親
夕暮れの空気は、昼とは別の顔をしていた。
温度が一段落ち、匂いが変わる。土と草に、馬の汗と革の匂いが混じる。
エリシアは、その匂いを吸い込みすぎないように、呼吸を浅く保っていた。
深く吸えば、体が反応する。
反応すれば、言葉より先に態度が決まる。
だから、吸って、止めて、吐く。
不自然な呼吸だが、彼女にとっては“安全な形”だった。
父の姿を見た瞬間、胸の奥で何かが縮む。
恐怖ではない。
懐かしさでもない。
条件反射だ。
背筋を伸ばす。
視線を上げる。
声の高さを調整する。
それらは、考える前に出てくる。
考えなくてもできるからこそ、彼女は長く苦しんできた。
母の視線は、父よりも柔らかい。
だが、柔らかい分、逃げ場がない。
「どうでしたか」
その言葉は、心配の形をしている。
だが、問いの芯は別にある。
――期待に沿っていたか。
エリシアは、その問いを正確に理解していた。
理解しているからこそ、答えを急がなかった。
急げば、用意された言葉が出る。
用意された言葉は、安全だが、彼女を置き去りにする。
一瞬、視界の端に、空き家の床が浮かぶ。
掃いた跡。
木片。
位置を自分で決めた感覚。
あれは、説明できない。
言葉にした瞬間、壊れる。
だから彼女は、違うところから話し始めた。
「楽では、ありませんでした」
それは、事実だった。
評価ではなく、感想でもなく、ただの事実。
母の目が、ほんのわずかに細くなる。
“想定内”という反応。
父は、何も言わない。
その沈黙は、聞く準備ができている時のものだ。
同時に、言葉を選び損ねたら終わる沈黙でもある。
「ですが」
エリシアは、ここで止まりそうになる。
ですが、の後には、いつも同じ言葉が来る。
――頑張りました。
――反省しています。
――次は改善します。
それを言えば、この場は収まる。
それを言えば、父は頷き、母は微笑む。
その未来が、はっきり見えた。
だから、彼女は一度、口を閉じた。
閉じて、呼吸を確認する。
浅い。
速い。
それでも、立っている。
「……壊れませんでした」
声が、思ったより低く出た。
自分の声なのに、少し驚く。
父の眉が動く。
否定ではない。
確認だ。
「当然だ」
その言葉は、彼女を守る言葉でもある。
“お前は弱くない”という前提。
だが同時に、弱かった場合の逃げ道を塞ぐ言葉でもある。
エリシアは、首を振った。
この動作に、勇気が要ることを、誰も知らない。
否定される覚悟より、分かってもらえない覚悟の方が、彼女には重かった。
「当然では、ありません」
喉が、少し痛む。
それでも続ける。
「私は……止まれました」
言った瞬間、胸の奥がざわつく。
止まれた、という事実を口にするのは、
自分の“できなさ”を、同時に認める行為だからだ。
父が一歩、近づく。
その距離に、彼女の体が反応しそうになる。
反射で下がりそうになるのを、足の指に力を入れて止める。
「誰の判断だ」
短い問い。
責任の所在を明確にする問い。
エリシアは、一瞬だけ、横を見る。
カイは、そこにいる。
だが、視線は向けない。
彼は“助けない”。
助けないことが、彼女を信じている証だと、彼女はもう知っている。
「……私です」
言葉にした瞬間、背中に汗が滲む。
責任を引き受ける感覚。
それは、自由と同時に、孤独を連れてくる。
母が、静かに言う。
「それは、成長ではありません」
柔らかい声。
否定の刃を、布で包んだ言い方。
エリシアは、視線を落とした。
反論の言葉はある。
だが、それは勝つための言葉だ。
今、必要なのは勝ちではない。
「……分かっています」
この言葉は、逃げではない。
同意でもない。
あなたの基準では、という前提を含んだ受容だ。
「でも」
ここで、また胸が詰まる。
でも、と言えば、反論になる。
反論になれば、議論になる。
議論になれば、彼女はいつもの場所に戻る。
それでも、彼女は言った。
「……必要でした」
父の視線が、鋭くなる。
剣を持つ者の目。
敵意ではなく、真剣さ。
「説明しなさい」
エリシアは、うなずいた。
頭の中で、言葉を並べない。
順序を考えない。
代わりに、身体の感覚を辿る。
音が多かったこと。
視線が重かったこと。
立っているだけで、力が抜けていったこと。
それを、言葉にする。
途中で詰まる。
詰まって、黙る。
黙った時間が、怖い。
だが、逃げない。
母が、何か言いかける。
父が、手で制する。
その仕草を見て、エリシアの胸が少しだけ緩む。
聞いている。
完璧な説明ではない。
論理も、整っていない。
それでも、彼女は立っている。
倒れていない。
潰れていない。
それが、彼女の中での成長だった。
カイは、一歩下がったまま、動かない。
彼の役目は、
何も言わないこと。
何も決めないこと。
ただ、この場が壊れないように存在すること。
夕暮れの光が、父の肩と、母の髪を縁取る。
その光は、エリシアにも届いている。
完全ではない。
許されたわけでもない。
それでも彼女は、
自分の足で立ったまま、話している。
それだけで、今日は十分だった




