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変化

朝の空き家は、木の匂いがした。

湿り気を吸った古い板の匂い。人の体温が抜けた部屋の匂い。

エリシアはその匂いに慣れてきたらしく、顔をしかめない。


壁に背を預けて座る姿勢も、もう不自然じゃない。

ただ、指だけが落ち着かない。床の節目をなぞって、同じ線を何度も往復する。


「……ねえ」


「はい」


「ここ、掃除した方がいい?」


唐突だった。

エリシアは視線を上げない。俺の反応を見ないふりをしている。


「したいなら」


「したいわけじゃない」


即答。

その即答が、妙に可笑しくて、俺は口角を上げそうになった。


「でも、汚いのは嫌」


「貴族ですね」


「そうよ」


胸を張るでもなく、当然のように言う。

その“当然”が、彼女の鎧だ。薄い鎧。軽い代わりに、少し擦れると音がする。


俺は部屋の隅にあった壊れかけの箒を取り、握りを確かめた。木がささくれている。


「これ、危ない」


「何が?」


「刺さります」


エリシアは眉を寄せ、箒を覗き込む。

普段は「汚い」と言いそうなのに、今は言わない。代わりに顔が少し強張る。

“失敗しそうな道具”が嫌なんだ、と分かる。


「じゃあ、布を巻く」


俺が言うと、エリシアが小さく鼻を鳴らす。


「……それ、昨日もやったわね。勝手に」


「勝手にやるのが得意です」


「自慢しないで」


布を巻く手元を、エリシアがじっと見ている。

視線は鋭いのに、どこか怯えが混じる。

彼女は“できること”には強い。

“できないかもしれないこと”には、急に弱くなる。


布を巻き終えると、エリシアは箒を受け取った。受け取り方が丁寧すぎる。落とすのが怖い時の動きだ。


「……どこを掃くの」


「ここだけ」


俺は床の一角を指す。部屋の真ん中ではない。出入口でもない。

壁際の、狭い四角い範囲。


エリシアが怪訝な顔をする。


「狭い」


「狭い方が終わります」


「……終わるのが大事?」


「ええ」


エリシアは、あからさまに納得していない。

でも、反論もしない。

箒を構え、床を一度だけ掃く。二度、三度。

砂が少し動き、色が変わる。


そこで、止まった。


止まった理由は、分かりやすい。

次の一振りをしたら、範囲が広がってしまう。

広がったら、終わらない。

終わらないと、何かが崩れる。


エリシアは箒を握ったまま、ちらりと俺を見る。

「止まっていい?」とは言わない。

言えない。言えば、自分が弱いと認めることになるから。


俺は、見なかったことにした。


「今ので十分です」


「……は?」


「色が変わった」


「それだけ?」


「それだけ」


エリシアの目が細くなる。

怒る手前の顔だ。

けれど、その怒りの芯には別の感情がある。

“これでいいなら、私は何を怖がってたの”という、置き場のない悔しさ。


「……村の人に見られたら笑われるわよ」


「見せないので」


「見せない?」


「ここでやったことは、ここに置きます」


エリシアは箒を床に置き、短く息を吐いた。

肩が下がる。目元がわずかに緩む。

本人は気づいていない。


「……変な男」


「よく言われます」


「私が言ってるの」


「はい」


外で足音がした。

窓の隙間から、村の女が二人、こちらの様子を盗み見ているのが見える。

視線だけ置いて、すぐ消える。


エリシアも気づいたらしく、背筋が一瞬で硬くなる。

箒を拾い上げる手が、わずかに震える。


俺は言った。


「目は、勝手に集まります」


エリシアの唇がきゅっと結ばれる。


「……嫌い」


「分かります」


彼女は箒を置いたまま、床に座り直した。

さっきまでの鋭さが、少しだけ消えている。


「ねえ、カイ」


「はい」


「私、ここで……変になってない?」


「変です」


即答した。


エリシアが目を見開き、次の言葉を探す。

怒りが先に出そうになる。

その寸前で、俺が続けた。


「でも、壊れてはいないです」


エリシアは、怒るのをやめた。

怒れなくなった、に近い。


「……それ、家で言ったら怒られる」


「でしょうね」


「でも」


小さな声。


「……嫌じゃない」


言い切ったあと、エリシアは自分で驚いた顔をして、視線を床に落とした。

言ってしまった、という顔。

言えた、という顔でもある。



昼過ぎ、空き家の外は妙に落ち着かない。


村の端の道に、いつもと違う馬の足音が混じっていた。

蹄の音が整いすぎている。村の荷馬車の音じゃない。

村の子どもが真似できない音。


俺が外に出ると、背の高い男が立っていた。

