103.人の噂も七十五日。
「ザッカリー・マルケス、只今戻りました~」
リコの執務室代わりにもなっているマグノリア王宮客間の応接室に戻ったザックは気の抜けた挨拶をしながら、まとめて置かれている書簡が先ほどよりも増えている事に気付いて面白そうに笑った。
「王ってば、今日もすげえモテモテっすね~」
その言葉にリコは目を通していた書類からチラリと書簡の方へと視線を向け皮肉な笑みを浮かべた。
「この国はやはり相当腐っているようだな。縁談を持ちかけて来ているものはまだかわいい方だ。中にはあからさまに返忠の意と取れるものもある。これら全部、お前の懐に入っている分も合わせて後でディアンに届けてくれ」
「あれ? 目を通さないんですか? 結構ナイスバディなお嬢さんからも預かりましたよ?」
「興味ないな。そんな事よりザック……お前、ちょっとやり過ぎじゃないか? 人様の恋愛にあまり首を突っ込むなよ」
「え~? 人様じゃないですよ~。俺はいつだって本気ですから。恋は先手必勝です!!」
「……そうか。まあ、あと数日せいぜい頑張ってくれ」
リコの力ない応援に、ザックどころか今まで黙々と書類仕事を進めていたトールドもハッと顔を上げた。
「帰るぞ。無事に講和も成し遂げた今、これ以上ここにいても下らん権力争いに巻き込まれるだけだ」
帝位継承権第二位を得たセルショナードの若き王は、地位と権力を望む者達にとって格好の的になっていた。
しかも、ヴィシュヌの名を冠す程の力を有したのなら、ひょっとして現皇帝がいなくても虚無を抑えられるのではないか?その様な愚かな考えを抱く者まで現れてきている。
また、このまま皇帝が子を生す事がなければ、魔力の強さによってはリコの子がジャスティンの子であるクリスを抑えて帝位に就くとこだって十分にあり得る。もちろん母親が皇家により近い事が条件ではあるが。
毎日毎日、舞い込んでくるお茶会やら晩餐会への招待状や縁談の申し込みの処理に、セルショナードから連れて来た政務官の手を常時割かないといけないほどであった。
「しかし……ハナ様のことはよろしいのですか?」
トールドのためらいがちな、それでも率直な問いにリコは唇を引き結んだ。
「……私では無理だ」
「リコ様……」
リコはすぐに何事もなかったかのように表情を緩めたが、その嘆くような微かな呟きにザックもトールドもそれ以上は何も言えなかった。
**********
夕の刻を回り、青鹿の間で本を読んでいた花の許へ、火急の用件があるからと面会の申し込みが入った。
元・内大臣のドイルとその腰巾着二人だ。
その日の朝議での出来事はあっという間に王宮内に広がり、当然花の耳にも入っていたので、いったい何の用なのかと興味を持った花は面会を承諾した。
そして三人を青鹿の間へと迎え入れたのだが。
「ハナ様の奏でられる音楽は本当に素晴らしいもので……」
「歌声は奇跡としか言いようがありませんな」
「いやいや、ハナ様はお力だけではない。その凛としたお姿も……」
「……」
三人の豹変ぶりは凄まじく、一通りの社交辞令的な挨拶が終わっても花への美辞麗句を並べ立てていた。
いつになったら終わるのかと花がいい加減うんざりしてきた頃、ドイルがコホンと一つ咳払いをしてもったいぶった口調でようやく本題らしき事を話し始めた。
「今、ハナ様はご側室というお立場ですが、我々ならご正妃にして差し上げる事が出来ます」
「まあ、それは……」
――― 大きなお世話です。
温和な笑みを浮かべて花は本音を抑えた。
しかし、ドイル達は花の笑顔に心情を誤解してか、尚も尊大に言い募る。
「我々をハナ様の後見に付かせて頂けたなら、ハナ様をとやかく言う輩もいなくなりますぞ」
――― そりゃ、あなた方がとやかく言う輩の筆頭ですから。
とは、その場にいる者達――ドイル達の侍従も含めた全員の心の中での突っ込みだった。
花を排除しようとするのではなく、抱き込む事に急きょ方針転換したらしいドイル達に、花は怒りを通り越して呆れるしかなかった。
それでも穏便に断ろうと試みるのだが、目の前の三人にはどうにも通じない。
「有難いお話ではありますが、私にはもうセインが後見に付いて下さっておりますし、ご正妃などとても恐れ多い事ですので……」
「何を悠長な事をおっしゃられているのですか」
「ハナ様は今や、強欲な者達から狙われていらっしゃるのです。ハナ様をお守りする為にもご正妃の地位は必要なのですぞ」
「私どもは陛下とハナ様の御為を思ってですな――」
ここまで厚顔な態度を貫ける三人に皆は唖然としており、侍従達はずっと懐に忍ばせている辞表を今すぐ叩きつけたい衝動を抑えるのに必死だった。
その中でただ一人、笑みを絶やさない花に皆が尊敬の念を抱く。
「私の為に皆さま本当にありがとうございます。ですが、私のような身にはあまりに過ぎたお申し出、皆さま方のお気持ちだけ有難く頂戴させて下さい」
婉曲な断り文句にドイル達は一瞬ポカンとしたが、すぐにその顔に白々しい笑みを張りつけて聞き分けのない幼子をあやすように再び花への説得を始めた。
「ご謙遜はハナ様の素晴らしい美徳ではありますが、今はそれどころではないのですぞ」
「そうですか……」
