表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

19/20

母親

母は、娘の声より先に、娘の肩を見ていた。


わずかに上がって、

わずかに下がる。

呼吸に合わせて動く、その小さな上下。


乱れてはいない。

だが、整えようともしていない。


それが、母には引っかかった。


エリシアは、いつも“整えた姿”で立っていた。

感情が追いつく前に、形が先に来る。

その形を崩さないために、声の調子を抑え、言葉を選ぶ。


母は、それを誇りに思っていた。


同時に、

いつか壊れるだろうとも思っていた。


だから、こう言った。


「それは、成長ではありません」


その言葉は、冷たい拒絶ではない。

母にとっては、守るための線引きだった。


“それを成長と呼んではいけない”

“まだ、褒めてはいけない”


そうしなければ、

娘は、ここで安心してしまう。


安心して、

また次に、無理をする。


母は、そういう壊れ方を、何度も見てきた。


屋敷の中で。

学舎で。

社交の場で。


才能ある子どもが、

一度の成功で期待を背負い、

次で潰れる。


だから、母は抑える。

褒めない。

認めない。


それが、母のやり方だった。


だが――


娘が「分かっています」と答えた瞬間、

母の胸に、微かな違和感が走る。


否定された時の、いつもの反応ではない。


怒らない。

反発しない。

言い訳もしない。


飲み込んでいる。


それも、我慢して飲み込むのではない。

理解した上で、受け取っている。


母は、そこで初めて、

“娘が自分の言葉をどう受け取っているか”を考えた。


これまで、

母の言葉は、娘の行動を修正するためにあった。


今、

その言葉は、娘の中で止まっている。


修正にも、反発にも、使われない。


母は、無意識に、

指先を重ねる。


この仕草は、

感情が外に出そうな時の癖だ。


「必要でした」


その一言を聞いた時、

母は、胸の奥がきしむのを感じた。


必要。

それは、理由でも、言い訳でもない。


選択の言葉だ。


母は、娘が“選ぶ”ことを、

ずっと恐れてきた。


選べば、

失敗するかもしれない。


失敗すれば、

傷つく。


傷つけば、

立ち直れないかもしれない。


だから、選ばせない。

正しい道を用意する。

それが、愛だと信じてきた。


だが今、

娘は言っている。


「必要だった」と。


それは、

母の用意した道の外側で、

自分にとって必要だった、という意味だ。


母は、娘の言葉を否定しなかった。


否定すれば、

今度は“守るため”ではなく、

奪うための言葉になる。


それを、母は知っていた。


父が一歩、前に出る。


母は、その動きを視界の端で捉え、

すぐに判断する。


――今、口を出せば、壊れる。


父は、論理で場を締める人間だ。

娘が耐えられるかどうかを、

常に“外側”から測る。


だが、今の娘は、

内側で踏みとどまっている。


ここに、母の言葉を足せば、

重さが増す。


だから、母は、

一度だけ、父を制した。


それは、

父を止めるためではない。


娘の時間を奪わないためだ。


娘の説明は、拙い。

順序も、整っていない。


母は、何度も、

言葉を補いたくなる。


「つまり、こういうことですね」

「要点は、そこではなく――」


その一言で、

場は整う。

理解も進む。


だが、それをすれば、

娘の言葉は、娘のものではなくなる。


母は、それに耐えた。


胸の奥が、少し痛む。


それは、不安だ。

娘を信じ切れない、不安。


同時に、

自分が要らなくなるかもしれない、という恐れ。


母は、気づいてしまう。


――娘は、今、

 私を必要としていない。


少なくとも、

“導く母”としては。


その事実は、

誇らしくもあり、

寂しくもある。


母は、視線を落とし、

娘の足元を見る。


揃えられていない足。

だが、踏ん張っている。


完璧ではない。

しかし、折れていない。


母は、心の中で、

そっと言葉を選ぶ。


まだ、認めない。

だが、否定もしない。


それが、今できる、

唯一の支え方だと理解した。


母は、沈黙を選ぶ。


その沈黙は、

逃げではない。


委ねる沈黙だ。


娘が、ここまで来たことを、

言葉にしないまま、

胸に留める。


いつか、

娘が振り返った時、

「あの時、母は黙っていた」と思い出せるように。


それで、十分だ。


母は、

ゆっくりと息を吐いた。


声を出さずに。


そして、

再び娘を見る。


その目は、

厳しくも、

優しくもない。


ただ、

一人の人間を見る目だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