104.虎と狼。
「先ほどの演奏も素晴らしかったな」
「リカルド王……」
青鹿の間へと戻る途中、月光の塔を出た所でリコが唐突に声をかけて来た。
「今から少し話をしたいんだが、いいか?」
「ええ、もちろん」
花が口にした自分の呼び名に苦笑しながら問うリコに、花は頷いて了承した。
今夜はマグノリアを発つリコ達の為に非公式の晩餐会が催される。
花も出席する事にはなっているのだが、おそらくリコとゆっくり話す事は出来ないだろう。
それどころかこの先、もうリコ達と会う事もないかも知れないのだ。
「んじゃあ、応接の間に行きますか。トールドが手配してるはずだし」
ザックの言葉に従い、そのまま花達一行は応接の間へと向かった。
そうして、応接の間で落ち着いた二人は和やかにお茶を飲んでいたのだが、ふと落ちた沈黙の中でリコがポツリと呟いた。
「……鐘の音に似ているな」
「え?」
「あの……ピアノとか言う楽器は様々な音が出るんだな。だが……」
「ああ。ええ、そうですね。確かにピアノには『鐘』を表現した曲もたくさんある程ですし……」
『鐘』をモチーフにしたピアノ曲を何曲か頭に思い浮かべて答えていた花は、なぜだかリコが酷く辛そうに見えて言葉を途切れさせた。
「リコ?」
「いや、すまない……」
謝罪の言葉を口にしたきり、リコは何事かを考えるように暫く黙り込んでしまったが、次に花へと向けた視線には強い意志が宿っていた。
「ハナ、俺は国に帰って俺の務めを果たさなければならない。だが、あの別れの時に言った俺の気持ちは今でも変わらない」
「リコ……」
セルショナードでの別れの間際にリコが花の耳元で囁いた言葉。
『この先何があっても俺はハナの味方でいる。例えそれが神に背くことになっても――』
あの時には感謝の気持ちを表したものだと受け止めたが、今のリコを見ているとそれだけではないように思えて花は戸惑った。
「実はこれを……ずっとハナに渡したかったんだ」
そう言ってリコは懐から小さな箱を取り出した。
小箱の中でなめらかなビロード地に包まれて乳白色に輝いているのは、月のしずく。
それはまるで、凪いだ海に映る満月をすくい取ったかのような曇りない輝きを放っている。
「……真珠?」
「ああ。月を映した真珠には闇を払う力がある。これは母が持っていたものだから、特に力が強い」
「え? でもそれじゃあ……」
その説明を聞いた花は、リコのお母さんの形見の品になる物を受け取ってもいいのかとためらった。
そんな花にリコは困った様に笑ったが、急に視線を上げると、その後ろに向かって問いかけた。
「陛下もハナが持っていた方が良いと思われるでしょう?」
突然のリコの言葉に驚いて振り向いた花の後ろには、無表情のルークと苦笑するレナードが立っていた。
「陛下!?」
「ハナ……」
ルークはソファを回り込んで花の側まで来ると、立ち上がった花の細い腰を抱き寄せてそのまま口づけた。
――― えええっ!? ひ、人前です!! 人前なんです!!
花の心の叫びは伝わっているはずなのに、ルークは気にした様子もなくゆっくりと唇を離した。
深くはないが、軽くもなかったキスに皆の前で抗議する訳にもいかず、花は顔を真っ赤にして俯く事しか出来ない。
そんな花の耳に、ルークの冷ややかな声が入ってきた。
「我が妃へのお心遣い感謝する。確かに……姉上のお力をお借りできれば、ハナにとって非常に心強いだろう」
ルークはそう告げると、側に控えていたセレナに受け取るように命じた。僅かに苦い表情を浮かべたリコは、それでも大きく息を吐いて小箱をセレナへと渡す。
その様子をぼんやりと見ながら、花はルークの言葉の意味について考えていた。
ルークにしても、リコにしても何を言っているのかさっぱりわからない。
リコが退室の挨拶を述べて部屋から出ていった後も考え込んでいた花は、再びルークに口づけられてやっと現実へと引き戻された。
「ルーッ!?」
だが、今度のキスは花の全てを奪うように深く激しいものだった。
いつの間にか部屋には二人だけになっていたが、尚も続くキスに花は戸惑い、なんとか逃れようとしたのだが叶わない。
「ルーク……ま、待って――」
「ダメだ」
花のかすかな抵抗の言葉さえもルークはあっさり奪ってしまう。
そしてこの後、ルークとの時間を過ごした花は晩餐の為の準備に苦労する事になったのだった。
*****
その夜の晩餐会は皇帝による個人的なものであり、出席者は十数名程であった。
花は用意された席に着いて静かに皆が揃うのを待っていたが、心の中ではルークへの悪口を並べ立てていた。
――― ルークのバカ!! 変態!! スケベ!!
