番外編.アレックスの苦慮。
セレナは奇跡というものを目にして初めて神の存在を心から信じた。
セルショナードの急襲から始まった戦は悪化の一途を辿り、センガルの凶報に人々が嘆き悲しむ中で花が起こした奇跡は、人々を悲しみと憎しみの深淵から救い出したのだ。
月の光と共に降り注いだ花の歌声は人々を癒し、冷えた心を温め優しく包み込んでいったのだった。
そこから花を取り巻く全てが変わってしまった。
確かに、花の歌から紡ぎだされた奇跡にセレナは驚くと同時に震えるほどの喜びを感じてはいたが、今までと花が変わった訳ではない。
その思いはエレーンも護衛達も同様で、王宮中の人間が花への扱いを変えた事に苛立ちを覚えていた。
*****
「セレナ!」
セレナに呼びかけるランディを見たアレックスは、思わず柱の陰に身を隠してしまった。
――― いや、決して覗きをする訳じゃないんだけど……。
自分に虚しい言い訳をしながらも、結局そっと二人の様子を窺う。
アレックスはここ最近二人の間に流れる空気が以前とは違う事に気付いたのだが、兄として友人としてどうすればいいのか分からないのだ。
「……ランディ様」
所用で後宮から出ていたらしいセレナは驚いたように立ち止まりランディへと振り向いた。
そんなセレナの頬はほんのりと赤く染まっている。
珍しく人のいない回廊でランディはセレナへと歩み寄り、いつもは厳しい表情を緩めて微笑んだ。
「ずいぶん殺伐とした気を発しているな。それに眉間にしわが寄っている。」
ランディはからかうようにセレナの眉間を人差し指で軽く突いた。
「いいえ! これは、その……」
真っ赤になって眉間を慌てて隠したセレナの頭を、今度は労わるようにポンポンと叩く。
「大変だろうが、あまり思い詰めるなよ」
「……はい」
それだけ言うと、ランディは更に顔を赤くして頷いたセレナに再び微笑みかけて去っていった。
――― なんだ、それだけか? でもまあ……。
アレックスはセレナが初恋相手であるランディの事をずっと胸に秘めていたのは気付いていたのだが、ランディが昔のように妹としてセレナに優しくしているのか、それとも久しぶりに再会したセレナに別の感情をもって接しているのかはよく分からない。
どうもはっきりしない関係なのだが、それでもランディのお陰でセレナの尖っていた気が和らぎ、少し肩の力が抜けた様子にアレックスは安堵した。
――― だがこの先、ハナ様の侍女として今以上に苦労する事になるだろうな……。
この階級意識の強い王宮で、下位貴族出身である自分が経験したような苦労を妹にもさせてしまうのかと思うと、あの時の判断は間違っていたのではないかと悔いてしまう。
アレックスは嫡男として十代の頃から父親の後を継ぐべく書記官を目指していたのだが、三十歳を過ぎた頃から先祖返りとでも言うのか、かなり強い魔力を発現させ始め、急きょ進路を変更して騎士団入団を希望した。
このまま安全に過ごして下位貴族である男爵家の家督を継ぐよりも、騎士となって功績を上げ、認められた方が両親や妹により良い暮らしをさせる事が出来ると思ったのだ。
しかし、無事に入団を果たしたアレックスは、騎士団が思い描いていたようなものではなかった事を知った。
やはり極めて高い魔力が求められる騎士団には必然的に上位貴族以上の子息が多く集まっており、特権階級特有の傲慢さで下位貴族出身のアレックスを蔑む者達がいたのだ。
その中にあってランディは近衛隊長のレナードに次ぐ程の良家の出身でありながら気さくで親しみやすく、当初アレックスが思い描いていた騎士――剛健にして高潔そのものだった。
そしてアレックスはこの尊敬すべき友人に恥じないようにと周囲の雑音を無視して努力を重ね、遂にその実力と人格を認められて近衛隊への昇格を果たした。
皇帝の側近くに仕える近衛騎士は並の騎士よりも秀でた魔力と、何よりも廉潔な人格を求められる。それ故に騎士の中でもほんの一握りにしか与えられない栄誉であった。
