番外編.セレナの事情。
――― 普通だわ……。
それが、初めてセレナが花に面した時の印象であった。
多大な期待をしていた訳ではないが、それでも皇帝陛下のご側室になられる方は非の打ちどころがないご令嬢なのだろうと勝手に想像していたセレナは拍子抜けしたのだった。
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その日の早朝、セレナの実家は兄のアレックスより遣わされた先触れの使者がもたらした知らせに大騒ぎになった。
兄の所属するマグノリア帝国近衛隊の隊長であり、最上位貴族であるユース侯爵の実弟で自身も爵位を持つレナード・ユース卿が訪れると言うのだ。
セレナの父親は王宮門で書記官として働いてはいるが、かなり下位にある貴族の為、上位貴族以上の者が屋敷に訪れる事など滅多にない。
屋敷中が騒然とする中、セレナも急ぎ起き出して身支度を終え、どうにか体裁を整えた頃に訪れたレナードは、爽やかで偉ぶった所もない噂通りの好人物だった。
そして、早朝から訪問した事への非礼を詫びた後に切り出したレナードの用件は驚くべきものであった。
今まで貴族達からの再三にわたる申し入れを無視して、妃を娶る事を頑なに拒んでいた皇帝がようやく迎える事になった側室に、侍女としてセレナに仕えて欲しいというのだ。
通常ならばこの上ない程名誉ある要請に喜ぶべきなのだろうが、セレナの両親は恐れ慄いた。
それもそのはず、皇帝の側室に仕える事になれば、必然的に皇帝とも接する事になる。
皇帝は冷酷非道との噂を裏付けるかの様に、ほんの数日前にもとある伯爵令嬢を不敬罪で重く罰したばかりなのだ。
セレナの両親にしてみれば、大切な娘を危険に曝すだけにしか思えない話だったのだが、セレナにとっては光明を見出したようであった。
――― これで婚約を解消できる!
セレナには結婚を間近に控えた婚約者がいた。
相手は三十八歳年上の中位貴族になる子爵で家格から言えば玉の輿になるのだが、セレナにはどうしてもその相手が好きになれなかったのだ。
だからと言って、良縁だと娘の為に喜んでいる両親に嫌だとは言えなかった。
そして五十歳を過ぎ、いよいよ婚期の迫っていたセレナにとって、このレナードからの要請は誰も傷付ける事のない唯一の逃げ道になった。
皇帝の妃に仕える侍女になれるなど非常に栄誉ある事なので、その為に縁談を断ったとしても相手の面目を保つ事が出来る。
――― たとえ……ご側室になる方が嫌な女性でも、この先どのような扱いを受ける事になるとしても、このまま生理的に受け付けない相手と結婚するよりはマシよ。それにお兄様や、この明らかに人の良さそうな近衛隊長様がそんなに酷い話を持って来るとも思えないし……。
そう覚悟を決めたセレナは、心配する両親に暫くの別れを告げ、そのまま王宮へと上がった。
そこでレナードから侍従長のジャスティンを紹介され、やはり悪い話ではないと確信すると共に、同じく侍女として仕えるエレーンとも挨拶を交わし、上手くやっていけると安堵したのだった。
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――― それにしても、私はなんて狭量で浅はかな人間だったのかしら……。
セレナは皇帝陛下のご側室――花を知れば知るほどに当初自分が抱いた思いが恥ずかしくなっていた。
花に初めて面した時、皇帝陛下はこの女性のいったいどこに惹かれたのだろうと不思議に思ったのだ。
柔らかな物腰と落ち着いた所作からはそれなりの身分が窺えたのだが、ずいぶん大人しく容姿はいたって普通。
しかし、容姿に関しては侍女としての腕の見せ所とばかりに張り切った。
セレナもエレーンも行儀見習いの為に侍女として上位貴族の令嬢に何度か仕えた経験があったので、その知識と技術の全てを注いで花を磨き上げ、満足のいく結果が得られた事を喜んだのだ。
だが容姿なんてものはおまけに過ぎないのだと、花の人柄に惹かれていくと同時に強く思うようになっていた。
花は戸惑いを見せる事はあっても、セレナとエレーン――侍女に対しても丁寧な態度を崩さず、常に感謝の気持ちを表す。
正直な所、侍女がたったの二人で大丈夫なのかと最初は心配していたのだが、花は他の令嬢達のように我が儘を言う事も一切なく、普段は本を読んで静かに過ごすので逆に時間を持て余す程であった。
また、花が本を読む事に疲れた時などは女同士三人で他愛もないおしゃべりをして楽しんでいる。
ただ七王国のどこか――遠い地方から来たにしても、この世界に関する花の知識のなさが気になったが、セレナもエレーンも深く追及する事はなかった。
