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「私の母は、もう亡くなりましたが、貴方のためだから、という言葉をよく使う人でした。これは駄目、あれも駄目。その子とは友達にならないで。全部貴方のためだから、と」
東の呼吸が僅かに震える。審馬はその様子をただ見守る。
「厳格で遊びがなくて、子どもの頃は息苦しく感じることも沢山ありました。けれど結果として、私はこうして道を外れることなく全うに生きていて、警察官になることができて、大人になってから、あれは親の愛情だったのだと納得することができました」
ですが、と東は言葉を続ける。
「審馬さんは全く違う考えでした。親の愛は、究極な利他的存在ではなくて、限りなく利己的なものなのだと。親は子どものために動くのではなくて、子どものために動いたのだと思いたいだけなのだと」
それは、白岡蓮司の母親に会った帰りに東に語った話だ。
あの時の東はあまり納得がいっていないような素振りだったが、きっと彼女の中の一つの問いになっていたのだろう。
「だから、私はその話を聞いて、母は自分が手に入れられなかった人生を私で取り返そうとしていたのだと、そう考えるようになりました。貴方のため、という言葉は、きっと、自分のためという言葉の裏返しだったのではないかと。だって、私は母に、愛していると抱きしめられた記憶もないのですから」
菜穂子が静かに東の方を見る。その顔には相変わらず感情が見られないが、東の言葉を一つも漏らさないように受け止めようとしているようにも感じられた。
「親が究極な利他的存在であって欲しいというのは、子どもであったことしかない人間の理想論で、誰かが作り上げた期待と幻想なのかもしれません」
冷たい風がそこにいる人々の髪を撫でるように静かに吹き上げる。
唇に張り付いてしまった髪を軽く払って、東は言う。
「だってそうでもなければ、子どもを産み育てることを躊躇ってしまうかもしれない。親の愛は、絶望的なものであってはいけない。美しいものでなければならない、と」
世間が描く親の理想と、実際に親を襲う逃れられない現実。
審馬にとっては綾香の苦痛が今こうしてありありと蘇るが、東にとってはどうなのだろう。
彼女の頭の中には、裁矢菜穂子という殺人鬼を通して、一体何が見えたのだろう。
「…でも、違うでしょう?どうしようもなく愛おしくて、抱きしめたくなるような感情だけを愛と呼ぶべきだと、そういうわけではないでしょう?」
東の言葉に審馬ははっとする。
気付けば、彼女の想いに溜息が漏れていた。
「自分のしたいことを我慢して、逃げたくなっても踏みとどまって、子どもの前では何とか親でいようとした日々は」
地面に落ちていた東の視線が、菜穂子を捉える。覚悟を決めたように、東は一つ息を呑んで言葉を続ける。
「それは、愛ではない、のでしょうか」
抱きしめて、愛していると伝えないではいられない。その屈託のない笑顔を守りたくて、どこからともなく力が湧き上がってくる。
この子さえいれば、私は何でもできる。
そんなわかりやすいものだけを愛と呼ぶだけで親の愛の全てを語ることができるのであれば、これほど簡単なことはない。
けれど現実は、それは一部でしかないのだろう。その他大多数の愛は、苦悩と絶望の中にある。
逃げ出したくなっても、目を逸らしたくなったとしても、手放してしまった方が何倍も楽だと気づいていながら、親としての責任を果たさなければと踏みとどまる。
そんな、最後まで親であることを辞めなかった、愛だ。
それは果たして、利己的、利他的という枠に嵌めた概念で語ることができるのだろうか。
「私はまだ親になったことがありません。子どもであった時間の方が圧倒的に長い。だからこれは、親になった人の答えではありません」
誰も動かなかったその場で、東の言葉を境に視線だけが静かに動いた。
子から親へ向けられていた思いが、初めて、菜穂子へと流れ込んでいく。
「生前母が私にくれていたものは、溢れ返るような、誰にとってもわかりやすいものでなかったとしても、愛だったのだと、私はそう思っては駄目なのですか?」
東の思いが、審馬にも痛いほど伝わってくる。
もう親になってしまった審馬には、東と同じ言葉は決して言えない。子どもだった頃も、もう遠い過去の話だ。
東の言葉だからこそ、この殺人という現実の奥にある最後の防壁に、足を踏み入れることができるのだろう。
菜穂子がゆっくり瞬きをする。再び彼女が目を開いた時、その視線はもう東を見ていなかった。
菜穂子はこちらの方に振り返り、じっと「愛せなかった娘」を見つめている。
誰も何も動き出せない。何も言えない。そんな空間の中で、花楓が再び「ママ」と呟く。
ーーそれが引き金だったかのように、菜穂子が歩き出す。ゆっくり花楓の元まで近づいて、そして目の前で止まる。
その娘を見る菜穂子の表情は、これまで審馬が見てきた殺人鬼としての顔ではなかった。
壊れるその寸前まで母であろうとした覚悟と信念が、そこにはあったような気がした。
鎖の音を小さく鳴らして、菜穂子が震える両手を花楓の頬に添える。すると、花楓も溢れる感情を抑えられなかったのか、母親の頭に腕を回す。手錠のせいで娘の背中に腕を回せない母親は、娘に強く抱きしめられたまま天を仰ぐ。
泣いてはいけないのだと、まるで自分を律するように菜穂子は強く下唇を噛み締めている。けれど意思に反して涙は彼女の頬を流れて、それは止まることなく溢れていく。
こうなる前に、誰かが気付けなかったのか。誰かが止められなかったのか。
そんなことを考えずにいられないのは、母子の目の前にあるのはあまりに酷な現実で、決して逃れることはできないからだ。
これまで気付こうともしなかったのに、気付いていながら目を逸らしていたのに、取り返しのつかないことになってから後悔をする。
明津優芽も、白岡蓮司の母親も、審馬も、綾香も。
勿論、菜穂子も。
迷路を空から見下ろして、入口から出口まで見えている人間にとっては、審馬達はただの愚かで浅はかな人間に見えるのだろうか。
審馬自身が、そんな嫌な想像に囚われる。
普通なら、親なら、こうするのが当然だと、言うのはあまりに簡単だ。
けれど実際にその時を生き抜いている者にとっては、目の前に突き付けられた現実がどれほど単純であろうと、難解な迷路に見える瞬間がある。
そうやって迷っている内に、来た道も行くべき道もわからなくなっていく。
その中でもがき苦しんだ者達を勝手に評価し裁く権利は誰にもありはしない。
少なくとも審馬はそう考える。
それでも当然、菜穂子の殺人は正当化されない。
彼女はもがき苦しんだ迷路の中で、その罪を1人償って死んでいく。
けれどその何も見えない暗闇の先に、殺すことができなかった子ども達が、花楓が、小さな光となって灯ってくれればと、そう願わずにはいられない。
次回投稿は1/7(水)
を予定しております。