首元まである華やかなドレスを纏って穏やかに微笑む花はとても優雅に見え、誰もその心中には気付かない。
やがて花は気持ちを落ちつける為に一度大きく息を吐くと、そっと室内を見回した。
――― えーっと……たった十数人の食事にこの長卓……普段はこの上でボウリングをしていますと言われても私は驚かないです。
非公式の個人的なものでもこうなのかと、花は空いた席の方が明らかに多い豪勢に飾り立てられた長卓を見ながらルークの苦労を思った。
それでも最後にルークとリコが着席して始まった晩餐会は、以前の楽師達を招いた公式晩餐会に比べてかなり和やかに進み、花も肩の力を抜いて楽しむ事が出来ていた。
花はリコの右隣に配され、反対側にはニコスが座している。ルークはリコの正面に座しているので、花とは斜向かいに座る形になっているのだが、隣も向かいもなんだか遠い。
――― でもまあ、まだ普通に会話できるからいいのかな? 糸電話を使って会話とかちょっと面白いけど……。
そんな事を考えていた花の側へ、ニコスはマナー違反にならないよう気を付けながらも一生懸命じわじわと近寄って来ている。
その姿が可愛らしくて花も少しだけニコスへと近付いた。
「ハナは、葡萄酒は飲まないのですか?」
先程から水しか口にしない花にニコスが尋ねた。
「ええ、お酒はあまり強くないので」
「僕は早くお酒が飲めたらいいなって思います。だって、大人の証拠ですから」
無邪気なニコスの言葉に花は思わず笑みをこぼしたが、ニコスが飲んでいる薄桃色の飲料が気になり尋ねてみた。
「ニコスは何を飲んでいるの?」
「カフィアです」
「カフィア?」
「はい。こういう特別な席で子供が飲むものです。僕には少し甘すぎますけど」
ほんの少し不満を見せて答えるニコスに花は再び微笑んだ。
そんな花を見て、ニコスも微笑み返す。
「ハナも飲んでみますか?」
「そうですね」
花が頷くと、ニコスは後ろに控える給仕の者に新しくカフィアを用意するようにと頼んだ。
ルークは楽しそうに会話している花とニコスを横目で見ながら、ディアンとトールドの冷めた話し合いに耳を傾けていたのだが、花がカフィアを口にしている事に気付き、そちらに視線を向けた。
カフィアにはアルコールが含まれている。
花が酒に弱い事は初めて食事を共にした時に聞いていたのだが、さすがに幼い子供でも口にするカフィアでは酔う事もないかとすぐに思い直し、ルークは再びディアンとトールドの話し合いに意識を戻した。
が――
花は何の前触れもなく突然立ち上がると、皆からの視線を気に留める事もなく、ゆっくりと息を吐き出した。
「あつい……」
呟いた花はいきなり自身の首元のリボンをほどいて、小さな釦を外し始めた。
皆が驚きに息を呑む中、大きく音を立てて椅子を倒したルークは花の側に現れ、一瞬後には花を抱きしめてあっという間に消えてしまった。
「……ハナ?」
そして微妙な沈黙が落ちたその場には、呆然としたニコスの小さな声だけが残されたのだった。
*****
「ハナ、大丈夫か?」
ルークが腕の中にいる花を心配そうに見下ろして問いかけると、花は身を捩ってその腕から抜けだした。
「んー、あつい……」
再び呟いた花はまた釦を外し始める。
「………」
真っ赤になった顔といい潤んだ瞳といい、花は完全に酔っている。
徐々にはだけていく花の胸元から目を逸らしたルークは、ひとまずエレーンに水を頼もうと思い、ふと室内の様子に気がついて顔を顰めた。
花を連れて青鹿の間へと飛んだつもりだったが、慌てるあまり自室の寝室に飛んでしまっている。
「………」
自分のバカさ加減に呆れながらも部屋に控える侍従に水を用意させようと、踵を返したルークの上着の裾を花は掴んで引き止めた。
「ハナ?」
どうしたのかと振り返ったルークに、花は上目遣いで悲しそうに呟いた。
「行っちゃダメ」
「………」
はっきり言って可愛すぎる。
だがこのまま押し倒すわけにもいかず、とにかく花を休ませようとしたルークを逆に花は勢いよく引っ張って押し倒した。
「ハナ!?」
足が不安定な状態で寝台に仰向けになったルークの上に花は馬乗りになった。
驚くルークを見下ろすその目は据わっている。
「ルークも……あつい?」
問いかけながらも花は確信をもってルークのカッチリした礼服の釦を外していく。
されるがまま呆然と花を見上げるルークに、花は嫣然と微笑みかけてゆっくりとキスを落とした。
今までにないほど積極的な花の口づけに、ルークの理性も身体も限界に近づいていく。
花の唇はルークの頬へと滑り、耳朶を舐めて、そのまま舌を首筋に沿って這わす。
「……ッ!?」
そして、花はルークの首元に噛みつき―――穏やかな寝息を立て始めた。
「………」
ルークは色々な衝動を抑える為に無駄だと知りつつ何度も深呼吸を繰り返すと、花からそっと離れて起き上がり、控える侍従に花の侍女達と念のために医師を呼ぶように命じた。
そして皆が到着するまでの間、ルークは檻に閉じ込められた狼のようにウロウロと部屋の中を歩き回る事になったのだった。