待つことは意外と難しい 前半
朝の広場は、昨日と同じようで、少しだけ違っていた。
箒を持つ子は、今日も同じ場所にいた。
同じ時間。
同じ持ち方。
同じ止まり方。
変わったのは、周囲の視線だ。
怒鳴られる回数が、ひとつ減っている。
代わりに、ため息が増えた。
「……まだ終わらないのか」
責める声ではない。
困っている声だ。
子どもは聞こえないふりをして、箒を動かす。
三回。
止まる。
また戻る。
(やっぱり、同じ)
俺は井戸の縁に腰を下ろし、手のひらで水をすくった。
冷たい。
目が覚める。
少し離れたところで、魔法の練習が始まった。
子どもたちが並び、短い詠唱を繰り返す。
光る子。
うまくいかない子。
途中で視線が逸れる子。
箒の子は、ここでも同じだった。
詠唱の途中で、口が止まる。
周囲を見る。
指を動かす。
また最初からやり直す。
「集中しろ」
教える側の声が飛ぶ。
集中。
またその言葉だ。
(集中してないわけじゃないんだが)
詠唱の最初は、正確だ。
声も、姿勢も、悪くない。
ただ、続かない。
それだけ。
「ほら、また途中だ」
指摘され、子どもは頷く。
言い返さない。
ふてくされない。
(……真面目だな)
真面目だから、
できない自分を、毎回引き受けてしまう。
俺は、詠唱の長さを目で追う。
短い。
子ども向けに簡略化されている――という建前だ。
(大人基準で、な)
この世界の簡略化は、
だいたい「少し短くしただけ」で終わる。
区切りはない。
休む場所もない。
戻る位置も示されない。
一気にやれ、が前提だ。
箒の子は、詠唱を途中で止め、
自分の手を見る。
怒られる前の顔。
失敗を予測している顔。
俺は、声をかけなかった。
代わりに、地面に落ちている小石を一つ拾い、
自分の足元に置いた。
また一つ。
さらに一つ。
三つ並べる。
子どもが、ちらりとこちらを見る。
目が合う。
すぐに逸らされる。
(いい)
今日は、それでいい。
詠唱は失敗に終わった。
箒の子は列の後ろに下がり、
肩を落とす。
誰も褒めない。
誰も慰めない。
この世界では、それが普通だ。
俺は立ち上がり、
広場を後にした。
歩きながら考える。
続かないのは、怠けでも、反抗でもない。
ましてや、魔力の欠陥でもない。
使い切れる量が、短いだけ。
それを、
長いものさしで測り続けている。
だから、毎日、同じ結果になる。
同じ時間。
同じ場所。
同じため息。
この村は、
まだそれに気づいていない。
気づかせる必要も、急ぎはしない。
ただ、
同じ子が、
同じことで、
同じようにつまずいている。
その事実を、
今日も一つ、積み上げただけだ
※※※
昼下がりの村は、音が少ない。
鍛冶場の金属音も止み、
家々の扉は半分ほど閉じられている。
動いているのは、風と、影と、
それから――あの子だ。
広場の端。
箒の子は、今度は何も持っていなかった。
代わりに、地面に線を引いている。
枝の先で、ぐるりと円を描き、
その中を歩く。
歩いて、止まる。
また歩く。
(……ああ)
見覚えがありすぎる。
誰に言われたわけでもない。
叱られた直後でもない。
ただ、自分で動いている。
円は、さっきより少し大きい。
一定の速さ。
一定の距離。
外から見れば、意味のない動きだ。
仕事をしていない。
練習にも見えない。
でも――
本人の顔は、朝よりずっと落ち着いていた。
「何してるんだ?」
近くを通りかかった大人が声をかける。
子どもは、びくっとするが、逃げない。
「……歩いてる」
「そんなことしても、何にもならんぞ」
子どもは何も言わず、
円の中に戻る。
(戻る、か)
さっきからずっとそうだ。
止められても、否定されても、
完全にはやめない。
続かないくせに、
やめもしない。
矛盾しているようで、
実は、とても一貫している。
俺は、昨日拾った小石のことを思い出す。
三つ並べたやつだ。
集中が切れる場所。
動きが止まる場所。
そこには、境界がある。
この子は今、
自分で境界を作っている。
「おい、掃除は終わったのか」
別の声が飛ぶ。
子どもは、少しだけ考えてから言った。
「……あとで」
「あとで、はダメだ」
「……わかった」
口ではそう言いながら、
身体は円の中に残る。
(身体の方が正直だな)
俺は、ゆっくり近づき、
円の外に立った。
中には入らない。
邪魔もしない。
「それ、疲れない?」
そう聞くと、子どもは首を振った。
「ううん」
「楽?」
少し考えてから、頷く。
「……うん」
それ以上、聞かない。
楽。
それが、答えだ。
人は、楽な状態のとき、
一番長く続く。
努力で続く時間より、
楽で続く時間の方が、
ずっと価値がある。
子どもは、円を一周すると、
ぴたりと止まった。
息を吐く。
空を見る。
それから、こちらを見る。
「……さっきのより、
これの方が、長くできる」
「そうだね」
俺は、それだけ言った。
比較は、大事だ。
叱責より、
命令より、
ずっと。
子どもは、円を消さずに、
枝を置いた。
そのまま、家の方へ歩いていく。
箒は、まだ手にしていない。
掃除も、終わっていない。
でも――
今日は、朝よりも、
確実に前に進んでいる。
続かない子は、
続かないわけじゃない。
