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裁矢菜穂子が、目を逸らすことなく真っ直ぐ審馬の顔を見ていた。取調室でこうして彼女と向き合って、やはり「イイ女」だなと再認識する。
容姿や所作はさることながら、何よりも肝の据わった揺るぎない正義感溢れる瞳が、この女の魅力を倍増させている。
眉目秀麗。周囲を圧倒させるほどの美しき犯罪者。夫の3歩後ろを歩き支え、子どもには持てる限りの全力の愛情を注ぐ。そんな女が愛する家族に手を掛ける姿を想像する。
一体この家族に何があったのか。一体何が、この女の感情をそんなにも揺さぶったのか。
その先にはきっと、この裁矢菜緒子という人間が警察官という絶対的な正義に向かって堂々と正義面ができる理由が隠されている。
麻布警察署に殺人事件発生の連絡が入ったのは、丁度審馬が昼休憩を取ろうとしていた時だった。
昨日は別件で寝る暇もなく、今日は穏やかに仕事をしようと思っていた。
朝、出勤するや否や、自分のデスクの上に足を乗せ頭痛に耐えながらも浅い眠りに落ちていく。誰も起こすなと言わんばかりに耳栓をして、目元に警察手帳を乗せて光を遮断する。けれどそんな体勢ではやがて体が凝り固まってきて、気分転換がてらに昼飯を食べに行こうと立ち上がった矢先の話だ。
刑事課長が執務室の扉を開けたと同時に声を上げる。「元麻布で殺しだ」
そんな言葉は審馬のただでさえ低い気分をどん底へと突き落とす。
今から優雅に食事でも嗜もうと思っていたのに。食べにいく場所もおおよそ決まっていたというのに。何と間の悪い野郎だ。
黄色い看板が目印の昔ながらのラーメン店。あの店で食べるラーメンと炒飯のセットは一度食べたら病みつきだ。特に店長こだわりのラーメンのスープは、二日酔いの体には染み渡る。
刑事課長の顔を睨みつけてやる。こうなったら何が何でも昼飯を食いに行ってやると、審馬は執務室からこっそり出て行こうとする。
「審馬。どこに行くんだ」
肩を強く掴まれて、審馬はゆっくりと振り返る。背後には四方慎吾警部補がいて、随分と迫力のある笑顔を見せていた。
「四方…係長。いや、ちょっとあまりに腹が空いたんで、飯に」
「そんなことより今は現場に急行しろ」
四方に車の鍵を押し付けられる。張り付いた彼の笑顔の裏にとてつもない怒気を感じて、審魔は恐る恐るその鍵を受け取る。けれどすぐに鍵を取り上げられる。鍵を奪い取ったのは他でもない四方だ。彼は自身の鼻を摘んで嫌悪感を露わにする。
「審馬。お前、酒くさっ。何時まで飲んでたんだ」
「さぁ。朝まで?」
「あのなぁ…お前はもう少し、警察官としてのまともな立ち振る舞いを」
「興味ないね」
「審馬」
「四方」扉の前に立ちはだかる四方の肩にわざとぶつかるようにして、審馬は執務室から出ていこうとする。「ちょっと偉くなったからって、上司面して俺に説教してくんじゃねーよ」
「おい、審馬」
「現場にはちゃんと行きますよ、係長。でも酒臭いって言われちゃったんで、しっかり酔いを覚ましてから向かいますね」
ラーメン屋に寄ったついでに漫画喫茶にでも行こうか。そこで何時間か眠れば、この二日酔いの頭痛ともおさらばできるだろう。
そうこうしているうちに、高級住宅街で起きたくだらない遺産相続の末に起きた泥沼な殺人事件など終わっているに違いない。
「課長。事件の詳細は」
背後で審馬を止めることを諦めた四方のため息とそんな言葉が聞こえた。
四方は警察学校時代の同期だった。共に学び、同じ飯を食らい、成長してきた仲間だった。
運命の別れ道になったのは、警察官としてのキャリアももう20年を超えた時だったと思う。
正直、あの頃であれば審馬の方がまだ出世街道を突き進んでいた。
警視庁刑事部捜査一課。そんなエリート集団の巣窟で長年現場の最前線に立っていた審馬は、自他ともに認める敏腕刑事の一人だったはずだった。
それが、今やくたびれた所轄のただの一刑事。同じ警部補という位であるはずの四方はいつの間にやら係長に昇進し、事件を指揮する立場になっている。
審馬はそんな同期上司の命令に従って日夜汗水垂らして働く馬車馬だ。
こんなはずではなかったと後悔する日々はとっくに過去へと消えた。
正義を振りかざすだけ面倒臭い。真実を追い求めれば追い求めるほど命が縮んでいく。
だから、こうやって出世も何もかも捨てて、自分の好きなようにしたいがままに生きる。お前は警察官だろうと、公務員だろうと罵られようと、酒は浴びるように飲むし、すれ違った好みの女性には迷わず声を掛ける。競馬新聞は手放せないし、無線を聞いているように見えるイヤホンは常にレースの行先が流れている。
酒は良い。飲めば飲むほど、気分を高揚させ嫌なことを忘れさせてくれる。女もそうだ。賭け事で勝った金があれば、あっという間に溜まった欲望を解放させてくれる。
仕事はやるべきことだけをやっていればそれで良いだろうと、手柄だけは立てて文句を言わせない。
そうやって生きると決めて、もう長い月日が経った。事実上警視庁から左遷されてきた審馬に真正面から説教できる者もここにはいない。四方を除いては。
「役所から、人を殺した犯人がいるかもしれないと通報があったそうだ」
「役所、ですか」
背後からそんな刑事課長と四方の会話が聞こえてきて、審馬は足を止めて聞き耳を立てる。
役所からの通報。しかも詐欺などではなく、人殺しの犯人がいるかもしれないと。何とも奇妙な状況だ。
「役所にやってきたのは、元麻布在住の40代主婦。まだ裏は取れていないが、最低でも3件の殺しに関わっている可能性がある」
40代、主婦。聞き捨てならない言葉に、審馬は刑事課長の方へと振り返る。
次回投稿は6/4(水)
を予定しております。