服は地味だ。けれど、地味さが“選ばれている”。

色も形も、目立たないように整っている。


その男は、俺を見て、一度だけ視線を止めた。

目は丁寧だが、感情が薄い。

笑っているのに、笑っていない。


「失礼」


声も同じだ。柔らかいのに、温度がない。


男の背後に、村長が立っている。

村長は汗をかいていた。笑顔が固い。


「こちらの者が、お嬢様に用があるそうでな……」


男が軽く頭を下げた。


「私は使いの者です。名乗るほどではありません」


名乗らないのは、礼儀じゃない。

“名を差し出す必要がない”という立場の表明だ。


男は封筒を差し出した。

深い紺色。硬い紙。封蝋の跡。

刻まれた紋章は、素人目にも分かるほど格があった。

刃物みたいな形の意匠。


エリシアが、空き家の中から出てきた。

一歩外に出た瞬間、空気が変わる。

村の匂いの中に、別の匂いが混ざる。

香油の匂い。血筋の匂い。言葉にすると馬鹿みたいだが、そうとしか言えない。


エリシアは封筒を見た瞬間、顔色が一段落ちた。

目の動きが早くなる。呼吸が浅くなる。

その変化が、あまりに露骨で、村長の笑顔がさらに固まる。


男は、丁寧に言った。


「お嬢様。ご無事で何よりです」


その言葉に、無事でない可能性が含まれている。

祝福に見せかけた確認。

柔らかい檻の言葉。


エリシアは封筒を受け取った。

指先が震えたのを、本人は隠したつもりだろう。

でも、隠しきれていない。


男の視線が、俺に一瞬移った。

測るように。

壁の汚れを見るみたいに。


「そちらは?」


村長が慌てて口を挟む。


「ただの村の者で……」


「カイです」


俺は先に言った。


村長が「やめろ」と言いたそうな顔をした。

男は笑ったまま頷く。


「カイ殿」


“殿”をつけたのは礼儀ではない。

礼儀として処理しておけば十分、という意味だ。


エリシアが封筒を胸の前で握り潰しそうになり、慌てて力を抜いた。

硬い紙だ。潰れない。

潰れないから、余計に悔しい。


男は穏やかに続ける。


「お返事は不要です。内容をご確認のうえ、今夕、迎えが参ります」


エリシアの唇が動いた。

言葉が出かけて、引っ込む。

声が喉の奥で折れる。


俺は口を挟まなかった。

ここで俺が喋ると、彼女の言葉が本当に消える。


男は深く頭を下げた。


「では、失礼」


去り際、男はもう一度だけ俺を見た。

笑顔のまま。

目だけが冷たい。


「村の皆さまにも、ご迷惑をおかけしました」


村長が頭を下げる。

村の女が遠巻きに覗いている。

誰もが「正しく」動いている。

その正しさが、息苦しい。


男の背中が見えなくなると、エリシアは封筒を見下ろしたまま動かなくなった。


「……中、見ますか」


俺が言うと、エリシアは首を振った。


「……見なくても分かる」


声が乾いている。


「“正しいこと”しか書いてない」


封筒を握る手が、少しだけ強くなる。

でも、破らない。

破れば、勝手に自分が悪者になる。それを彼女は知っている。


「……カイ」


「はい」


「さっきの男」


「ええ」


「すごく丁寧だった」


「ええ」


「なのに、腹が立つ」


「ええ」


三回目の「ええ」で、エリシアがほんの少しだけ笑った。

笑いというより、歪みだ。

それでも、歪められるだけ、まだ崩れていない。


エリシアは封筒を空き家の床に置いた。

置き方が慎重すぎる。

まるで爆発物だ。


そして、さっき掃いた床の四角い範囲を見た。

砂の色が変わっている。

小さな“終わった跡”。


エリシアはそれを見て、息を一つ吐いた。


「……あの人たち、ここも片づけろって言う」


断言だった。


俺は肩をすくめた。


「言うでしょうね」


エリシアは、封筒から視線を外さずに言った。


「でも、ここは」


一拍。


「……私が決める」


言い方が硬い。

強がりでもある。

でも、今の彼女に必要なのは、その硬さだ。


俺は頷いた。


「決めましょう」


エリシアは小さく頷き返し、封筒の封蝋を指先でなぞった。

その手つきが、さっき箒の柄を確かめた時と同じだった。

“怖いものに触れる時の確認”。


そして、床の上に、封筒の横に、木片を一つ置いた。

昨日光った木片だ。


意味はない。

少なくとも、他人には。


でも彼女は、そこに“戻れる場所”を置いた。

目に見える形で。


外の村は、相変わらず穏やかだ。

ただ、さっきから風向きが違う。

匂いが違う。


封蝋の匂いが、村の匂いを薄く押しのけている。

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