父親
父は、娘の声を聞きながら、剣を持たない手の癖を抑えていた。
握る。
離す。
また、握る。
何も持っていない時ほど、
身体は過去の動きを繰り返そうとする。
エリシアは、立っている。
それだけで、父は違和感を覚えた。
姿勢が整っているからではない。
整えようとしていないのに、立っている。
これまで、彼女は常に“正しい形”を先に取ってきた。
背筋。視線。声量。
その形が崩れないよう、言葉を選び、呼吸を抑え、感情を飲み込む。
それは、貴族としては優秀だった。
だが、父は知っている。
――あの立ち方は、長くは持たない。
崩れる前に、誰かが支える必要がある。
支えられないなら、場所を変える。
それが、彼の判断だった。
「当然だ」
自分の声が、思ったより硬いと感じた。
無事であることは前提だ。
そうでなければならない。
そうでなければ、彼がこれまで下してきた判断が、
すべて間違いになる。
だから、当然だと言った。
エリシアが、首を振る。
その動きは、遅い。
慎重で、ためらいがある。
だが、引き返さない。
父は、その首の動きを見て、
胸の奥が微かに疼くのを感じた。
――止まれた、だと?
その言葉は、父の価値観に馴染まない。
止まる、とは何だ。
訓練は、止まらせるために行うものではない。
持続させるためのものだ。
耐える。
制御する。
続ける。
それが力だ。
「誰の判断だ」
短く問う。
他者の影響か。
村の者か。
あるいは、あの男か。
だが、娘は言った。
「私です」
その返答は、想定していなかった。
父は、一歩、近づく。
距離を詰めれば、相手は反射的に引く。
それが常だった。
だが、エリシアは引かなかった。
完全に動かないわけでもない。
足に、わずかな力が入る。
だが、退かない。
その姿を見て、父は理解する。
――これは、反抗ではない。
命令を拒んでいるわけでも、
意見を押し通そうとしているわけでもない。
踏みとどまっている。
それは、剣を学ぶ者が最初に覚える感覚だ。
攻める前でも、守る前でもない。
重心を、足裏に落とす感覚。
母が言う。
「それは、成長ではありません」
その言葉は、父自身が使ってきた言葉だ。
甘さを排するための言葉。
期待を下げないための言葉。
娘がうなずく。
「分かっています」
この返事に、父は戸惑う。
否定しない。
噛みつかない。
言い訳もしない。
それでも、退かない。
「必要でした」
その言葉は、論理としては弱い。
証明も、再現性もない。
だが、父の中で、
別の記憶が呼び起こされる。
若い頃、
自分が初めて部隊を率いた日のこと。
完璧な段取りだった。
訓練通りに進めば、問題はなかった。
だが、想定外が起きた。
部下の一人が、足を滑らせた。
その瞬間、父は判断を迫られた。
進むか。
止まるか。
止まれば、全体が遅れる。
進めば、一人を切り捨てる。
父は、止まった。
あの判断が正しかったかどうか、
今でも分からない。
だが、
あの時、止まれなければ、
自分は剣を置いていただろう。
父は、娘を見る。
言葉は拙い。
説明は不完全だ。
感情が、まだ顔を出す。
それでも、
潰れていない。
父は、はっきりと自覚する。
――変わった、とは認めたくない。
――だが、同じではない。
認めれば、
自分がこれまで積み上げてきた“正しさ”が揺らぐ。
認めなければ、
目の前の現実から目を背けることになる。
どちらも、楽ではない。
父は、剣を持たない手を、
静かに下ろした。
「……説明しなさい」
それは、
再評価の命令ではない。
時間を与えるという判断だった。
娘が話し続ける。
途中で詰まり、
言い直し、
黙る。
父は、口を挟まない。
母が何か言おうとするのを、
手で制する。
この時間は、
削ってはいけない。
結論は、出ない。
今日、出す必要もない。
だが、父は理解する。
娘は、
“制御できない存在”ではない。
制御の仕方が、違うだけだ。
それを認めるかどうかは、
まだ決めない。
だが、
無視できない地点まで、
彼女は来ている。
それだけは、
剣を持たぬ今の手が、
はっきりと感じていた。




