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さいしょは仔牛

作者: さいべり屋
掲載日:2026/07/10


 ホニはその日、はじめて仔牛の味を知った。

 フセルト族の卓に肉が上ることは少ない。

 家畜は財産だからだ。

 牛は荷を運ぶ。

 羊は毛が取れる。

 雌ならば尚良し。雌は仔を産み、乳を出す。


 羊の毛で作った織物や、乳を絞って作ったチーズ。

 時には羊や牛そのものも売り買いしながら、家畜のための牧草を求めて旅して回るのがフセルト族だ。


 肉を禁じているわけではない。

 病み衰えた羊、乳を出さなくなった山羊、そういったものを潰して肉にすることもある。

 しかし肉だって売れば金になるのだ。

 良い部位は金に替え、硬い屑肉を叩いて叩いて細切れにし、野草と煮込んでスープにするか、干し肉にしておいて、長い冬の間に乳や出汁に煮溶かして食べる。

 それが、ホニが知っている肉の味だった。


 しかし、それは生まれながらに萎えていたのだ。産み落とされたばかりの仔の袋を、母牛は器用に食い破ると、ペロペロといたわるように舐め回した。すぐに頭を上げて嬉しげに身を委ねていた仔牛だったが、やがてよたよたと身を起こした。


 ぺたん。


 か細い脚で立ち上がろうとはするものの、すぐによろけて座り込んでしまう。

 母牛が励ますように耳を食んだ。


 よたよた、ぺたん。

 よたよた、ぺたん。


 一晩経っても仔牛は地べたに(うずくま)ったままで、母牛は乳をやろうとしなくなった。

 それでこの仔はもう育たないと知った。


「仕方があるまい」

 族長のブルゲドが苦々しく言って、ホニたちはその仔牛を潰すことにした。

 生まれたてといえども、仔牛はホニより少し軽いくらいには体重があり、歩けぬものを運ぶのは骨だ。

 それに仔牛は乳を飲む。育たぬ仔牛に乳をやれば、我らの分が少なくなる。


 ここが人里に近かったなら売って金にしただろう。だが、こんな山間で行商人と行き合うべくもない。かといって、わざわざ里に降りるほどには仔牛の身は大きくない。


 そこでブルゲドは、宴を催すことにした。


 (あしなえ)の獣は不吉の予兆とされることがある。

 その仔牛を焼き、歌い、踊り、大地の神に部族の安寧を願うのだ。


 子供は川原へ行って、なるべく黒い石をたくさん拾ってくるよう言われた。

 ホニたちがずっしり重い石ころを抱えて帰ると、女たちはそれを焚火に投げ込んだ。

 男たちは仔牛の首を落とし、骨やはらわたを抜き取り、穴を広げぬよう丁寧に洗い、その穴に芋や香草、そして真っ赤に焼けた黒い石を詰め込むと、しっかりと縫い合わせた。

 ボードグだ。


 仔牛だったものはそのまま、石を焼いていた焚火にくべられ、中から焼かれ、外から焼かれ。

 焼けるのを待つ間、フセルトたちは星へ向かって煙たなびく焚火を囲んで、布を被って踊るのだ。

 つぎに生まれる仔が健康で、大きく育ち、フセルトの糧となるように。

 草は茂り、乳は流れ、フセルトたちが飢えぬように。

 フセルトの旅がとこしえに続くように。


 ホニが生まれて十度星座が巡ったが、宴を見るのは初めてだ。

 皆が思い思いの布を被る。里に卸すために織っていた艶やかな布も、この日ばかりはと色を添える。織りさしの布を纏っているものまである。

 色とりどりの合間を縫って、仔牛の煙が鼻先をくすぐる。けむたいような、甘いような、胸をぎゅっと掴まれるような薫香にホニは陶然とした。


 仔牛の皮が野リス色に変わって火からおろされると、ブルゲドがそれを切り分けていく。切られるたびに皮がパリパリと立てる音は、ずっと聞いていられると思うほどだ。

 配られた肉は、ほんの親指ほど。ホニはそろそろと仔牛を口に迎え入れた。


――ああ。

 弾けるような皮の食感の中には、乳の香り。

 産まれて一度も草を食んだことのない仔牛は、乳そのもののようなふくよかな香りで、老いた肉のような臭みがまったくない。溢れ出す肉汁を飲み込むと、柔らかな肉までつるりと喉に飛び込んでしまった。


