母親
母は、娘の声より先に、娘の肩を見ていた。
わずかに上がって、
わずかに下がる。
呼吸に合わせて動く、その小さな上下。
乱れてはいない。
だが、整えようともしていない。
それが、母には引っかかった。
エリシアは、いつも“整えた姿”で立っていた。
感情が追いつく前に、形が先に来る。
その形を崩さないために、声の調子を抑え、言葉を選ぶ。
母は、それを誇りに思っていた。
同時に、
いつか壊れるだろうとも思っていた。
だから、こう言った。
「それは、成長ではありません」
その言葉は、冷たい拒絶ではない。
母にとっては、守るための線引きだった。
“それを成長と呼んではいけない”
“まだ、褒めてはいけない”
そうしなければ、
娘は、ここで安心してしまう。
安心して、
また次に、無理をする。
母は、そういう壊れ方を、何度も見てきた。
屋敷の中で。
学舎で。
社交の場で。
才能ある子どもが、
一度の成功で期待を背負い、
次で潰れる。
だから、母は抑える。
褒めない。
認めない。
それが、母のやり方だった。
だが――
娘が「分かっています」と答えた瞬間、
母の胸に、微かな違和感が走る。
否定された時の、いつもの反応ではない。
怒らない。
反発しない。
言い訳もしない。
飲み込んでいる。
それも、我慢して飲み込むのではない。
理解した上で、受け取っている。
母は、そこで初めて、
“娘が自分の言葉をどう受け取っているか”を考えた。
これまで、
母の言葉は、娘の行動を修正するためにあった。
今、
その言葉は、娘の中で止まっている。
修正にも、反発にも、使われない。
母は、無意識に、
指先を重ねる。
この仕草は、
感情が外に出そうな時の癖だ。
「必要でした」
その一言を聞いた時、
母は、胸の奥がきしむのを感じた。
必要。
それは、理由でも、言い訳でもない。
選択の言葉だ。
母は、娘が“選ぶ”ことを、
ずっと恐れてきた。
選べば、
失敗するかもしれない。
失敗すれば、
傷つく。
傷つけば、
立ち直れないかもしれない。
だから、選ばせない。
正しい道を用意する。
それが、愛だと信じてきた。
だが今、
娘は言っている。
「必要だった」と。
それは、
母の用意した道の外側で、
自分にとって必要だった、という意味だ。
母は、娘の言葉を否定しなかった。
否定すれば、
今度は“守るため”ではなく、
奪うための言葉になる。
それを、母は知っていた。
父が一歩、前に出る。
母は、その動きを視界の端で捉え、
すぐに判断する。
――今、口を出せば、壊れる。
父は、論理で場を締める人間だ。
娘が耐えられるかどうかを、
常に“外側”から測る。
だが、今の娘は、
内側で踏みとどまっている。
ここに、母の言葉を足せば、
重さが増す。
だから、母は、
一度だけ、父を制した。
それは、
父を止めるためではない。
娘の時間を奪わないためだ。
娘の説明は、拙い。
順序も、整っていない。
母は、何度も、
言葉を補いたくなる。
「つまり、こういうことですね」
「要点は、そこではなく――」
その一言で、
場は整う。
理解も進む。
だが、それをすれば、
娘の言葉は、娘のものではなくなる。
母は、それに耐えた。
胸の奥が、少し痛む。
それは、不安だ。
娘を信じ切れない、不安。
同時に、
自分が要らなくなるかもしれない、という恐れ。
母は、気づいてしまう。
――娘は、今、
私を必要としていない。
少なくとも、
“導く母”としては。
その事実は、
誇らしくもあり、
寂しくもある。
母は、視線を落とし、
娘の足元を見る。
揃えられていない足。
だが、踏ん張っている。
完璧ではない。
しかし、折れていない。
母は、心の中で、
そっと言葉を選ぶ。
まだ、認めない。
だが、否定もしない。
それが、今できる、
唯一の支え方だと理解した。
母は、沈黙を選ぶ。
その沈黙は、
逃げではない。
委ねる沈黙だ。
娘が、ここまで来たことを、
言葉にしないまま、
胸に留める。
いつか、
娘が振り返った時、
「あの時、母は黙っていた」と思い出せるように。
それで、十分だ。
母は、
ゆっくりと息を吐いた。
声を出さずに。
そして、
再び娘を見る。
その目は、
厳しくも、
優しくもない。
ただ、
一人の人間を見る目だった。




