11.楽器演奏は貴族の嗜み。
「お前な……」
殺気漂うルークに、花は慌てて謝った。
「す、すみません!!」
急いで何か拭く物を、と立ち上がりかけたが、それをルークは「いい」と手で制した。
そして何事か呟くと、ルークの髪や顔に散った紅茶の滴や、上品だが豪勢な衣服に染み込んだシミがフワッと浮いて、パッと消えた――ように見えた。
あまりにも一瞬の出来事だったので錯覚かとも思ったが、実際、ルークには吹き付けてしまった紅茶の一滴もなくなっていた。
「あの……今のは魔法……ですか?」
「そう、ごく簡単な浄化の魔法だよ。まあ、俺たちが使うことは滅多にないけどね」
花の質問に答えたのはレナードだった。
「その滅多に使わない魔法を、ここ数時間で三度も使ったがな」
「す、すみません」
ルークの嫌味に花は謝るしかなかった。
そんな花に、ルークは小さく嘆息して先ほどの話題に触れた。
「側室を娶ったところで、通わなければ牽制になりもしないだろう」
「……それもそうですよね……じゃあ、私は寝室にある長椅子で寝ますね」
その言葉はすぐに否定された。
「それはダメだ」
「なぜですか? 女の人に触れられるの嫌だって言ってたじゃないですか!?」
「――確かに、触れられるのは好きではない。しかし、嫌悪するのは一部の女に対してだ。それ以外は我慢できない事もない。それに先ほども言ったが、私は不能ではない。それなりの生理的欲求を処理するためには女を抱くこともある」
――― そこまで聞いてない!! というか、処理って言うな! 処理って!!
花は動揺が顔に出ないように必死で我慢した。今、動揺を見せたら負けだ!!
「では、私と寝る場合にその……生理的欲求が起こったらどうするんですか?」
「……」
「なんですか? その、残念な子を見るような目は?」
二人のやり取りに、レナードは俯き肩を震わせている。
ルークは大きく溜息をついた後、話を続けた。
「とにかく、別々に寝れば侍女たちはすぐに気付く。そしてその事に疑問を持たないわけがない。それが外に漏れる危険はできるだけ避けたい。それに……」
ルークの言葉は途中で途切れたが、続く様子はなかった。
確かにルークの言う通りだろう。まあ、あれだけ広いベッドなら十分、離れて寝ることも出来る。
「……わかりました」
そう答えたものの、花の声は沈んでいた。すると気遣ってくれたのか、レナードが励ますように言った。
「まあ、一番狙われやすい危険のある夜は、ルークと一緒にいることが一番安全を保障できる。何せルークはこのマグノリアだけでなく、ユシュタールで一番強い魔力の持ち主だ。暗殺者が十や二十、束になっても敵いやしないからな」
間違いが起こることはやはり全く心配していないのか、しっかり安全を保障されてしまったが、年頃の女としては微妙な気持ちになる。
乙女心は複雑だ。
――― ん? ユシュタールで一番魔力が強いって……ひょっとして、ユシュタールの崩壊を防ぐために、一番頑張ってるのかな? 確か、『神様』は一番癒しが必要な子の所に送るって言ってたし……でも「子」って……『神様』にとってはルークも子供なのか……。
今更ながら『神様』の使命を思い出した花だったが、どうすればいいのかわからない。
ひとまずは『神様』について聞いてみることにした。
「あの……お二人は『神様』を信じていますか?」
なんだか、怪しい宗教家のような言い様になってしまった。
しかし、そんなことは問題ではなかった。
今までの和やかと言ってもいい雰囲気から、突然、空気が変わってしまったのだ。
どこか冷めたい、ひやりとした空気に。
「『神様』って、創造神ユシュタルのこと?」
レナードの声は硬い。
「ハナは神を信じているのか?」
レナードの問いに答える間もなく、ルークの酷く冷たい声がした。
「信じているっていうか……」
花には上手く答えられなかった。ただ自分の質問が、間違いだった事に気付く。
急に変わってしまったこの場の空気に困惑する。
「ハナは違う世界から来たんだろう? その世界に神はいるのか? 神を信じているのか? お前は、お前が存在した世界から弾き出されてしまったんじゃないのか? それでも信じるのか?」
そう言って微笑むルークに、花は青ざめる。
問われた言葉にではない、それを問うたルークの様子がまるで狂気を孕んでいるようだったからだ。
――― ルークは……『神様』に絶望している?
花は悟ってしまった。
ルークの深い『絶望』を。
そのことに、どうしようもなく悲しくなる。
「ルーク、言い過ぎだ」
レナードは、そう窘めながらも苦い顔をしている。
普段、上手く隠しているルークの苦しみをレナードは知っていた。
知っていながらも何も出来ない。そんな自分に腹を立ててさえいる。
レナードの言葉に、暴走しそうな怒りを抑え、ルークは大きく息を吐いた。
――― この娘に当たるのは間違っている。
蒼白になっている花の顔を見て、ルークは後悔した。
「すまない」
囁くようなルークの謝罪の言葉に花は首を振って応えることしかできなかった。
ルークは絶望しているのだ。神に、世界に、そして自分自身に。
――― 癒してあげたい。
崩壊を防ぐ事も、ユシュタールを救うこともできないが、癒しの才能があるというのなら、せめて、ルークの心を癒してあげたい。
昨晩、出会ったばかりのルークに、なぜこれほどまでの想いを抱くのかはわからない。
それが『神の使徒』である故か。
『癒してあげて欲しい』
軽い調子で『神様』は言っていたが、ルールに縛られて動けない『神様』の切実な思いは伝わってきていた。
その事を本当は二人に伝えたかった。
しかし、まだその時ではないことを花は理解していた。
――― 私は私の使命を果たそう。
それが、拾ってくれた『神様』へのお礼になる。
花はそう決意した。
「あの……ここにピアノはありますか?」
「ピアノ?」
花の急な問いに、意表を突かれたような二人の驚きが伝わって来た。
それによって、先ほどまで張りつめた空気が弛む。
「あの……ピアノです。楽器の」
「楽器? ピアノというのは楽器なのか?」
――― あれ? ピアノが通じない?
「ええ……鍵盤が並んだ……鍵盤を押せば音がなる楽器です。」
「鍵盤?」
二人の反応に花は心底驚愕した。
――― ちょっ、ちょ、ちょっと待って!! ピアノがないとか言わないよね? 鍵盤が何かもわかってない様子だけど……ええ!?
「あの……ここにはどんな楽器があるんですか?」
「楽器って……ここにあったか?」
「ええ!?」
レナードの言葉に花は驚く。
「楽器か……持っているのは、街の楽師くらいだと思うが……」
「えええ!?」
ルークの言葉に更に驚く。
「あの……皆さんは、楽器を演奏したりしないんですか?」
――― 楽器演奏は貴族の嗜みだよね?
「何のために?」
「え?………えええええ!!?」
魔法よりも何よりも、ここが異世界だと言うことを花が一番に痛感した瞬間だった。