近衛に昇格してからはあまりに忙しく、隊舎に入舎したアレックスは実家に戻る事がなかなか出来なかったのだが、それでもセレナが婚約相手の子爵をどうしても好きになれず悩んでいる事には気付いていた。
そこであの日、急ぎ花の侍女になれそうな娘を探していたレナードに、差し出がましい事と思いながらもセレナを推挙したのだった。
――― セレナは何でも自分の中に溜めこんで我慢するからなあ。もっと自分の意見をはっきり主張すればいいんだが……。
小さい頃から我が儘を言う事のなかった年の離れた妹が、アレックスは心配で仕方がなかったのだった。
**********
「セレナ!! ハナ様と陛下がついに――!!」
「ええ!」
嬉しそうに笑うエレーンにセレナもまた嬉しそうに笑い返した。
正直な所、花の首元に歯形を見つけた時には「初心者相手に何をやっているの!?」と、心の中で激しく皇帝を罵ったのだが、なんとか微笑みを浮かべてエレーンと目配せをすると、何でもない風を装ったのだった。
今夜は二人でコッソリ乾杯しようと提案するエレーンに頷いて、セレナは昼食のメニューを確認する為に青鹿の間の外に控える後宮付きの侍女の元へと向かった。
直接花の世話をするのはセレナとエレーンの二人だけだが、青鹿の間のすぐ側にある部屋には大勢の後宮付き侍女や小間使い達が控えている。
――― 陛下のお力も安定しておられるそうだし、これで全てが良い方向に進むわ。
それはセレナがそう思った矢先の出来事だった。
花が攫われたのだ。
目の前で花が襲われたというのに、何も出来なかった自分をセレナは酷く責めていた。
心配するアレックスやエレーン達の前では気丈に振舞いつつも、重く圧し掛かる皇帝の気を感じながら、いっその事もっと魔力が弱ければこのまま死んでしまえるのにとさえ思う事もあった。
だが、再び奇跡は起きた。
セルショナードに囚われているはずの花の歌声が風に乗り、月の光に輝いてマグノリアに降り注いだのだ。
セレナを慰めるように優しく纏う淡い光に、涙が止まらなかった。
――― ハナ様は必ずお戻りになられる。
強く確信したセレナはようやく笑顔を取り戻して皆を安堵させ、心配をかけていた事を謝罪すると、さっそく前向きに行動を始めた。
そしてエレーンと共に花が戻る事を信じて月へと毎日祈りを捧げ、待ち続けたのだった。
**********
花がマグノリアに――皇帝陛下の許に無事に戻り、戦争も終結したと知らせる吉報に国中が歓喜した。
更に花が奏でるピアノの音色に人々が希望を持ち、ようやく明るさを取り戻した王宮の回廊を、アレックスもまた心軽く騎士団の鍛錬場へと向かっていたのだが、少し先にいる一団に気付いて急ぎ柱の陰に身を隠した。
――― 俺……こんなのばっかりだな……。
自分の行動に情けなく思いつつも、結局そっと様子を窺う。
そこには上位貴族の令嬢達四人に取り囲まれるようにして立っているセレナがいたのだ。
「あなたは一体いつまでハナ様の侍女でいる気なの?」
「たかが下位貴族の娘がいつまでもハナ様の侍女でいるなんて図々しい!!」
セレナに罵声を浴びせている彼女達は、最近結成されたばかりの『ハナ様親衛隊』の面々であった。
初めの頃は花に対して悪意を持つ者が殆どだったのだが、『癒しの力』が知れ渡るようになってからはその歌声に魅了され、慕う者達の方が遥かに多くなっていたのだ。
特に年若い令嬢達の中には崇拝していると言ってもいいほどに心酔している娘達もおり、花の元にピアノが届けられてからは遂に『ハナ様親衛隊』なるものが結成されたのであった。
ちなみにその許可を令嬢達から求められた花は、驚きのあまり飲んでいた紅茶に激しく咽せてしまったらしい。
結局、花は頑なに固辞して珍しく譲らなかったので、『ハナ様親衛隊』は非公認なのである。
「ハナ様はお優しいから、あなたで我慢なさっておられるのでしょうけど、きっと恥ずかしい思いをなされているはずだわ!」
「さっさとあなたから暇を頂きなさいよ!!」
通常、位の高い妃には身分の高い貴族の娘が侍女として仕えるものである。
その為、花が皇帝の妃として認められ、その地位を確立していくと同時に、下位貴族出身のセレナでは不足だと言う声が上がるようになっていた。
