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17/20

夕暮れの空気は、昼とは別の顔をしていた。

温度が一段落ち、匂いが変わる。土と草に、馬の汗と革の匂いが混じる。


エリシアは、その匂いを吸い込みすぎないように、呼吸を浅く保っていた。

深く吸えば、体が反応する。

反応すれば、言葉より先に態度が決まる。


だから、吸って、止めて、吐く。

不自然な呼吸だが、彼女にとっては“安全な形”だった。


父の姿を見た瞬間、胸の奥で何かが縮む。


恐怖ではない。

懐かしさでもない。


条件反射だ。


背筋を伸ばす。

視線を上げる。

声の高さを調整する。


それらは、考える前に出てくる。

考えなくてもできるからこそ、彼女は長く苦しんできた。


母の視線は、父よりも柔らかい。

だが、柔らかい分、逃げ場がない。


「どうでしたか」


その言葉は、心配の形をしている。

だが、問いの芯は別にある。


――期待に沿っていたか。


エリシアは、その問いを正確に理解していた。

理解しているからこそ、答えを急がなかった。


急げば、用意された言葉が出る。

用意された言葉は、安全だが、彼女を置き去りにする。


一瞬、視界の端に、空き家の床が浮かぶ。

掃いた跡。

木片。

位置を自分で決めた感覚。


あれは、説明できない。

言葉にした瞬間、壊れる。


だから彼女は、違うところから話し始めた。


「楽では、ありませんでした」


それは、事実だった。

評価ではなく、感想でもなく、ただの事実。


母の目が、ほんのわずかに細くなる。

“想定内”という反応。


父は、何も言わない。

その沈黙は、聞く準備ができている時のものだ。

同時に、言葉を選び損ねたら終わる沈黙でもある。


「ですが」


エリシアは、ここで止まりそうになる。


ですが、の後には、いつも同じ言葉が来る。


――頑張りました。

――反省しています。

――次は改善します。


それを言えば、この場は収まる。

それを言えば、父は頷き、母は微笑む。


その未来が、はっきり見えた。


だから、彼女は一度、口を閉じた。


閉じて、呼吸を確認する。

浅い。

速い。


それでも、立っている。


「……壊れませんでした」


声が、思ったより低く出た。

自分の声なのに、少し驚く。


父の眉が動く。

否定ではない。

確認だ。


「当然だ」


その言葉は、彼女を守る言葉でもある。

“お前は弱くない”という前提。

だが同時に、弱かった場合の逃げ道を塞ぐ言葉でもある。


エリシアは、首を振った。


この動作に、勇気が要ることを、誰も知らない。

否定される覚悟より、分かってもらえない覚悟の方が、彼女には重かった。


「当然では、ありません」


喉が、少し痛む。

それでも続ける。


「私は……止まれました」


言った瞬間、胸の奥がざわつく。

止まれた、という事実を口にするのは、

自分の“できなさ”を、同時に認める行為だからだ。


父が一歩、近づく。


その距離に、彼女の体が反応しそうになる。

反射で下がりそうになるのを、足の指に力を入れて止める。


「誰の判断だ」


短い問い。

責任の所在を明確にする問い。


エリシアは、一瞬だけ、横を見る。


カイは、そこにいる。

だが、視線は向けない。


彼は“助けない”。

助けないことが、彼女を信じている証だと、彼女はもう知っている。


「……私です」


言葉にした瞬間、背中に汗が滲む。

責任を引き受ける感覚。

それは、自由と同時に、孤独を連れてくる。


母が、静かに言う。


「それは、成長ではありません」


柔らかい声。

否定の刃を、布で包んだ言い方。


エリシアは、視線を落とした。

反論の言葉はある。

だが、それは勝つための言葉だ。


今、必要なのは勝ちではない。


「……分かっています」


この言葉は、逃げではない。

同意でもない。


あなたの基準では、という前提を含んだ受容だ。


「でも」


ここで、また胸が詰まる。


でも、と言えば、反論になる。

反論になれば、議論になる。

議論になれば、彼女はいつもの場所に戻る。


それでも、彼女は言った。


「……必要でした」


父の視線が、鋭くなる。

剣を持つ者の目。

敵意ではなく、真剣さ。


「説明しなさい」


エリシアは、うなずいた。


頭の中で、言葉を並べない。

順序を考えない。


代わりに、身体の感覚を辿る。


音が多かったこと。

視線が重かったこと。

立っているだけで、力が抜けていったこと。


それを、言葉にする。


途中で詰まる。

詰まって、黙る。


黙った時間が、怖い。

だが、逃げない。


母が、何か言いかける。

父が、手で制する。


その仕草を見て、エリシアの胸が少しだけ緩む。


聞いている。


完璧な説明ではない。

論理も、整っていない。


それでも、彼女は立っている。

倒れていない。

潰れていない。


それが、彼女の中での成長だった。


カイは、一歩下がったまま、動かない。


彼の役目は、

何も言わないこと。

何も決めないこと。


ただ、この場が壊れないように存在すること。


夕暮れの光が、父の肩と、母の髪を縁取る。

その光は、エリシアにも届いている。


完全ではない。

許されたわけでもない。


それでも彼女は、

自分の足で立ったまま、話している。


それだけで、今日は十分だった

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