さいしょは仔牛
ホニはその日、はじめて仔牛の味を知った。
フセルト族の卓に肉が上ることは少ない。
家畜は財産だからだ。
牛は荷を運ぶ。
羊は毛が取れる。
雌ならば尚良し。雌は仔を産み、乳を出す。
羊の毛で作った織物や、乳を絞って作ったチーズ。
時には羊や牛そのものも売り買いしながら、家畜のための牧草を求めて旅して回るのがフセルト族だ。
肉を禁じているわけではない。
病み衰えた羊、乳を出さなくなった山羊、そういったものを潰して肉にすることもある。
しかし肉だって売れば金になるのだ。
良い部位は金に替え、硬い屑肉を叩いて叩いて細切れにし、野草と煮込んでスープにするか、干し肉にしておいて、長い冬の間に乳や出汁に煮溶かして食べる。
それが、ホニが知っている肉の味だった。
しかし、それは生まれながらに萎えていたのだ。産み落とされたばかりの仔の袋を、母牛は器用に食い破ると、ペロペロといたわるように舐め回した。すぐに頭を上げて嬉しげに身を委ねていた仔牛だったが、やがてよたよたと身を起こした。
ぺたん。
か細い脚で立ち上がろうとはするものの、すぐによろけて座り込んでしまう。
母牛が励ますように耳を食んだ。
よたよた、ぺたん。
よたよた、ぺたん。
一晩経っても仔牛は地べたに蹲ったままで、母牛は乳をやろうとしなくなった。
それでこの仔はもう育たないと知った。
「仕方があるまい」
族長のブルゲドが苦々しく言って、ホニたちはその仔牛を潰すことにした。
生まれたてといえども、仔牛はホニより少し軽いくらいには体重があり、歩けぬものを運ぶのは骨だ。
それに仔牛は乳を飲む。育たぬ仔牛に乳をやれば、我らの分が少なくなる。
ここが人里に近かったなら売って金にしただろう。だが、こんな山間で行商人と行き合うべくもない。かといって、わざわざ里に降りるほどには仔牛の身は大きくない。
そこでブルゲドは、宴を催すことにした。
蹇の獣は不吉の予兆とされることがある。
その仔牛を焼き、歌い、踊り、大地の神に部族の安寧を願うのだ。
子供は川原へ行って、なるべく黒い石をたくさん拾ってくるよう言われた。
ホニたちがずっしり重い石ころを抱えて帰ると、女たちはそれを焚火に投げ込んだ。
男たちは仔牛の首を落とし、骨やはらわたを抜き取り、穴を広げぬよう丁寧に洗い、その穴に芋や香草、そして真っ赤に焼けた黒い石を詰め込むと、しっかりと縫い合わせた。
ボードグだ。
仔牛だったものはそのまま、石を焼いていた焚火にくべられ、中から焼かれ、外から焼かれ。
焼けるのを待つ間、フセルトたちは星へ向かって煙たなびく焚火を囲んで、布を被って踊るのだ。
つぎに生まれる仔が健康で、大きく育ち、フセルトの糧となるように。
草は茂り、乳は流れ、フセルトたちが飢えぬように。
フセルトの旅がとこしえに続くように。
ホニが生まれて十度星座が巡ったが、宴を見るのは初めてだ。
皆が思い思いの布を被る。里に卸すために織っていた艶やかな布も、この日ばかりはと色を添える。織りさしの布を纏っているものまである。
色とりどりの合間を縫って、仔牛の煙が鼻先をくすぐる。けむたいような、甘いような、胸をぎゅっと掴まれるような薫香にホニは陶然とした。
仔牛の皮が野リス色に変わって火からおろされると、ブルゲドがそれを切り分けていく。切られるたびに皮がパリパリと立てる音は、ずっと聞いていられると思うほどだ。
配られた肉は、ほんの親指ほど。ホニはそろそろと仔牛を口に迎え入れた。
――ああ。
弾けるような皮の食感の中には、乳の香り。