「ええ、それはもう。信じられない事に下々の者達の中には、陛下がハナ様を無理に閉じ込めていらっしゃるなどと噂する者もいるのですよ。そんな噂を一掃する為にもハナ様には確固とした地位が必要なのです」
「……」
花もその噂を耳にした時には驚いたが、噂なんてものは下手に触れば更に大きくなるものなので、放っておくのが一番だと思っていた。
しかし、目の前の三人は事を大きくしたいらしい。
「……わかりました」
「おお、ご理解頂けましたかな?」
頷いた花を見て、やっと承諾するかと安堵の息を吐いた三人に花は満面の笑みを向けた。
「はい。私が月光の塔から陛下への愛を叫べば、誤解なされている方々にも伝わるのではないかと思うんです」
「――なんですと?」
「毎日二回で十分でしょうか?それとも、もっと多い方がよろしいでしょうか?」
「……」
ニコニコと微笑む花は冗談を言っているようには見えない。
本気なのだろうかと、誰もが言葉に詰まり微妙な沈黙が落ちた。
そこへ、急に冷めた声が割り込んだ。
「それには賛成しかねるな」
「陛下!」
「陛下!?」
嬉しそうな花とは対照的に、ドイル達は悲鳴じみた声を上げた。
いつの間にか現れていたルークは、寝室へと繋がる扉に凭れかかって冷ややかに三人を見据えている。
「へ、陛下がいらっしゃられたのなら、わ、私達はこ、これで……」
慌てたドイル達は挨拶もそこそこに、まるで逃げ出すように部屋から出ていってしまった。
その情けない様を軽蔑の眼差しでルークは見ていたが、一度大きく息を吐き出すと手振りでその場の者達に下がるように命じ、花を抱き寄せてその柔らかい頬をそっと撫でた。
「……大丈夫か?」
「はい、大丈夫です」
心配そうに見下ろすルークに花は安心させるように微笑んで答えた。
「俺の決断が遅くなってしまったせいで、ハナには随分辛い思いをさせてしまった……すまない」
「――いいえ、本当に大丈夫です。でも……ルークは大丈夫ですか?」
「ああ……大丈夫だ」
ルークの方がよほど辛そうな顔をしているのに花を気遣ってくれる。
花はギュッとルークに抱きついて、その温かな胸に頬を寄せた。
以前、誰かから聞いた話を思い出す。
政務官達はその殆どが先帝陛下の――政に興味がなく臣下に任せきりだったというルークの父親の代から変わる事がなく、腐敗しているのだと。
花はルークやディアンがなぜそのままに放置しているのだろうと思ってはいたが、酷く苦しそうなルークを見ているとそんな事はどうでもよくなった。
どうかルークがこれ以上苦しい思いをしませんように、どうかルークのこれからが幸せなものになりますように。
そう願わずにはいられない。
「ハナ……」
暗く澱んでいたルークの心は伝わる花の想いに昇華されていくように軽くなっていく。
ルークはその瞳に心配の色を滲ませて見上げた花の唇に、感謝するようにそっと口づけを落とすと、ゆっくりと唇を離して柔らかく微笑んだ。
その穏やかな笑顔に花はホッと安堵した。
と、気が付けば花は応接ソファに座るルークの膝の上に座っている。
「……あれ?」
一瞬の出来事に驚く花を見てルークはいつものようにニヤリとした笑みを浮かべたが、次に花を呼ぶ声はとても真剣だった。
「ハナ」
「はい」
花が頬を染めながら間近にある美麗すぎる顔を見ると、ルークは金色に輝く瞳で真っ直ぐに花を見つめていた。
「俺はハナを愛している」
「は、はい……」
ルークの突然の愛の告白に、花は思わずその真摯な瞳から視線を逸らして俯いた。
そんな花の真っ赤になった耳元にルークは唇を寄せる。
「だが俺は、まだハナからもらっていない」
「……え?」
思わず顔を上げた花の頬にルークは両手を添えて、今度は逸らす事を許さないかのように捕らえた。
「『大好き』とは何度も伝えてもらった。言葉でも気持ちでも。しかし、それ以上の愛の言葉を一度ももらった事がない」
「え!?」
「月光の塔から叫ぶよりも俺に伝えて欲しい」
「ええ!?」
「嫌なのか?」
「いい、いえ、いえ! いいいや、いやな、いやなわけじゃなな、ないんですが……」
花にとって「愛してる」と言葉にするのはかなり恥ずかしいのだが、それをどう説明すればいいのかわからない。
「そこまでの気持ちがない?」
「もも、もち! もち!! もちろんありまっす!! 溢れ返って溺れそうなほど!!」
「だが、溺れてはくれないんだな」
「えええ!?」
恥ずかしい。
とても恥ずかしいが、悲しそうに微笑むルークを見ていると、やっぱりきちんと言葉にして伝えたいと思う。
花は覚悟を決めると睨むようにルークを見つめ、思いきって口にした。
「あ……あい、愛してるってばよ!!」
「………」
「……あれ?」
焦るあまりなんだか某アニメの主人公的な言葉になってしまったような気がする。
「……てばよ?」
「え!?……そ、そんな事言いました?」
「………」
「ええ……ええっと……」
――― うわーん!! 失敗しちゃった!! どうしよう!? ルークにどう言えば!?……い、いっそのこと私の世界ではそう言うって事に……無理かな? いや、でも日本を代表する文化だし……うーん……。
「………」
必死で考えを巡らせていた花は、それが全てルークにダダ漏れになっている事には気付いていなかった。
そしてルークは、やっともらった愛の言葉を喜ぶべきなのかどうなのか、微妙な気持ちで悩む事になったのだった。