだがな。しかしまあ、まだわからぬ。拠るものが大きければそれだけ失った時には――。ああ、そうか。あの魔族の坊やが森へと帰ったからか……」
「そうですね」
突然話題を変えたクラウスに訝る事なく王太子は頷く。
「相変わらず……甘いな」
クラウスは再び窓の外を眺めて、楽しそうに笑った。
**********
ルークは執務椅子の背にもたれ、入室の許可を得て入って来たディアンをしばらくの間見つめていた。
ディアンと共に執務室へと舞い込んだ温かな風が、マグノリアにもうすぐ春が来ると告げている。
「陛下、私をお呼びと伺いましたが……そんなに私の顔をご覧になりたかったのでしたら、後ろへ振り向けば宜しいでしょう。少々気が抜けておりますが、似たようなものがありますよ?」
「いや、何も抜けてないだろ? むしろ愛と勇気と常識を足してくれ」
「お前達の鬱陶しい顔にはうんざりだ。よってその存在をどうにかしろ」
「いやいや、存在はどうこう出来るものじゃないからな。そこはいい加減受け入れてくれ」
ディアンの揶揄と応えたルークの言葉に、後ろに立つレナードが異を唱えた。
が、いつもの如くレナードの言葉を華麗に流し、ディアンは話題を元に戻す。
「ところで陛下、御用は何なのでしょうか?」
「ああ、先程リカルドから書簡が届いた」
「ひょっとして文通なされているんですか? 気持ち悪いですね」
「気持ち悪いのはお前の頭だ。どうせ内容はわかっているだろう?」
「……問題児が迷子になった件ですか? あちらも大変ですねぇ」
「だが、迷子は一人じゃないだろう?」
ルークの問いかけに、ディアンは何の事かわからないと言った顔で肩を竦めた。
その強情さにルークは呆れたように溜息を吐く。
「今更……『果て』の崩壊を前に、なぜ魔族が動かないのかなどと調べてどうなる? そんな理由を付けてまで森へと帰したのは心配だったからじゃないのか?」
「……邪魔だったからですよ」
いつもの微笑みを浮かべたディアンにルークはもう何も言わず、レナードへと振り向いた。
「レナード、ヴィシュヌの剣を持って来てくれ」
「わかった」
すぐに頷いたレナードは剣を取りに転移した。
リコよりセルショナードの宝剣であるヴィシュヌの剣を預かった日からずっと、ルークが剣に触れる事はなく、レナードが大切に保管していたのだ。
真の主が現れた剣は本来の力を取り戻し、人間を脅かす魔を戒めている。
ルークの力であと一押ししてやれば、各地に出没している力の強い魔物も完全にその姿を消すだろう。
レナードが消えると、ルークはディアンに再び問いかけた。
「怖いのか?」
「――陛下は私を買い被っていらっしゃる。そのような上等な感情は私にはありませんよ」
唐突な内容だったが、ディアンには十分に伝わったようだ。
しかし、その答えにルークは顔をしかめた。
「お前こそ自分を卑下しすぎだ。ディアン、お前は……兄上とは違う。レナードだっているんだ。だからお前は絶対に大丈夫だ」
確信に満ちた強い口調で諭すように告げるルークの言葉に、ディアンはしばらく沈黙していたが、やがて滅多にない柔らかな笑みを見せた。
「……そうですね」
その微笑みは重苦しかった部屋の空気を和らげる。
と、そこへレナードが戻ってきた。
「悪い、待たせたな」
「……」
「……」
「あれ? 待ってた……よな?」
急ぎ戻ったレナードは待たせた事への謝罪を口にしたのだが、二人は何も応えない。
かと思いきや、ディアンがなぜか残念そうに溜息を吐いた。
「レナード、貴方が何かと間が悪い男だということはよく知っておりますから、今更どうこう言うつもりはありません。ですが、これからはわかりやすいように貴方の事を間男と呼ぶ事にしましょう」
「なんでだよ!? 何か色々おかしいだろ!?」
「……お前ら兄弟はどちらもおかしいから心配するな」
いつものやり取りが始まった二人に呆れて、ルークは仲裁? に入ったが、一度大きく息を吐くと、表情を厳しいものに変えて立ち上がった。
「レナード」
呼ばれたレナードもまた表情を改めると、一歩後退して片膝を立てて跪き、両手で鞘を支えてルークへと剣を捧げた。
レナードとディアンが見守る中、柄を手にしたルークは剣が欲するままに力を注ぎ、やがて解放を求めて大きく唸り始めた剣を一気に抜いた。
瞬間――圧倒的な力が波紋となり王宮に、サイノスに、マグノリアに、そして世界へと広がっていく。
闇を払い、魔を薙ぎ倒していく力は、一瞬に煌めく風のように世界を渡り、止まることなく『果ての森』を駆け抜ける。
そして遂に『果て』へと突き当たった力はその勢いのままに『虚無』を押し戻し、それでも足掻き出ようと蠢く闇を圧した。
こうして、数十年続いた『虚無』の暴走は、この時を以って沈静したのだった。