娘
馬車の音が、村道の向こうに溶けていった。
蹄の規則正しさが、土の柔らかさに吸われ、
革の軋みが、夕方の虫の声にほどけていく。
最後に残ったのは、風が草を撫でる音だけだった。
空き家の前に、誰もいない。
ついさっきまで、人の気配が重なっていた場所は、
拍子抜けするほど軽い。
音も、匂いも、元に戻っているのに、
何かが確実に抜け落ちている。
エリシアは、動かなかった。
立ったまま、
視線を落とし、
足元の土を見ている。
踏み固められた跡。
馬車の轍。
誰かが無意識に掴んで離した草。
それらを、ただ見ている。
「……行った」
声は、独り言に近い。
カイは、少し離れた位置で、
何も言わずに立っていた。
近づかない。
離れすぎない。
今は、言葉が余る。
エリシアは、
ゆっくりと一歩、後ろに下がった。
その一歩が、
空き家の影に入る。
日向から、影へ。
光が、急にやわらぐ。
肩が、わずかに落ちる。
「……ここ」
低い声。
「音が、戻った」
村の音だ。
鍬が土を打つ音。
遠くの話し声。
子どもの笑い声。
どれも、彼女に向けられていない。
エリシアは、靴を脱いだ。
脱ぎ方が、少し乱暴だ。
だが、投げない。
置く位置を、一度だけ直す。
それから、中に入る。
空き家の中は、
昼と同じ匂いがした。
木。
埃。
古い板。
変わらない。
変わらないことが、
今はありがたい。
エリシアは、
床の中央に進み、
そのまま、座った。
勢いはない。
崩れ落ちる感じでもない。
ただ、
終わらせる座り方だった。
膝を抱え、
額を少し下げる。
呼吸が、浅くなる。
一度、止まる。
次の呼吸で、
少しだけ深くなる。
「……」
言葉は出ない。
出そうともしない。
胸の奥に、
まだ、ざらざらしたものが残っている。
怒り。
悔しさ。
理解されなかった感覚。
それらが、
一つの塊にならず、
ばらばらのまま、沈んでいる。
エリシアは、
床に手をついた。
指を開き、
板の冷たさを確かめる。
冷たい。
固い。
逃げない。
それを確認してから、
視線を動かす。
木片が、
いつもの場所にある。
昨日、
淡く光ったそれ。
今日は、光らない。
ただの木だ。
それが、いい。
エリシアは、
木片を手に取らなかった。
代わりに、
距離を測る。
目で。
身体で。
ここにある、という事実だけを受け取る。
「……私」
小さな声。
「……話した」
言葉にした瞬間、
胸の奥で、何かがほどける。
全部ではない。
だが、結び目が一つ、緩んだ。
「……止まらなかった」
昨日までなら、
途中で声が詰まり、
逃げるか、噛みつくか、
どちらかを選んでいた。
今日は、
選ばなかった。
そのことに、
遅れて気づく。
エリシアは、
額を膝に預けた。
視界が、暗くなる。
「……疲れた」
今度は、はっきりした声。
疲れた、という言葉は、
弱音ではない。
結果だ。
カイが、
ようやく口を開いた。
「ええ」
短い返事。
「……それだけ?」
エリシアが、顔を上げずに言う。
「もっと、
何か言うかと思った」
「今は、
それで十分です」
「……評価しないの?」
「しません」
即答。
エリシアは、
小さく鼻で笑った。
「……変」
「よく言われます」
それ以上、
言葉は続かない。
沈黙が、
重くならない。
それは、
この空き家が持つ、
奇妙な性質だった。
誰も、
急がせない。
エリシアは、
ゆっくりと体を起こした。
膝を抱えたまま、
背中を壁に預ける。
「……家だと」
ぽつりと。
「今頃、
反省会が始まってる」
「でしょうね」
「何が足りなかったか。
どう改善するか。
次はどうするか」
声に、皮肉はない。
ただ、
知っている事実を並べている。
「……ここだと」
間。
「……何もしなくて、
いい」
その言葉を、
自分で確かめるように、
もう一度、息を吐く。
「……怖い」
「ええ」
「でも」
視線が、
床の掃いた跡に向く。
あの、
小さな四角。
「……戻れる」
戻れる、という言葉を、
彼女は初めて使った。
前は、
「逃げられる」だった。
カイは、
それを訂正しない。
訂正する必要がない。
エリシアは、
しばらく、その四角を見ていた。
それから、
ゆっくり立ち上がる。
立ち上がり方は、
さっきより、少し楽だ。
「……ねえ」
「はい」
「私、
今日は」
少し考える。
「……もう、
何もしない」
「ええ」
「それで、
いい?」
「ええ」
三度目の「ええ」で、
彼女の肩から、
完全に力が抜けた。
エリシアは、
壁沿いに歩き、
窓の近くに座る。
外の音が、
よく聞こえる位置。
「……明日」
「はい」
「明日は、
どうなる?」
問いかけだが、
不安ではない。
確認だ。
「分かりません」
正直な答え。
「……そっか」
エリシアは、
それを受け取る。
「……でも」
小さく、続ける。
「今日みたいに、
終われるなら」
言葉を切る。
「……多分、
大丈夫」
それは、
希望でも、決意でもない。
身体感覚だった。
空き家の中に、
夕闇が広がる。
光が、完全に消える前、
床の四角が、
一瞬だけ、浮かび上がる。
それを、
エリシアは見た。
「……今日は、
ここまで」
誰に言うでもなく。
カイは、
何も言わない。
その沈黙は、
置き去りではない。
見送る沈黙だ。
空き家は、
何も言わない。
だから、
彼女は、戻れる。
今日、
親と話したことよりも、
ここに戻ってこれたことの方が、
確かだった。
それで、
十分だった。