所用でセレナが青鹿の間から一人出れば、これ見よがしに投げつけられる嘲笑と侮蔑。
アレックスは黙って耐えている妹を庇う事も出来ず、何もしてやれない自分が歯がゆくて仕方なかった。
そして今もまた、出て行くことも叶わず見ているしかないのだ。
だがセレナは怯む事なく、真っ直ぐに背筋を伸ばして令嬢達を睨み返した。
「確かに私の貴族としての身分は低いですが、侍女としての能力はもちろんの事、生活魔法やその他の魔法を扱う魔力は皆様方以上のものだと自負しております。ですから、この先も誇りをもって私はハナ様にお仕えさせて頂きます」
「な……なんて生意気な……」
「わ、私達にそんな態度をとるなんて……」
予想外のキッパリとしたセレナの態度と強気な発言に令嬢達は狼狽しながらも、必死で反駁しようと試みるのだが後が続かない。
セレナはそんな令嬢達に「では、失礼します」と述べると、その場から堂々と歩み去った。
「セレナ……」
令嬢達の姿が見えなくなった所で、アレックスはセレナに声をかけた。
セレナは一瞬、ビクリと肩を揺らしたが、振り向いた時には笑みを浮かべていた。
「お兄様?……ひょっとして、今のご覧になっていました?」
「ああ、だが……何もしてやれなくて悪かったな」
「いいえ、お兄様が気になさる必要はありません。私は大丈夫ですから、心配なさらないで下さい」
そう言って更に深く微笑むセレナには確かに落ち込んだ様子は見られない。
「だが、俺がそもそもお前を侍女にと隊長に――」
「お兄様!!」
ずっと抱いていた後悔を吐露しようとしたアレックスの言葉をセレナは強い口調で遮った。
「私はお兄様にとても感謝しております。ハナ様にお仕え出来る事がこの上ない喜びなのですから。その為なら、先ほどのような事は大した問題ではありません。確かに……ハナ様の侍女として相応しくないのではと悩んでいた時期もありました……でも先日、ハナ様から素敵なお言葉を頂いたんです。だからもう迷う事はありません」
「そうか……」
――― ハナ様は聡いお方だから、セレナを取り巻く状況に気付いていらっしゃるのかも知れないな……。
アレックスはそう思い、嬉しそうな妹の顔を見下ろして微笑んだ。
「それに……ランディ様にも声をかけて頂いて、自信を持てるようになりました」
「…………そうか」
続いたセレナの言葉を聞いたアレックスは咄嗟に答える事が出来なかったのだが、頬を染めてはにかむ妹を見てゆっくりと頷いた。
――― なんだ、やっぱりそうなのか……じゃあ、もう俺の出る幕はないなあ……。
成長した妹が嬉しくもあり、寂しくもあった。
兄心は複雑である。
だが結局、二人の仲は恋敵の登場にも全く進展する事なく、アレックスは却ってもどかしい思いをする事になったのだった。
そしてセルショナード王が発って三日後、セレナがランディに一通の書簡を届ける為に鍛錬場へとやって来た。
何でもその書簡は、ザックが「私が発ってから三日後に渡して下さい」と、花に事付けていたのだそうだが……。
「――あの野郎……」
その場ですぐに開封して目を通したランディは唸るように低く呟くと書簡をグシャリと握り潰し、あっという間に灰にして消してしまった。
「ランディ様!?」
驚くセレナにランディは慌てて表情を緩めると、何事もなかったかのように微笑んだ。
「いや……わざわざ、すまなかったな。ありがとう」
「いいえ、そんな……。それでは、私はこれで失礼致します」
「……ああ」
たったそれだけのやり取りしかない二人の様子を見たアレックスは、焦れたように小さく嘆息した。
が、更にその様子を見守っていた近衛の面々は呆れたように溜息を吐いた。
セレナとランディの関係は色恋沙汰に疎いレナードが知るほどに隊の食堂でも話題になっているのだが、同時にアレックスの心配性ぶりも話題になっているのだ。
「いい加減に妹離れして、早く嫁さんもらえばいいのになぁ……」などと、仲間達に心配されている事には気付いていないアレックスだった。