 それで終わりだ。

 ホニはため息もつけずに暫し呆然とするしかなかった。

 ああ、ああ、ああ。食べてしまった。食べ終わってしまった。

 皆に行き渡らせるには、生まれたばかりの仔牛の身体は小さすぎた。


 それが、すべてを狂わせた。


 フセルトの誰もが、陶然としているようだった。

 生まれたての仔牛を食べる機会は滅多にない。ブルゲドですら、天上の美味を噛みしめるように黙って目を閉じていた。


 やがて、誰かがやっと焚火を消して、それで宴は終わりだ。明日からもまた変わりなく、草を枕に旅をする遊牧民の暮らしが続くのだ。


 だがホニは仔牛の味が忘れられなかった。次の日のスープに混じった肉汁の気配にあの美味を思い、それも無くなると何度も何度も、狂おしいほどに肉の記憶を反芻した。


 肉が食べたい。

 またあの焼いた肉が食べたい。

 牛を追い羊を従えて日々を過ごしながら、なぜ自分は指を咥えているしかできないのか。

 幾度も幾度も思い続けて、ホニはついに、若い牝牛の蹄の間に小さな棘を差し込んだ。


 棘の刺さった牝牛は歩くのを嫌がるようになり、遂には座り込んでしまった。

 「仕方があるまい」

 族長のブルゲドがそう言って、結局、程なく肉となった。


 高値で売れる牝牛の肉はほとんどが金に換えられてしまったが、ほんのおこぼれが皆にも振舞われた。生まれたての牛ほど蕩けるように柔らかくはないが、その分、しっかりと脂の乗った若い牛の肉。

 あまりに美味で、あまりに少なく、食べるほどに飢えが増していくようだ。


 それから、不思議な事故が相次いだ。


 まだ若い牛が、羊が、怪我をすることが増えた。

 そのたびに仕方なく、家畜を潰して金に換え、余りを皆で分け合った。

 フセルトの家畜は一頭、また一頭と数を減らした。

 そのうち、家畜たちはホニも知らないうちに怪我をするようになり、ブルゲドは「仕方があるまい」と言わなくなった。


 ホニたちは当たり前のに肉を食べるようになり、フセルトの家畜は、ついにはほとんどいなくなった。


 遊牧民にとって、家畜は財産だ。

 なくなれば飢える。


 フセルトたちは呆然とした。

 これからどうやって、糊口をしのいでゆけばよいのか。

 部族の皆が過ごせるだけの蓄えは既にない。

 これからまた貧しさに耐え、空腹に耐え、肥えた舌を抱えて食えぬ家畜を育てる日々が始まるのか。


 そんな大人たちのぎらついたまなざしを見て、ホニは決めた。

 里へ下りようと。

 星を読み風と共に生きるフセルトの暮らしに愛着はあるが、自分はまだ若い。里の暮らしにもすぐに馴染むだろう。

 それに、里のものたちはよく肉を買ってくれた。

 ということは、里で暮らせば肉が食える。里で働けば、旅暮らしよりもうまいものにありつけるかもしれない。


 そう決めると、心が軽くなった。

 ホニは身の回りの物をまとめると、自分のゲルをそっと抜け出した。

 地平の端がもう白んでいる。東雲のたなびく夜明けの空に向かって、ホニは小さな体をぐっと伸ばした。



 朝日を受けて立つ少年の、まだ幼気で柔らかな肢体。

 暁光に産毛の照り映えるまろい頬。

 柔らかで、仔羊のような肉。



「仕方があるまい」

 それを見ていた誰かが言って、フセルトはそうすることにした。




――はじまりは、ちいさな仔牛。

 それが、すべてを狂わせた。




最後までお読みいただきありがとうございました。

本作はしいなここみ様主催「やきにく短編料理企画」参加作品です。


活動報告に、イラストと企画概要を置いておりますので、ぜひ他作品もご賞味ください。

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― 新着の感想 ―
 さいべり屋さん、こんにちは。 「さいしょは仔牛」拝読致しました。  大切な家畜の肉。初めて牛肉を食べた。  生まれたての子牛。親に見捨てられた、もう育たないらしい。  部族の儀式に従い、宴を催す…
 凄い凄い凄い!  筆致の確かさ、空気まで伝わる静かな暮らしの歪み方!  ……これが焼肉の醍醐味ですね。  焼肉パーティ☆★☆
因業深い因果応報のお話しでした〜 
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