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親になれば子どものために全てを注いで生きられるなど、ただの理想論だ。
何事にも耐えられてすべての逆境を跳ね返せるなどというのは、まるで勧善懲悪の世界の正義のヒーローのようだ。
残念なことに、現実世界はそんな単純構造にはできてはいない。
それでも、誰もがそうあろうと足掻いている。
ーーー杏のためならどんなに傷ついても良い、辛いことは何でも乗り越えられるって思えるほど、私は強い母親にはなれない。
以前、綾香が漏らしたそんな言葉を思い出す。
全ての親が理想論の中の花畑で子どもを育てることができれば、乳児を衝動的に手にかけてしまう事件など起きるはずもない。
理想論でも花畑でもない世界が、親に立ちはだかる現実だ。そこに綺麗事など通用しない。
『まぁ私は、割と寝たら忘れちゃうタイプだから。思い悩んでても、寝て起きたらまぁいいやって。何とかなるかなって』
綾香がそうおどけたように答えたのは、重苦しい空気を変えたかったからだろうか。終わりにしたいと思ってしまった過去の自分を恥じているようにも感じられる。
思い悩んで、寝て起きて、朝になったらその全てを忘れられるわけでは決してないだろう。気持ち的に切り替えができたとしても、抱いていた感情は自責の念は、心のどこかに静かに積もっていく。
そうやって払拭できない想いを抱えながら、それでも子どもと家族と向き合っていくのだ。
『でも…でもね』コンッと小さな音がした。電話の向こうで綾香がマグカップでも机に置いたのだろうか。『多分私は、杏や類を失う怖さに現実味があるから、自分で終わりにしようって思っちゃう前にストッパーがかかるんだと思うんだよね』
「現実味?」
『うん。この恐怖は、私にとって他人事でも妄想でもなかったんだよ。だって杏の病気が見つかった時、あぁ、この子は死んじゃうかもしれないって、もう長く一緒にいられないかもしれないって、本気で思ったから』
杏を失うかもしれない。その恐怖心もきっと理屈では語れないのだろう。
『今までね、やっぱり凄く杏を育てるのが大変で、皆と違うところがいっぱいあって、私はこんなにちゃんとやってるつもりなのに、杏のせいで何で私が責められるんだろうって思っちゃったりしてね。だから殺したい、とかじゃなくてさ、駄々をこねて公園から帰ろうとしない杏をそのまま置いて家に帰りたくなっちゃったり、ちゃんとご飯食べないならもう食べなくていいって取り上げたくなっちゃったりさ』
普段の冷静な自分なら、その感情がいかに馬鹿げているかなどわかるのだ。
公園に置いて帰ることもしなければ、食事を奪い取ることも当然しない。
けれど現実には、理性の鎧が溶ける瞬間がある。冷静などではいられない一瞬がある。そしてその瞬間に見える世界は、「正しさ」も「愛」も一度全て溶けて、ただの人間の限界しか残らない。
『でもね、私は親だから、母親だから、杏のためとかじゃなくて、私はちゃんとした親だから、自分が毒親だなんて思いたくないから、思われたくもないから、公園に置いてけぼりにもしなかったし、ご飯をひっくり返してゴミ箱に捨てちゃうこともしなかった。そんな綱渡りみたいなぎりぎりのところをずっと歩いてた』
綾香の言葉を聞きながら、審馬はぐっと拳を握り絞める。
何故、今、彼女は目の前にいないのだろう。何故、こんなに遠い関係になってしまったのだろう。
そんな後悔が頭を駆け巡る。
だけど、と綾香は言葉を続ける。
『杏が本当に死んじゃうかもしれないって、あの日病院でその恐怖をさ、絶望感を知ってからさ、何だか少しだけ、見てる景色が広くなったような気がしたんだよね』
綾香の言葉を、ずっと聞こえないフリをしていた。面倒臭いからと、伸ばしてくる彼女の手を払い除けてきた。
そんな過去の愚かで浅はかな自分を呪う。
だって今こんなにも、彼女を抱き締めてやりたいと思うから。
『あぁ、やっぱり私は杏を失いたくないんだって、絶対にこの手を離したくないんだって。イライラしちゃうこともあるしさ、しょっちゅうわーってなっちゃうけど、それでもどうしようもないくらい愛してるんだって、失う恐怖を味わって初めて、気付いた。気付いたというか、向き合えた、かな』
目を閉じて、綾香には聞こえないように静かに溜息をつく。
愛を誓い合ったはずの伴侶に背を向けられ、一歩間違えれば崩れてしまいそうな道を1人で進みながら、それでもその道を踏み外さず変わらず綾香がそこにいてくれることに、どう感謝したら良いのだろう。どう謝れば良いと言うだろうか。
どの言葉も過去の過ちをなかったことにしたい審馬の言い訳のように思えて、何も言えなくなってしまう。
次回投稿は10/15(水)
を予定しております。




