実は戦死していたとか・・・
今週もありがとうございました!
日々酷暑が続いています
体調には充分お気を付けください
来週もよろしくお願いいたします!
前からよく書かせていただいていますが、私は大阪堺の旧環濠集落内で包丁鍛冶屋を営んでいた家に生まれました
父親及びその兄弟までは包丁鍛冶職人をしていました
旧環濠集落内には千利休の住居や与謝野晶子の実家の和菓子屋さんがあったことでも有名なのです
もちろん、私の生家からもどちらも歩いて行ける距離です
この旧環濠集落は江戸時代に風間六右衛門という地割奉行さんによって奇麗に通りが整備され町名も区画されたのですが、その時に北と南に半端な土地が余ってしまい、それぞれそれこそ半分しかない大きさの区割りの土地なので、北半町と南半町と名付けられて今も地名として残っています
ちなみに風間六右衛門はとあることから汚名を着せられ返上のため切腹しました
その菩提を弔っているのが、この環濠集落を北に抜けたところに江戸時代は処刑場があった七道浜の前にある風間寺(環濠集落巡りの観光スポットになっています)なのです
我が家の菩提寺でもあります
次に北半町を南へ抜けた隣に北旅篭町、南半町を北へ抜けた隣に南旅籠町があり、堺の町に入るには、まずここで一泊して身元改めを受けないといけなかったとかどうとか・・・でもこれは亡父が言っていたことなので、本当かどうか?(笑)
さて、寺院も多い旧環濠集落の堺ですが、この南旅篭町に南宗寺というけっこう大きなお寺があります
実はこのお寺に伝わる秘話があるのです(今は有名ですが 笑)
このお寺には「東照宮 徳川家康墓」なるものがあるのです
何でも戦災で焼ける前にはこの場所に東照宮があったそうです
えっ?
何だ!何だ!
日本史では大坂夏の陣の翌年の1616年に家康は駿府城で亡くなり(死因は鯛の天ぷらの食べ過ぎなんてことも言われていますが・・・)その後日光東照宮に改葬されたことになっています
日本史が変わってしまうぞ!
そうなのです、日本史を変えないためにこの事件の時に非公表としたそうです
このお寺の「南宗寺史」には家康が大坂夏の陣で茶臼山の激戦に敗れ駕籠で逃げる途中、後藤又兵衛の槍に突かれ辛くも堺まで落ち延びたが、駕籠を開けてみると既に事切れており、遺骸を南宗寺の開山堂下に隠し、後に改葬した」と記されているそうです
なんと!
家康は大坂夏の陣で戦死していたとは・・・
実際にその後秘密裏に、子の二代将軍秀忠や孫の三代将軍家光もここへお参りに来たことがあるらしい・・・
では、なぜ公表しなかったのか・・・
それは長い戦国時代が家康の台頭によってやっと終わろうとしている時、ここで家康が戦死したなんて広まったら、また戦乱の世に戻るのではないか?との危惧が出て、それを避けるためにひた隠しにしたらしい・・・
ただ、こういう話にはいろいろ反論もありまして・・・開山堂は家康が戦死したとされる日以前に豊臣秀吉によってすでに焼き払われていたとか、家康を槍で突いた後藤又兵衛はそれより前に死んでいたとか・・・
やっぱり歴史は解らんですね
その時にいた生き証人がいませんからね
でも、推測が広がり浪漫もあります
私は歴史があてにならないと思うようになった原因は・・・
百舌鳥・古市古墳群として世界文化遺産に登録されているエリアにある、これまた堺の世界最大規模の墓の仁徳天皇陵と言われている大仙古墳が、明治時代に古墳前方部の形を整備したらしい、ところがそれをしたために、前がどんな形だったか解らないらしい・・・
おいおい!明治時代のことでも解らんのかい!
ここからですわ(笑)