99.焦りは禁物。
祝福の鐘のような花のピアノの音色は希望の光となって世界中に、そして『果て』にまで響き渡った。
その音色を耳にしたサンドル王国の王太子は明るく輝く亜麻色の髪を揺らし、形のいい唇に皮肉を滲ませて大きく笑った。
「なんだよ、これ……有り得ない程の力技じゃないか! なあ?……さて、どうしようか?」
ガーディは王太子の独り言の様な問いかけには答えずに、眩く光る窓の外を見つめて目を細めた。
が、すぐに次々とカーテンを引いていく。
「殿下、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ないよ。でも確かに……耳障りだね」
皮肉な笑みを浮かべたままの王太子は部屋に控えていた侍女に退室を命じ、窓辺の長椅子からソファへと移った。
王太子の一連の動きには全く無駄がない上にとても優雅で、初めてその姿を見た者は恐らく驚きに目を瞠るだろう。
「クラウス様は大丈夫でしょうか?」
王太子の側に控えたガーディは心配そうに顔を曇らせて口を開いた。
「心配はいらないさ。けど……すっかり壊れてしまったからね。それでもあの方は、徹底的に壊す前に徹底的に遊ぶつもりだよ」
「世界を巻き込んでですか?」
「巻き込む……ね。まあ、僕はせいぜい楽しませてもらうさ」
そう呟いた王太子は部屋に防音魔法を施して、未だ鳴り響く希望の音色を遮断したのだった。
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優しい音色に包まれて、ずっと渇望していたピアノに触れた花の心は柔らかに潤い満たされていく。
それと同時に花の意識は現実へと舞い戻り、世界中が希望の光に包まれた奇跡の時間は終わりを迎えた。
花はふと、ルークをはじめとした皆がその場に立ったままである事に気付いたのだ。
チラリと窓の外に目を向けると、綺麗に満ちた月はすでに夜空に昇っている。
どれ程の時間を過ごしたのか理解した花は一気にその興奮も醒め、急いで椅子から立ち上がった。
「あ……あの、ごめんなさい。お待たせしました……」
花は慌てて謝罪の言葉を口にしたが、誰も何も応えない。
ただその顔は希望に満ちているように明るく、涙を流している者もいるのだが、花は自分勝手に皆を長く待たせてしまった事で罪悪感が募り、それには気付かない。
――― ど、どうしよう……みんなずっと立って待っていてくれたんでしょうか? 何時間も……なんて失礼な事をしちゃったの!? ああ、やっぱりどうしよう!? あ、手紙!……そうだ!! 手紙の説明をしないと!!
尚も続く皆の沈黙が更に花の焦りを募らせる。
何か言わなければと思うのだが、動揺した花の思考は混乱をきたしていて何も思い付かない。
そして、花は限界に達してしまった。
「って、テヘッ☆」
思いがけず口からこぼれ出てきたのは、先ほど脱力した神様からの言葉。
小首を傾げた花を見て何名かが大きく仰け反っている。
――― ぎゃあああああ!! すみませんすみません!! やっぱりこんなんで誤魔化せるわけがないんです!! わかってます!! わかってるんですけど!! えーん!! どうしたらいいの!?
結局、半泣き状態で途方にくれていた花を救ったのはルークだった。
「ルーク……」
「何も言わなくていい」
ルークはその腕に隠すように花を抱き寄せて優しく微笑んだ。
しかし、すぐに表情を改めると厳しい視線を周囲に向けた。
「皆、それぞれ持ち場に戻れ。お二方も、もうお戻りになられた方がよかろう」
有無を言わせぬ口調で告げたその言葉にジャスティン達が了承して頷くのを確認すると、ルークは花を連れてその場から消えてしまった。
「――リカルド様、もう夜も更けて参りましたのでお部屋に戻られた方がよろしいでしょう。ニコラウス殿下もお疲れでしょう?」
「は、はい」
ジャスティンの言葉にやっと我に返ったニコスは涙で濡れた頬を袖で拭うと、名残惜しそうにしながらも侍従達と祈りの間を後にした。
ディアンは花とルークが消えてすぐにその場から立ち去っており、レナードはセレナや花の護衛達に指示を出している。
「セレナ、ハナ様は陛下と共に青鹿の間に戻られたから急いで戻った方がいい。お前達も交替の時間は過ぎているだろ? 引き継ぎを済ませたら、また明日に備えて休め」
そうして皆が祈りの間を後にする中、リコだけは目を眇めてただジッとピアノを見つめていた。
その顔はとても苦しそうに見える。
「リカルド様?」
「……何でもない」
心配そうなジャスティンの声に応えたリコは、空に浮かび上がる満月に一度チラリと視線を向けると、その場から消えてしまった。
珍しく黙ってリコの側に控えていたザックもすぐに後を追う。
そしてたった一人、最後に残ったジャスティンの顔はとても険しいものになっていた。
だが、何度か大きく深呼吸を繰り返してようやくいつもの柔和な顔に戻ったジャスティンは部屋を出て扉を閉めると、祈りの間全体に防御魔法を施して月光の塔を後にしたのだった。
*****
「ルーク……ごめんなさい」
青鹿の間に戻ってからずっと黙ったまま強く抱きしめるルークに、花は謝罪の言葉を口にした。
ピアノに夢中になるあまり、全ての事を忘れてしまっていた。
その結果、みんなを長時間待たせてしまった上に、何かまたルークを苦しめてしまったのだろうかと花は思ったのだ。
しかし、ルークは驚いたように顔を上げた。
「なぜ謝る?」
訝しげなルークの問いに、花は申し訳なさそうに続けた。
「いっぱいみんなを待たせてしまいました。それにまたルークに迷惑をかけて……」
「また? ハナに迷惑をかけられた覚えは一度もないが?」
「それは……それはルークが優しいから……」
花の言葉を聞いたルークは噴き出した。
「俺を優しいと評するのはハナくらいのものだな」
「そんなこと……」
ないとは言い切れない程に花も冷酷非道の皇帝陛下の噂は聞かされている。
それを察したようにルークはにやりと笑って、花に軽いキスを落とした。
まるで先ほどまでの事が嘘のような少し意地悪ないつのもルークだ。
「食事にしよう。腹が減っただろ?」
そう言って、その腕から花を解放して居間へと向かおうとしたルークの腕を花は慌てて掴んだ。
「ルーク、待って……待って下さい」
「どうした?」
「あの……話を……先ほどの手紙の事を……」
微かに震える花をルークは目を細めて見た。
「……ハナが話したくないなら無理に話さなくてもいい」
優しく気遣うルークの言葉に、それでも花は大きく首を振った。
「違います。ルークには聞いて欲しいです。私の事を、神様の……事を……」
「ハナ……」
縋るようにギュッと強く袖を掴む花の手をルークは優しく解いて包み込むと、そっと口づけた。
そして、花の震える瞳を覗きこんで安心させるように微笑み、静かに頷いた。