何もしないという選択
草地から戻る頃には、日が少し傾いていた。
走り回っていたあの子は、結局、最後まで名前を聞かせてくれなかった。
聞かなかった、と言った方が正しいかもしれない。
草の上に座り込み、息を整え、
最後はただ、空を見ていた。
魔力は出なかった。
問題も起きなかった。
奇跡も、ない。
村に戻る途中、付き添っていた大人の一人が言った。
「……あれで、良かったのか?」
俺は少し考えた。
「今日は、あれで十分です」
「何もしてないじゃないか」
「はい」
否定はしない。
「何もしない、をしました」
大人は納得していない顔だったが、それ以上は何も言わなかった。
村の入り口で別れ、俺は一人になる。
夕方の空気は、どこか重たい。
(この世界は、すぐに結果を求めすぎる)
魔法があるからだろう。
光る、飛ぶ、治る。
目に見える変化が、当たり前になっている。
でも――
発達も、適応も、生活も。
本来はもっと、時間がかかる。
空き家に戻り、腰を下ろす。
木の床は硬い。
背中に、じわっと疲れが広がる。
ふと、前世のことを思い出した。
訓練室の隅で、
動かない子を前に、
同僚が焦っていた。
「何かさせた方がいいですよね?」
あの時の俺は、こう答えた。
「今は、入ってこられるのを待ってるだけです」
沈黙が怖かった。
保護者の視線が痛かった。
それでも、待った。
結果が出るのは、いつも後だった。
(……同じだな)
世界が変わっても、
“できない”に向き合う構造は、変わらない。
違うのは、
この世界では、
待つという行為が、価値として存在していないことだ。
「止めろ」
「座れ」
「ちゃんとしろ」
全部、正しそうに聞こえる。
でも、その正しさは、誰のためだ?
俺は、今日の子どもの走り方を思い出す。
一定のリズム。
同じ距離。
同じ軌道。
無秩序に見えて、
実はかなり整っていた。
(自分で、自分を整えてたんだ)
それを止めたら、
もっと壊れていたかもしれない。
外で、足音がした。
「……あの」
昼間、草地に一緒に行った大人の一人だった。
手に、小さな袋を持っている。
「子どもが……」
言い淀む。
「さっきまで、家の周りを走ってたんだが」
俺は黙って聞く。
「今日は、ぶつからなかった。
物も壊さなかった」
袋を差し出される。
中には、硬そうなパンが入っていた。
「礼だ。……多分」
俺は受け取った。
「ありがとうございます」
それだけで、十分だった。
人は、
理屈より先に、
安心を欲しがる。
今日は、ほんの少しだけ、
それを渡せた気がする。
明日も、劇的なことは起きないだろう。
でも、
誰かが「止める」前に、
「様子を見る」ことを思い出す。
それだけで、世界は少し変わる。
作業療法は、
魔法みたいに見えない。
でも、
魔法より長く、効くことがある。
俺は、固いパンをかじりながら、
そんなことを考えていた。