続く形を、探しているだけだ。
この世界は、
それを待たずに、結論を出す。
だから、
同じ子が、
同じ場所で、
同じようにつまずく。
俺は、消えかけた円を見下ろしながら、
思った。
この線は、
きっと明日も、
誰かの足を止める。
でも、止まることは、
悪いことじゃない。
止まれる場所があるから、
また、動ける。
風が吹き、
円の線が少しだけ崩れた。
それでいい。
今日は、それでいい。
※※※
夕方になると、村は少しだけ柔らかくなる。
昼間の張りつめた空気が抜けて、
声の角が丸くなる時間だ。
それでも、あの子の動きは、相変わらずだった。
今度は家の前。
箒でも、魔法でもない。
積まれた薪を前に、しゃがみ込んでいる。
一つ持ち上げて、置く。
また一つ。
三つ目で、止まる。
肩を回し、
視線を横に流し、
空を見上げる。
(……三つ、だな)
誰に教えられたわけでもない。
でも、身体はもう知っている。
そこが限界だ、と。
「まだ残ってるだろ」
家の中から、父親の声がした。
責めるほど強くはないが、急かしている。
子どもは、小さく返事をする。
「うん……」
立ち上がり、もう一つ薪に手を伸ばす。
でも、持ち上げない。
触っただけで、手を引っ込める。
(無理をしない)
それもまた、選択だ。
父親が外に出てくる。
「どうして、途中で止まるんだ」
子どもは、答えない。
答えられない、の方が近い。
「さっきも、掃除を途中でやめただろ」
その言葉に、子どもの肩が少し下がる。
俺は、家の塀の向こうから、静かに見ていた。
口を挟むつもりはない。
父親は、薪を二つまとめて持ち上げた。
「ほら、これくらい――」
途中で言葉が止まる。
子どもの顔を見たからだ。
視線が落ち、
唇が強く結ばれている。
(……来てるな)
無理を重ねる前の、あの感じ。
父親は、薪を下ろした。
少し乱暴な音がした。
「……もういい。中に入れ」
子どもは、ほっとしたような、
でも、どこか負けたような顔で、家に入る。
残された薪。
半分ほど。
父親は、それを見て、ため息をついた。
「……なんで、あいつは」
言葉は続かなかった。
俺は、その背中を見ながら考える。
あの子は、途中でやめたんじゃない。
途中まで、できた。
三つ。
それは、ゼロじゃない。
でも、この世界では、
終わらせなかったものは、
「やらなかった」に分類される。
白か黒か。
終わったか、終わらないか。
その間にあるものを、
誰も数えない。
夕暮れの影が伸びる。
俺は、地面に落ちていた小さな枝を拾い、
薪のそばに置いた。
三本。
並べるだけ。
意味はない。
少なくとも、他人には。
でも、明日、あの子が外に出たとき、
この三本を見たら、
きっと分かる。
「ここまでは、できた」
それだけで、
また、動けることがある。
作業療法は、
頑張らせる仕事じゃない。
できたところを、残す仕事だ。
今日は、誰にも説明しない。
名前も、理屈も、いらない。
夕焼けが、薪と枝を同じ色に染める。
三つで止まる世界に、
三つでいい場所を作る。
それだけで、
十分、前に進んでいる。
俺は、その場を離れ、
静かになった村の中を歩いた。
※※※
夜が近づくと、村の灯りは少しずつ増える。
魔法の灯火は便利だ。
触れれば点き、放っておけば消える。
それでも、灯りの数は決まっている。
必要なところにだけ、置かれる。
あの子の家の前にも、ひとつ灯りが点いていた。
昼に積み残された薪は、まだそのままだ。
父親が片づけるでもなく、
母親が手を出すでもなく、
ただ、そこにある。
(……残してる、か)
責めるでも、無視するでもない。
判断を保留したまま、夜に入った感じだ。
俺は少し離れた場所で立ち止まった。
家の中から、声が聞こえる。
「今日は、ここまででいい」
母親の声だ。
優しいが、どこか慣れていない。
「……ほんと?」
子どもの声。
「うん」
短い返事。
それだけで、会話は終わったらしい。
しばらくして、子どもが外に出てきた。
手には、昼と同じ枝。
薪の前にしゃがみ込み、
枝を三本、並べ直す。
位置を少し変え、
間隔を揃える。
(確認、だな)
終わった仕事を、
もう一度見に来る。
誰に言われたわけでもない。
自分で。
それが終わると、
枝をそのままにして、
家に戻っていった。
俺は、灯りに照らされた薪と枝を見つめる。
三つ。
今日も、三つ。
でも、朝とは意味が違う。
朝は「できなかった三つ」。
今は「できた三つ」。
同じ数なのに、
中身がまるで違う。
この違いを、
言葉にしなくても、
子どもの身体はもう分かっている。
明日、また同じことをするかもしれない。
三つで止まるかもしれない。
それでも、
「できた」が残る。
残るものがあれば、
人は、また始められる。
灯りが、ふっと揺れた。
夜風だ。
魔法でも、奇跡でもない。
ただの風。
でも、十分だった。
この世界は、
長く続けられる人のために、
ずっと作られてきた。
だから、
短く区切る人は、
いつも遅れているように見える。
本当は、
ちゃんと、自分の速度で進んでいるだけなのに。
俺は、静かに歩き出す。
明日も、
きっと同じ場所で、
同じ数が並ぶ。
それでいい。
世界が変わるのは、
いつも、そういうところからだ。