産まれて一度も草を食んだことのない仔牛は、乳そのもののようなふくよかな香りで、老いた肉のような臭みがまったくない。溢れ出す肉汁を飲み込むと、柔らかな肉までつるりと喉に飛び込んでしまった。
それで終わりだ。
ホニはため息もつけずに暫し呆然とするしかなかった。
ああ、ああ、ああ。食べてしまった。食べ終わってしまった。
皆に行き渡らせるには、生まれたばかりの仔牛の身体は小さすぎた。
それが、すべてを狂わせた。
フセルトの誰もが、陶然としているようだった。
生まれたての仔牛を食べる機会は滅多にない。ブルゲドですら、天上の美味を噛みしめるように黙って目を閉じていた。
やがて、誰かがやっと焚火を消して、それで宴は終わりだ。明日からもまた変わりなく、草を枕に旅をする遊牧民の暮らしが続くのだ。
だがホニは仔牛の味が忘れられなかった。次の日のスープに混じった肉汁の気配にあの美味を思い、それも無くなると何度も何度も、狂おしいほどに肉の記憶を反芻した。
肉が食べたい。
またあの焼いた肉が食べたい。
牛を追い羊を従えて日々を過ごしながら、なぜ自分は指を咥えているしかできないのか。
幾度も幾度も思い続けて、ホニはついに、若い牝牛の蹄の間に小さな棘を差し込んだ。
棘の刺さった牝牛は歩くのを嫌がるようになり、遂には座り込んでしまった。
「仕方があるまい」
族長のブルゲドがそう言って、結局、程なく肉となった。
高値で売れる牝牛の肉はほとんどが金に換えられてしまったが、ほんのおこぼれが皆にも振舞われた。生まれたての牛ほど蕩けるように柔らかくはないが、その分、しっかりと脂の乗った若い牛の肉。
あまりに美味で、あまりに少なく、食べるほどに飢えが増していくようだ。
それから、不思議な事故が相次いだ。
まだ若い牛が、羊が、怪我をすることが増えた。
そのたびに仕方なく、家畜を潰して金に換え、余りを皆で分け合った。
フセルトの家畜は一頭、また一頭と数を減らした。
そのうち、家畜たちはホニも知らないうちに怪我をするようになり、ブルゲドは「仕方があるまい」と言わなくなった。
ホニたちは当たり前のに肉を食べるようになり、フセルトの家畜は、ついにはほとんどいなくなった。
遊牧民にとって、家畜は財産だ。
なくなれば飢える。
フセルトたちは呆然とした。
これからどうやって、糊口をしのいでゆけばよいのか。
部族の皆が過ごせるだけの蓄えは既にない。
これからまた貧しさに耐え、空腹に耐え、肥えた舌を抱えて食えぬ家畜を育てる日々が始まるのか。
そんな大人たちのぎらついたまなざしを見て、ホニは決めた。
里へ下りようと。
星を読み風と共に生きるフセルトの暮らしに愛着はあるが、自分はまだ若い。里の暮らしにもすぐに馴染むだろう。
それに、里のものたちはよく肉を買ってくれた。
ということは、里で暮らせば肉が食える。里で働けば、旅暮らしよりもうまいものにありつけるかもしれない。
そう決めると、心が軽くなった。
ホニは身の回りの物をまとめると、自分のゲルをそっと抜け出した。
地平の端がもう白んでいる。東雲のたなびく夜明けの空に向かって、ホニは小さな体をぐっと伸ばした。
朝日を受けて立つ少年の、まだ幼気で柔らかな肢体。
暁光に産毛の照り映えるまろい頬。
柔らかで、仔羊のような肉。
「仕方があるまい」
それを見ていた誰かが言って、フセルトはそうすることにした。
――はじまりは、ちいさな仔牛。
それが、すべてを狂わせた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
本作はしいなここみ様主催「やきにく短編料理企画」参加作品です。
活動報告に、イラストと企画概要を置いておりますので、ぜひ他作品もご賞味ください。




