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四方が会議室から出ていく。その背中を見送って、審馬はいくつか並べたパイプ椅子の上で横になった。そうすると、今日一日中の疲れがどっと溢れてくる。
家に帰る暇もない。仮眠を取って、またすぐに捜査に戻らなければ。
目を閉じ、事件の断片を反芻する。
菜穂子が自分の裁きに、殺人に、誇りを抱いていたとしたら、審馬が救いなどと間違った理論を展開した時点で本音が漏れていてもおかしくはなかっただろう。
侮辱するな、と。私の裁きはそんな三流小説じみたものではないのだと。
けれど菜穂子は、否定はしたもののその心の内を見せることはなかった。
誇りでも驕りでも救いでもない。恨みでも憎しみでも快楽でもない。
決して語りたくない、彼女の中に渦巻く本当の動機。
晴翔の殺害がその鍵を握っている。
目を開ける。綾香のことが頭を過ったからだ。ジャケットの内ポケットから携帯を取り出して、審馬は画面をじっと見つめる。
時刻は21時を迎えようとしていた。今電話を掛けても、彼女は片付けやら寝かしつけやらで忙しいだろうか。
そんな気を遣うことすらできなくて別れたというのに、今更何を躊躇しているのだろう。
もう一度ちらりと時計に目をやって、意を決して電話を掛ける。
忙しかったら、審馬と話す気になれなかったら、そもそも電話に出ないだろうと思いながら。
『…何』
暫くして、携帯の向こうから綾香の声が聞こえてきた。
長い呼び出し音を聞きながらやはり自分とは話したくないかと諦めかけていたせいで、予想外の事態に動悸が速くなる。
別れてから初めて電話を掛けるわけでもないのに、緊張で手汗が噴き出してくるのを感じた。
「あ…悪い。忙しかったか」
『…別に』
「風呂とか、寝かしつけとか、まだ大変な時期だろ」
『類なら杏が結構面倒見てくれるから。今も類とベッドで絵本読んでる』
類は審馬と綾香の第二子だ。5年前に生まれて、審馬はまだ一度も抱き締めたことはない。
杏の腎臓移植の話が出た時に綾香が審馬を頼ったのは、類を妊娠していて自分がドナーになれなかったからだった。
そんな類も大きくなってすっかり軽口を叩くようになっていると聞く。類が生まれた後に杏も無事に綾香から腎臓を貰い、今は透析に頼ることなく元気に過ごしているようだ。
そんな2人が姉弟として良い関係性を築けているのであれば何よりだと思う。
審馬はどう足掻いても彼らの成長を近くで見守ることはできないから、せめて幸せであってほしいと願うのだ。
「そう、か」
『何。何の用?』
冷たく言い捨てられてしまえば、ただ何となく声が聞きたくなったなどと、そんなくだらない理由は言うに言えなくなる。
「いや…あ、そうだ。梨々香には迷惑だからやめろって、ちゃんと忠告しておいたから。悪かったな」
家族の問題に首を突っ込もうとしていた梨々香に釘を刺したのは、まだ今日の話だ。
今日1日だけで色々なことがあった。事件が発覚したのが昨日の話だとは思えないほど、強い疲労感に襲われる。
『私は別に。でもセフレの管理くらいちゃんとして。子どもたちに迷惑かけないで』
「セフレじゃねぇ」
目の奥に痛みを感じて、審馬は目元を指でぐっと抑えながら答える。
『そうね。貴方にとっては不倫でも遊びでもなくて、捜査の一環だもんね』
言い回しにやけに棘を感じる。結局お前は何も変わっていないのかと、溜息にも似た吐息が聞こえてくる。
刑事の妻として、綾香には多くのことを我慢させてきた。綾香が審馬に別れを告げた理由は、杏のことだけに留まらなかったはずだ。
「…悪かった」
何に対して謝っているのか自分でもよくわからなかったが、それがより綾香を怒らせているのだろう。
『悪いと思ってても、自分の信念は変えられないんでしょ』
「そう、だな」
『私、別に貴方が他の女と寝ようがどうだって良いって本気で思ってたよ。だってそこに愛はないってわかってたから』
そうだ。愛などない行為だ。情報が欲しい者と、情報を渡す代わりに見返りが欲しい者。その立場をお互いにわきまえているから成り立っていた関係だ。
そしてそれは、この先決して変わることはない。
『だから、私にも、杏にも、きっと類にも、この人は愛がないんだなってわかった時に、もう一緒にいられないって思ったんだよ』
そんなことはない、と否定する言葉をぐっと飲み込む。
綾香にしてみれば、審馬が今更何を言ったところで言い訳にしか聞こえない。
杏を、家族を、たった1つの事件のために見捨てたのは、紛れもなく審馬だ。
「愛してるよ、今も昔も」だから、自分を守るための否定の言葉の代わりに、心の底から湧き上がる本音を口にする。「綾香も杏も、会ったことはないけど類も、愛してる」
思い返せば、もう久しくそんな愛の言葉を口にしていなかった。
別れてからは当然、別れる前も、敢えて言おうなどと思わなかった。
家族という存在を当たり前に感じてしまっていたからだろうか。日々に忙殺されて、そんなことを考えている暇がなかったからかもしれない。
それでいて今言わずにはいられなかったのは、失った家族を取り戻したいなどという欲ではなかった。
裁矢菜穂子という殺人鬼と審馬自身が同等に非情であると思いたくなかったからだ。
愛を誓い合ったはずの配偶者を、その人の間に生まれた愛すべき子どもを、簡単に殺せるような人ではないのだと思い込みたかったからだ。
いや、きっと簡単ではなかったのだ。菜穂子にとっても審馬にとっても、簡単などではない。
けれど結果として、その選択肢を選ばずにはいられなかった。
「綾香は、杏を、類を、殺したいって思ったことあるか」
愛の言葉の返答から目を背けるように、審馬の口からはそんな問いが零れ落ちていた。
同じ女性として、母親として、綾香であればその問いの答えが、答えの先にある真実が見えるだろうか。
審馬にはきっと、菜穂子の全てを理解することなどできないだろうから。
菜穂子は家族を殺して、その先にどんな未来を描いていたのだろう。何が見えていたのだろう。
何も見えていなかったのだろうか。目の前にあったのは、ただ、義務と絶望だけだったのだろうか。
だから、家族を殺し終わって、彼女は役所へと向かったのだろうか。
『あるわけないよ』綾香は迷うことなく審馬の問いにそう答える。『子どもを殺したいなんて思うのは、親失格だよ。そんなこと思う人に、親である資格なんてないよ』
綾香にしては随分断定的な物言いをすると思った。確かに彼女は自分の意見をしっかり持っていて芯のある女性ではあるが、それを押し付けるような言い方をする人ではなかったはずだからだ。
『…それが、正しい親』
それはまるで、そんな世間的な正論が誰か追い詰めているのだと揶揄している言葉のようにも思えた。
次回投稿は10/8(水)
を予定しております。




