102.旅は道連れ世は情け。
またいつもの無駄な論戦が始まる。
その日、朝議に出席する誰もがそう思っていた。
新しい議案が挙がれば、それがどんな良案であれ、必ず派閥間の利権を求めた醜い争いに発展する。
そして結局は主だった者達が小さな会議室で審議し、皇帝の名に於いて施行される事になるのだ。
元来、議会は皇帝一人の肩に圧し掛かる負担を減らす為に設けられたものだったが、それが今は足枷にしかなっていない。
だがそれは、独断的な任命権を持つ皇帝の――ルークの選択でもあったのだが……。
その日、いつもの無駄な論戦が始まる事はなかった。
「今日は皆に知らせたい事がある」
ルークの静かな声が謁見の間に冷たく響いた。
その場をゆっくりと見回す皇帝の視線にさらされた者達は何人もが耐え切れないように俯き、ただ息を潜めてやり過ごす。
そして、ルークは最後に緊張した面持ちで青ざめているドイルを真っ直ぐに見据えた。
「ドイル」
「は、はい」
さすがにドイルが目を逸らす事はなかったが、返答するその声は妙に上擦っている。
「そなたは内大臣の任に就いてからどれくらいになる?」
「私は……」
「兄上がお生まれになってすぐだったか?」
「い、いいえ。それは私の父でして……」
「ああ、兄上の外祖父であった先代のドイル伯爵か……」
懐かしむ様な口調ではあったが、ルークの瞳はとても冷ややかに見える。
ドイルはごくりと唾を飲み込むと、震える声を必死で抑えて続けた。
「わ、私は……陛下が、皇太子位へとお昇りになった後に……」
「昇った、か……。確かに、生まれながらに皇太子であった兄上と違って、余は昇ったと言うべきなのだろうな」
「いえ! 決してそのような―― !!」
ルークの声はただ事実を確認しているような平淡なものだったが、ドイルは慌てて立ち上がり否定しようとした。
それをルークが手で制す。
「別に構わん、事実だ。だがそうか……では、親子二代に亘る長きの務め、ご苦労であった」
「はっ!……は?」
ルークからの思わぬ労いの言葉に頭を下げようとしたドイルだったが、すぐにそれが意図する事に気付き固まった。
ざわりとその場に小波の様な動揺が広がっていく。
「そなたの領地は緑豊かで、冬でもずいぶん暖かいと聞く。この先を過ごすには最適の地であろう」
「……へ、陛下は私に退官をお命じになっておられるのですか?」
「今はまだ、な」
柔らかな言葉に含まれるもの――今、従うなら穏便に退官するだけで終わらせられるのだ。
無駄に抵抗すれば先ほど持ちだされた領地までも取り上げられる事になるのか、それとも命まで取り上げられるのか。
ドイルは力が抜けたようにストンと椅子に落ちた。
心に濁りのある者達が恐慌をきたして震える体を必死で抑えている中、青ざめながらも口を開いたのは外大臣のコーブだった。
「陛下、恐れながら……その、ドイルの後任は……」
「ドイルだけではない」
「それは……」
「余の考えはディアンに伝えておる」
それきり口を閉ざしてしまったルークの代わりに、ディアンが懐から取り出した料紙を淡々と読み上げていく。
ディアンの顔にいつもの笑みが浮かんでいない事が、もう覆す事のできない決定事項なのだと皆に知らしめた。
これによって長きに亘り宮中に蔓延っていた醜悪な政務官達が刷新されるのだ。
更迭される者達の周章狼狽する態度とは逆に、新たに任命される者達は驚くほど落ち着き払っていた。それはまるで予てより内々に知らされていたように。
「決して……決して私はハナ様を正妃になど認める事はありませんぞ!! この首を引き換えにしてでも!!」
突然、最上位貴族に当たる一人の伯爵がまるで錯乱したかのように立ち上がって叫んだ。
「……そなたは何を寝ぼけた事をぬかしておるのだ?」
一瞬にして静まりかえった朝議の場にルークの何も感情の窺えない、ただ無機質な声が響く。
「ハナが正妃になろうが、なるまいが……ハナが余の生涯ただ一人の妃である事に変わりはない」
ルークの言葉が意味する事に、誰もが息を呑んだ。
「お、お妃様がお一人のみなどと無茶苦茶な!! お世継ぎはどうなさるおつもりですか!?」
ルークの冷厳な態度に、真っ赤になっていた伯爵は目が醒めたように一気に青ざめ震え始めたが、それでも必死で抗弁する。
「そなたの帝位継承権は何番目にあるのだ?」
「……は?」
変わらぬ声音で突如問われた内容に驚いて、伯爵は何度か目を瞬いた。
「さ……い、今は三十四番目に、継承権は三十五位なります」
何とか思考を巡らせて答えた伯爵にルークは容赦のない笑みを浮かべる。
「余の後を継ぐ者がそなたの前に三十三人いて、そなたの後ろには何百人といる。それで……世継ぎがどうかしたのか?」
「……」
どうもこうもない。直系が必要だ。
言いたい事も山ほどある。
だが、言えない。
全て帝国の為と口に出来ても、本当は我欲でしかないと自覚している。
真っ直ぐに己を見つめる皇帝の冷徹な視線にさらされて、伯爵はそれ以上言葉にする事が出来ず大きく息を吸うと、黙って席に着いた。
その様子を静かに見ていたディアンはほんのりと微笑んだ。
そして、謁見の間の隅で目立たないように立っていたジャスティンはホッと安堵の息を洩らす。
ジャスティンが朝議の場に姿を現す事など滅多になく、その存在に気付いている者は少ない。そこにザックがコッソリと近づいた。
「なんだか陛下の周りのみんなは嬉しそうっすね」
「……出ましょうか?」
柔和に微笑んだジャスティンはザックと共にその場を辞して、後宮の入り口付近へと転移した。
「ようやく陛下が……負うべき必要のなかった罪と責からの解放を望んで下さった事が我々は嬉しいのですよ」
「へ~。んじゃあ、腐った柱のすげ替え時期ってのは、陛下の決断待ちだっただけなんすね」
納得したように呟くザックの言葉にジャスティンは一瞬目を見開いたが、すぐに察して「そうですね」と頷く。
「陛下はとてもお優しい方ですから……」
「優しい? 冷酷非道の皇帝陛下が?」
からかうように笑うザックにジャスティンも笑って返す。
「噂というものは当てにならないものですよ」
「まあ、それが故意に流されたものなら尚更ですよね~」
色々と含んだ笑みを交わしていた二人は、月光の塔へと向かう為に現れた花を見て今度は本物の笑みを浮かべた。
しかし、ジャスティンは花へと駆け寄ろうとしたザックを片手で遮ると、穏やかに告げた。
「今日は私が塔まで付き添いますので、ザック殿はもう結構ですよ」
「え~何言ってるんですか。旅は道連れ世は情けですよ。人数多い方が楽しいですし」
「私は侍従長として、王宮で働く者を守る義務もありますから」
「へ~! そりゃ、ご苦労様です。で、誰から誰を?」
「節操無しの甲斐性無しから、とある騎士に恋する乙女を」
「とある騎士って俺の事かも……」
「更に勘違いも甚だしい自惚れ野郎と加えておきましょう」
そうして、この日の花達にはザックだけでなくジャスティンまでもが加わり、再び賑やかな一行となって月光の塔へと向かたのだった。




