待つことは意外と難しい 後半
朝は、昨日の続きみたいに始まった。
同じ空気。
同じ匂い。
同じ広場。
でも、人の動きは、ほんの少しだけ違っている。
箒の子は、今日も外に出てきた。
まだ誰にも言われていない時間だ。
薪の前に立ち、
昨日の枝を見る。
三本。
位置も、そのまま。
しばらく眺めてから、
薪を一つ持ち上げる。
置く。
もう一つ。
置く。
三つ目で、止まる。
(……うん)
深呼吸。
肩を回す。
そして、枝を一本、薪の横に足す。
四本目。
昨日より、一つ多い。
誰も気づいていない。
父親も、母親も、
たぶん村の誰も。
でも、子ども自身は気づいている。
「ここまで」
そう言っているみたいな、
小さな満足の顔。
そこへ、母親が出てきた。
「あ……」
言葉が止まる。
薪と枝を見て、
何か言いかけて、やめた。
代わりに、こう言った。
「朝ごはん、できてるよ」
子どもは頷き、
家に入っていく。
誰も褒めない。
誰も評価しない。
でも、
否定もされなかった。
(……これは大きい)
何かを“させる”より、
何かを“奪わない”方が、
人は伸びる。
朝の光が、薪と枝を照らす。
四つ。
昨日より、確かに増えている。
俺は、井戸の縁に腰を下ろし、
その光景を目に焼き付けた。
作業療法は、
段取りを教える仕事じゃない。
自分で段取りを作れる余白を、残す仕事だ。
この世界では、
その余白が、いつも削られてきた。
「早く」
「最後まで」
「ちゃんと」
それらは全部、
余白を消す言葉だ。
今、この家の前には、
小さな余白がある。
四つ分の余白。
たったそれだけで、
朝は、昨日より少しだけ軽い。
風が吹く。
枝が一本、転がった。
でも、倒れない。
もう一本、支えがあるからだ。
俺は立ち上がり、
ゆっくりと歩き出す。
今日も、何も教えない。
何も変えない。
変わるのは、
いつも、向こうからだ。
それを、待つだけでいい。
※※※
夕方の風は、昼とは違う匂いを運んでくる。
薪の木の香りに、
土と草が混じる。
一日の終わりを知らせる、村特有の空気だ。
あの家の前に、父親が立っていた。
腕を組み、
薪と枝を見ている。
五本。
昼から増えていることに、
もう気づいているはずだ。
でも、声は出さない。
子どもは、少し離れたところで地面に座り、
小石を並べている。
こちらも、五つ。
(同じ数だな)
父親は、薪を一つ持ち上げた。
そして、子どもの方を見た。
「……ここまで、やったのか」
子どもは、うなずいた。
「うん」
それ以上、説明しない。
数も言わない。
理由も言わない。
父親は、薪を置き直し、
しばらく黙ったままだった。
この沈黙は、悪くない。
怒りも、焦りも、混じっていない。
「……明日も、やるか」
問いかけは、命令じゃなかった。
子どもは、少し考えてから答える。
「……できたら」
それで十分だった。
できるか、できないか。
約束しない。
先のことは、決めない。
父親は、小さく息を吐いた。
「そうか」
それだけ言って、家に戻る。
子どもは、並べていた小石を集め、
袋に入れた。
持ち歩くつもりらしい。
(境界を、外にも持っていくか)
悪くない。
人は、安心できる基準を、
自分で作れるようになると、
急に強くなる。
俺は、その様子を遠くから見ていた。
何も教えていない。
何も説明していない。
それでも、
世界の使い方が、
少しだけ変わっている。
作業療法は、
手を出す仕事じゃない。
手を出さなくても済む瞬間を、増やす仕事だ。
夕焼けが、
薪と枝と小石を、同じ色に染める。
五つ分の世界は、
もう狭くない。
今日は、ここまででいい。
そう思いながら、
俺はゆっくりと、
村の奥へ歩いていった。
※※※
夜が完全に落ちると、村は音を失う。
灯りは点いているが、
動いているものは少ない。
人も、魔法も、
一日の役目を終えた顔をしている。
あの家の前も、静かだった。
薪はそのまま。
枝も、小石も、
誰も片づけていない。
それが、妙に落ち着く。
俺は少し離れた場所に立ち、
その光景を眺めていた。
夜になると、
「やらなかったこと」は、
一旦、数え直される。
昼間は、
足りないところばかりが目につく。
夜は、
残ったものが、自然と浮かび上がる。
五つ分。
今日、この家に残ったのは、
それだけだ。
家の中から、足音が聞こえる。
子どもが、そっと外に出てきた。
寝る前らしい。
薄い上着を羽織り、
裸足のまま。
薪の前に立ち、
枝と小石を見下ろす。
しばらく、何もせずにいる。
(確認、だな)
昼と違うのは、
急いでいないことだ。
子どもは、枝を一本持ち上げ、
位置を少しだけ変えた。
それから、小石を一つ、
枝の横に置く。
六つ目。
薪は持たない。
動かさない。
ただ、
数だけを、増やした。
(今日は、ここまでじゃないのか)
子どもは、満足したように頷き、
小石を袋に戻す。
家に戻る前、
一度だけ、薪を振り返る。
「……あした」
声は小さい。
独り言だ。
約束じゃない。
目標でもない。
ただ、
次につながる言葉。
それだけでいい。
俺は、胸の奥で、
静かに息を整える。
作業療法は、
行動を変える仕事じゃない。
行動の“終わり方”を、安心できるものにする仕事だ。
終われるから、
また始められる。
この世界は、
始めることばかりを重視してきた。
才能。
努力。
継続。
でも、
終わりが乱暴だと、
次は来ない。
今日、この家の前には、
ちゃんとした終わりがある。
六つ分の、
穏やかな終わり。
夜風が、灯りを揺らす。
枝も、小石も、動かない。
それでいい。
明日も、
きっと同じ場所で、
同じように、
少しずつ、世界は進む。
俺は踵を返し、
音を立てないように、
暗い道を歩き出した。
まだ、急ぐ必要はない。
※※※
朝の空気は、昨日より軽かった。
薪の前には、枝も、小石も、もうない。
誰かが片づけたのか、
それとも、子ども自身がしまったのか。
どちらでもいい。
残っているのは、
昨日までとは違う「空白」だ。
あの子は、まだ出てきていない。
家の中は静かで、
急ぐ気配もない。
俺は井戸の縁に腰を下ろし、
水をすくった。
冷たい。
いつも通りだ。
でも、
同じことが、
同じ意味で繰り返されるとは限らない。
昨日まで、
「途中」と呼ばれていたものは、
もう「途中」じゃない。
ちゃんと終わって、
ちゃんと次に渡された。
それだけで、
朝は、少し違う。
遠くで、別の子どもが泣いている声がした。
高くて、鋭い。
(……次は、あっちか)
困りごとは、尽きない。
この世界は、そういう作りだ。
でも、
一つずつでいい。
急がない。
まとめない。
説明もしない。
昨日できたことが、
今日もできるとは限らない。
それでも、
昨日が無駄になることはない。
俺は立ち上がり、
声のした方へ、
ゆっくり歩き出した。




