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電話の向こうで、綾香が鼻で笑う声がする。遠い過去を見つめている彼女の姿が、審馬の目にはっきりと映し出される。
『殺したい、ね…そんなさ、言語化できるような単純な気持ちじゃないんだよ。憎くて憎くて、首を絞めて殺してやる!みたいなさ。そうじゃなくて、なんかこう、ふとさ、全部なかったことにしたくなるんだよ。目の前にあるのは、絶対に逃げられない現実だから』
はっきりとした殺したいという感情ではない。
そこにあるのは、虚無のような祈りのような願い。
『無責任だって、世間からは言われるんだろね。だったら子どもなんて産むんじゃないって。そうだね。そうかもしれない。それが正論。でもそんな正論に、どんどん押しつぶされていくんだよ。こんなんじゃ駄目だ、まともな親にならないといけない、周りが認めてくれるようなちゃんとした親にならないとって』
「赤の他人に認められるために親になったわけじゃないだろ」
『匠はね、そうかもしれないね。でも結構多いんじゃない?世間体を気にして結婚して、親になった人なんて。まぁどういうきっかけで親になるかなんて、正直どうでもいいし興味もないけど』
「誰かに認められる親」という感覚がいまいち理解できずに、審馬は首を傾げる。
何故、親と子どもの間に、赤の他人が関わってくるのだろう。
誰しも自分のために子どもを産み育てる。子どものためであったとしても、他の誰かのためではない。
『匠、今訳わからんって顔してるでしょ』
「あぁ。さっぱり」
『なんだろうな。何て言えばわかりやすいかなぁ。類がまだ2、3歳の時とかにさ、スーパーでわんわん泣いちゃったことがあってね。おもちゃ欲しいって。もう凄いボリュームで泣くのよ。うるさいって誰かに怒鳴られてもおかしくないくらい。床に寝転んで泣くから、周りのお客さんにも迷惑だったし』
杏が小さい頃はそんなことはなかった気がするが、姉弟でも随分と性格が変わるものなのだろう。
『私は私で買い物袋を両手に持ってたから無理矢理連れて帰るのも宥めるのも大変でさ。結局類の欲しかった玩具買って帰ったんだけどね。まぁとにかく、そういう時、凄く自分が親として責められているような気持ちになるんだよね。普段どんな風に躾けてたら、床に寝転んでぎゃんぎゃん騒ぐような子になるの?って。お前の責任だろ?って』
「被害妄想だろ」
『…やっぱり匠は一生私の気持ちなんてわからないんでしょうね』
恨めしそうに、けれど冗談めいて綾香は言う。
「夫婦揃ってそんな被害妄想していたら共倒れだろ」
彼女の話すその類の一件は、杏のことで追い詰められていた時と同じような心情なのだろう。
駄目な母親だとレッテルを貼られているような気持ちになる。血を滲むような努力が裏にあったとしても、赤の他人は表面的で限定的な部分だけを見て評価していく。
何よりも、自分では一切コントロールできない存在によって、自分自身が酷評されていくことが耐えられない。
それが親というものである、という一言で片付けるには、あまりに心を深く抉っていくのだ。
『…確かにね』
「わからない…が、そういう考え方もあるんだと、今なら理解はできる」
『私もね、今なら、わかるよ。匠みたいな考え方って大切なんだなって。何ていうか、よく言えば自主性がある、悪く言えば自己中心的、みたいな。でも昔の私は、そんな風に考えられなかった。ちゃんとしなきゃ、周りに迷惑かけないように、普通に、普通にって。自分が1人の人としてではなくて親として見られているって感じる度に、杏と一緒にいる時間が孤独で絶望的に思えた』
皆規則正しく前習えをしている中で、1人空に向かって手を掲げている。子どもに普通であって欲しいと願う親にとっては、そんな姿が酷く心を蝕む。
人様に迷惑をかけないように。幼い頃から大人によく言われるその言葉は、まるで呪いのようだ。
迷惑をかけないことが当たり前で、全うな人間。皆と同じであることが、正義。
そうやって自分自身が生きてきたせいで、他の生き方がわからないのだ。集合体から一歩はみ出ていくことが、恐怖なのだ。
審馬の人生は、常に普通から三歩くらい離れていた。だから刑事になったのだし、動機の墓守などという渾名で呼ばれることにもなった。警視庁から左遷された原因などまさに、審馬が「普通」ではいられなかった最たる例だ。
常識がない奴だと何度罵倒されたかはわからない。人に迷惑をかけないと生きられないのかと、問い詰められたこともある。
きっと審馬にとっては、そうやって普通から離れていくことが最早反骨精神のようなものだったのだ。
『気付いたら、自己防衛本能みたいにさ、糸が切れてるのかもね。ぷちんって』
「自分を否定されて、だから、殺したくなるのか」
『だからさ、そんな単純な方程式じゃないんだよ。匠はすぐそうやって要約したがるけどさ』
審馬のように自ら望んで否定されに行くのと、綾香のように本当は否定されたくなくて、自分自身は否定されないように努力していて、けれども否定されてしまうのでは、確かに雲泥の差があるだろう。
子どもが起こしたすべての事象の責任は、親にある。事実であるかどうかはさておき、それが世間一般的な意見だ。故に、責任感が強い親であればあるほど、理想と現実の狭間で苦しめられていく。
満員電車で赤子を抱っこしている母親を想像する。
いつもは空いている電車を選んでいるけれど、その日はたまたま色々な事が重なって満員電車に乗るしかなかった。
そんな中で、赤子が泣き喚く。慣れない人の多さからだろうか。熱気と暑苦しさのせいかもしれない。
母親は必死にあやそうとするけれど、赤子の泣き声は更に大きくなっていく。
すぐ隣にいるサラリーマンの舌打ちが聞こえた気がした。後ろにいる若い女性の溜息が聞こえる。
満員電車などというものに赤子を抱いて乗った無責任な母親。そんなレッテルが全身に貼られていく。
いつもは周りの迷惑を考えてしっかり行動しているという自負がある母親にとっては、そのレッテルが心を深く抉っていく。
泣き止んで。お願いだから。黙って。お願いだから。
そうしてどんどんと力が強くなっていく赤子を抱きしめる母親の腕は、その子の息の根を止めるのだろうか。
「…そうやって、綾香も終わりにしようって思ったことがあるのか」
想像し終えれば、思わず溜息が漏れた。
この絶望は、誰からも理解されない。同じ親ですら、理解してくれやしない。
この痛みは、同じ絶望を見たことがある親にしかわからないものだ。
次回投稿は10/11(土)
を予定しております。




