表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

20/20

馬車の音が、村道の向こうに溶けていった。


蹄の規則正しさが、土の柔らかさに吸われ、

革の軋みが、夕方の虫の声にほどけていく。

最後に残ったのは、風が草を撫でる音だけだった。


空き家の前に、誰もいない。


ついさっきまで、人の気配が重なっていた場所は、

拍子抜けするほど軽い。

音も、匂いも、元に戻っているのに、

何かが確実に抜け落ちている。


エリシアは、動かなかった。


立ったまま、

視線を落とし、

足元の土を見ている。


踏み固められた跡。

馬車の轍。

誰かが無意識に掴んで離した草。


それらを、ただ見ている。


「……行った」


声は、独り言に近い。


カイは、少し離れた位置で、

何も言わずに立っていた。


近づかない。

離れすぎない。


今は、言葉が余る。


エリシアは、

ゆっくりと一歩、後ろに下がった。


その一歩が、

空き家の影に入る。


日向から、影へ。

光が、急にやわらぐ。


肩が、わずかに落ちる。


「……ここ」


低い声。


「音が、戻った」


村の音だ。

鍬が土を打つ音。

遠くの話し声。

子どもの笑い声。


どれも、彼女に向けられていない。


エリシアは、靴を脱いだ。


脱ぎ方が、少し乱暴だ。

だが、投げない。

置く位置を、一度だけ直す。


それから、中に入る。


空き家の中は、

昼と同じ匂いがした。


木。

埃。

古い板。


変わらない。


変わらないことが、

今はありがたい。


エリシアは、

床の中央に進み、

そのまま、座った。


勢いはない。

崩れ落ちる感じでもない。


ただ、

終わらせる座り方だった。


膝を抱え、

額を少し下げる。


呼吸が、浅くなる。

一度、止まる。


次の呼吸で、

少しだけ深くなる。


「……」


言葉は出ない。


出そうともしない。


胸の奥に、

まだ、ざらざらしたものが残っている。


怒り。

悔しさ。

理解されなかった感覚。


それらが、

一つの塊にならず、

ばらばらのまま、沈んでいる。


エリシアは、

床に手をついた。


指を開き、

板の冷たさを確かめる。


冷たい。

固い。


逃げない。


それを確認してから、

視線を動かす。


木片が、

いつもの場所にある。


昨日、

淡く光ったそれ。


今日は、光らない。


ただの木だ。


それが、いい。


エリシアは、

木片を手に取らなかった。


代わりに、

距離を測る。


目で。

身体で。


ここにある、という事実だけを受け取る。


「……私」


小さな声。


「……話した」


言葉にした瞬間、

胸の奥で、何かがほどける。


全部ではない。

だが、結び目が一つ、緩んだ。


「……止まらなかった」


昨日までなら、

途中で声が詰まり、

逃げるか、噛みつくか、

どちらかを選んでいた。


今日は、

選ばなかった。


そのことに、

遅れて気づく。


エリシアは、

額を膝に預けた。


視界が、暗くなる。


「……疲れた」


今度は、はっきりした声。


疲れた、という言葉は、

弱音ではない。


結果だ。


カイが、

ようやく口を開いた。


「ええ」


短い返事。


「……それだけ?」


エリシアが、顔を上げずに言う。


「もっと、

 何か言うかと思った」


「今は、

 それで十分です」


「……評価しないの?」


「しません」


即答。


エリシアは、

小さく鼻で笑った。


「……変」


「よく言われます」


それ以上、

言葉は続かない。


沈黙が、

重くならない。


それは、

この空き家が持つ、

奇妙な性質だった。


誰も、

急がせない。


エリシアは、

ゆっくりと体を起こした。


膝を抱えたまま、

背中を壁に預ける。


「……家だと」


ぽつりと。


「今頃、

 反省会が始まってる」


「でしょうね」


「何が足りなかったか。

 どう改善するか。

 次はどうするか」


声に、皮肉はない。


ただ、

知っている事実を並べている。


「……ここだと」


間。


「……何もしなくて、

 いい」


その言葉を、

自分で確かめるように、

もう一度、息を吐く。


「……怖い」


「ええ」


「でも」


視線が、

床の掃いた跡に向く。


あの、

小さな四角。


「……戻れる」


戻れる、という言葉を、

彼女は初めて使った。


前は、

「逃げられる」だった。


カイは、

それを訂正しない。


訂正する必要がない。


エリシアは、

しばらく、その四角を見ていた。


それから、

ゆっくり立ち上がる。


立ち上がり方は、

さっきより、少し楽だ。


「……ねえ」


「はい」


「私、

 今日は」


少し考える。


「……もう、

 何もしない」


「ええ」


「それで、

 いい?」


「ええ」


三度目の「ええ」で、

彼女の肩から、

完全に力が抜けた。


エリシアは、

壁沿いに歩き、

窓の近くに座る。


外の音が、

よく聞こえる位置。


「……明日」


「はい」


「明日は、

 どうなる?」


問いかけだが、

不安ではない。


確認だ。


「分かりません」


正直な答え。


「……そっか」


エリシアは、

それを受け取る。


「……でも」


小さく、続ける。


「今日みたいに、

 終われるなら」


言葉を切る。


「……多分、

 大丈夫」


それは、

希望でも、決意でもない。


身体感覚だった。


空き家の中に、

夕闇が広がる。


光が、完全に消える前、

床の四角が、

一瞬だけ、浮かび上がる。


それを、

エリシアは見た。


「……今日は、

 ここまで」


誰に言うでもなく。


カイは、

何も言わない。


その沈黙は、

置き去りではない。


見送る沈黙だ。


空き家は、

何も言わない。


だから、

彼女は、戻れる。


今日、

親と話したことよりも、

ここに戻ってこれたことの方が、

確かだった。


それで、

十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