しかし、当然のことながら貴族達にとっては無視できない問題である。
花と面しては事あるごとに詮索するのだが、結局何も知る事は出来なかった。
穏やかに微笑みながら不思議と心に響く柔らかな声音で、花はいつの間にか別の話題へと転じさせて貴族達の質問を上手くかわしているのだ。
やがて貴族達は『微笑むしか能のない娘』と評し始めたのだが、セレナもエレーンもその頃には花の微笑みの中にある強さを感じ取っていた。
そして、セレナやエレーンから何とか探り出そうとする者達も後を絶たない。
セレナがレナードからの要請を受けた時には、なぜ侍女の選出にわざわざ近衛隊長が関わっているのだろうと疑問に思ったのだが、それもすぐに納得した。
花の素性やその他あれやこれやと詮索しようとセレナ達に接触して来るだけでなく、セレナ達を取り込んで花に害を為そうとする者までいるのだ。
その為にセレナの家族を利用されそうになった事も一度や二度ではない。
それらは全て兄のアレックスやレナードが対処しているのだが、セレナの家族は兄を除けば両親の二人だけなので比較的守り易いのだろう。
ちなみにエレーンはユース侯爵家の――正確に言えば、宰相であるディアンの遠縁に当たる為に心配はいらないらしい。
初めてセレナがその事を知った時、それではエレーンがあの有名な珍事件の被害者だったのかと同情しつつ、当事者に会えた事にほんのちょっと感動したのは内緒の話である。
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「ねえ、セレナ……やっぱり陛下はあの噂通り、ふ――」
「エレーン!!」
ある時、ポツリと呟いたエレーンの言葉をセレナは慌てて遮った。
本当はセレナ自身も何度か考えた事ではあったのだが、花に仕える者としてさすがにそれを口に出す事は憚られていたのだ。
『あの噂』――それは長い間、妃を娶る事のなかった皇帝に対して密やかに囁かれていた『不能、女嫌い、男色家』との噂である。
当初、セレナは皇帝の気をすっかり纏っている花を見て二人の関係を疑う事もなかったのだが、花の身の回りの世話をしているうちに気付いたのだ。
――― ハナ様と陛下はまだ……???
『女嫌い、男色家』の噂は、花に接する皇帝を見ていれば間違いだとすぐにわかる。
花を見る皇帝の瞳には明らかな愛情が映っているのだから。
「私……初日にハナ様の悲鳴を聞いた時にはとても驚いたんだけど……でも陛下ならそれもありなのかと……」
「……ええ」
エレーンの遠慮がちな言葉に、セレナも今度は頷いた。
セレナが仕えて初めての夜、寝室から聞こえて来た少し変わった花の悲鳴に「いったい何が!?」と、かなり驚き心配したのだが、不寝の番をする近衛が動いた様子もなく、一晩中ドキドキして眠る事が出来なかったのだ。
「――思うんだけど……」
口にするべきではないと思いつつ、やはり気になるものは仕方がない。
セレナが重たい口を開いた事に、エレーンは興味津々の様子で続きを待っている。
「陛下はハナ様をとても大切になさっているから……」
今までに『皇帝陛下は冷酷非道』との噂を嫌と言うほど聞いていたセレナは、初めて皇帝が花に会いに青鹿の間に現れた時には恐ろしさのあまりお茶を注ぐ手が震え、こぼさない為に非常に苦労したのだった。
だが花に優しく接する皇帝を見るうちに、その噂も嘘なのかと思うようになっていた。
そして、花を唯一の妃に選んだ事に尊敬の念さえも抱くようになったのだが、普段の皇帝を知る護衛達に言わせればその優しさも微笑みも花の前だけであるらしく、初めて目にした時には信じられずに自身の頬をこっそり抓ってみた程だったらしい。
「きっとあの夜……ハナ様は初めての事に驚きになられてしまったのよ。それで陛下も慎重になられているんじゃないかしら……」
「ああ! きっとそうね! ハナ様はとてもお若いからご経験がおありでないのよ!」
勢いよく頷いたエレーンは、それでもすぐに不満そうに唇を尖らせた。
「だとすれば、そこはやっぱり陛下が多少強引にでも進めてさしあげるべきだわ……ハナ様だって陛下の事をあれほど深く想われていらっしゃるんだもの。恥ずかしさはあっても、嫌な訳じゃないと思うわ」
「そうよね……」
傍から見ても深く想い合っている二人に進展がない事がセレナとエレーンにはとにかくもどかしかった。
そうして、何とか二人の仲を進展させようと奮闘するセレナとエレーンの無言の圧力に花が気付く事はなく、皇帝――ルークは敢えて無視を続けたのだった。
読んで下さり、ありがとうございます。
番外編、続きます。




