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Instagram:@kasahana_tosho



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「どうしてこの子は、皆と一緒じゃないの?」


 綾香が両手で顔を覆ってそう言った。目の前の現実を受け入れたくないのだと全身で否定している。


 審馬にとっては、何がそんなに彼女の気持ちを揺さぶっているのかと、いまひとつ理解ができていなかった。


「どんな子どもだって、何かしら大変なことがあるだろ。表面的に見えないだけで」


 だから、そんな上辺だけの適当な返事が審馬の口からは吐き出されていく。


「わかってるわよっ。わかってるけど…まるで、お前は駄目な母親なんだって、そんな風に責められているような気分になるの」


 溜息が漏れずにはいられない。犯人の気持ちはあんなにも知りたくて仕方がないのに、一番身近な存在の気持ちはもうとっくに知り尽くしているとでも思いたかったのだろうか。


 何にせよ、ただ精神的に追い詰められていく綾香の存在を面倒臭いと感じる。


「考え過ぎだろ」


 綾香から目を逸らしながらそう答えて、審馬は綺麗に畳まれていた着替えを鞄に乱暴に押し込む。


 一生愛すると誓った妻より、目の前の難解不可解な事件の方が、その時の審馬にとっては重要だった。


「杏の英語教室、もうやめようと思って」


 綾香のそんな言葉に、まだこの話は続くのかと、思わず天井を見上げる。


「何で。杏がやりたいって言って始めたんだろ」

「そうなんだけど…どうかな。今はそうでもないのかも。楽しそうにやってる時もあるんだけど、結構日によってやる気が違うから」

「別に月謝ケチるほど金に困ってるわけでもないし、やりたい時にやらせておけばいい」

「でも、最近は結構やる気なくて、皆がお歌歌ってる時とかも、1人で席でお絵描きしてたりとか、全然英語と関係ないことしてるって言うか。もう帰ろうって言ってくることもあるし。お店屋さんのワークの時は楽しかったんだと思うんだけど、今、動物とか生き物のワークになっちゃったから、全然面白くないみたいで」

「4歳、5歳の子どもなんて、皆そんなもんだろ」

「違うの。皆ちゃんとできるの。先生がお歌歌いましょうって言ったら歌って、アルファベットを繰り返してねって言うと、ちゃんと言えるの。教室の中に、12、3人もいるんだよ?なのに、杏だけなの。杏だけが、できないの」


 先日の幼稚園の教諭との面談の際に、綾香が杏の発達状態について質問したのだと言っていたことを思い出す。


 確かに少し配慮が必要かもしれない。けれど、集団生活はおおよそ問題ないし、入園してきた時よりぐっと成長しているから、今のところ大袈裟に心配する必要はない、との返答があったそうだ。


 プロが見てそんな答えが返ってくるのであれば、同年齢と比較して多少の遅れはあれど、気長に我が子の成長を見守ってやれば良いのではないかと審馬は思うのだが、綾香にとってはそんな単純な話ではないようだ。


「英語の先生も、杏のこと気にして声はかけてくれてるの。何の絵を描いてるの?上手だねって、杏が教室を嫌いにならないようにさ、上手に声かけしてくれるんだよ。沢山英語を聞いてるだけでも意味はあるからって。でもなんか、やっぱり先生もそういう子が1人でもいるとそこに時間取られちゃうから、面倒くさいだろうし…」

「ならやめればいい」

「でもさ、良いのかな、それで。面白くないことでも、頑張ってやるのって、大切なことでしょ?」

「あぁ、もうっ!お前はどうしたいんだよっ!」


 耐えきれずに声を荒げてしまえば、綾香はわずかに肩を震わせて怯えた顔を見せる。唇を噛みながら涙を溜めた瞳で審馬を見上げて、1つ息を飲み込んだ後に、彼女は諦めたように視線を逸らす。


 思えば、こうして綾香が自分の感情を吐露してくれていた時なら、まだ家族としてやり直すことができたのだろう。


「そうだよね。わからないよね。貴方には。私っていう1人の人間としてじゃなくて、親として勝手に評価されて、勝手にレッテルを貼られて、それでもぐっと我慢して、それが杏のためだからって、それが親になるってことだからって、親の務めだからって、悔しくても泣きたくても、杏に先生の言うこと聞きなさいって、どうして皆と一緒のことができないのって叩いて怒鳴っちゃいそうなのを必死で我慢して、杏には杏のペースがあるもんねって、でも杏がやりたいって始めたことだからちゃんとやろうねって、親としてきちんと諭して…頑張って、頑張ってるのに…駄目な親って言われるこの気持ちがっ!…貴方にわかるわけがないよね」


 あぁ、わからない。さっぱりわからない。その答えだけは彼女の逆鱗に触れてしまうだろうと、ぐっと飲み込む。


 けれど黙って綾香の顔を見つめるその審馬の態度も、彼女にとっては気に食わなかっただろう。


「杏のためならどんなに傷ついても良い、辛いことは何でも乗り越えられるって思えるほど、私は強い母親にはなれない」


 言い捨てて立ち去る綾香の背中に舌打ちをして、審馬は再び警視庁へと戻る。


 綾香が杏のことを殆ど審馬に話さなくなったのは、きっとあの日からだった。その後に見つかった腎臓病のことや進学のこと、必要最低限の情報共有はしてくれていたと思うが、弱音を吐いたり意見を求めてくるようなことは気付けば一切無くなっていた。


 その時の審馬にとっては、面倒な愚痴に付き合わされなくて楽だなくらいにしか考えていなかったと思う。綾香が審馬に心を閉ざしてしまったのだと、そんなことは思いもしなかった。


 実際のところ、杏の「皆と同じようにできない部分」に関しては綾香の杞憂だったのだ。小学校に上がり多くの経験をしていく中で、杏はどんどんと環境に溶け込んでいった。当たり前のように友達と遊んで、勉強して、周囲と同じように成長していった。


 幼少期に感じていた少しの凹凸など微塵も感じないほど、普通の女の子になっていった。


 診断のつくような大きな問題ではなく、ただ綾香が皆と比べて気にしてしまった「だけ」のことだった。


 だから、どう考えても綾香の考え過ぎなのだと、審馬は自分の過ちに気付こうともしなかった。


 そのせいで、杏が透析を始めなければならないのだと、そんな話を綾香から聞いた時も、審馬はさほど深刻に考えようとはしなかった。


 娘の病気で忙しなくする綾香がその苦労を何一つ審馬に語らなかったから、何が大変なのかいまいち理解していなかったし、そんなに深く悩まなくてもなるようになるだろうと思っていたのだ。


 だから、杏に腎臓を提供してほしいという綾香からの最後の願いも、容易く拒否することができたのだ。

 

 自分はどれほど、綾香という1人の人間と真っ向から向き合うことができただろうか。少なくとも、母親になってからの彼女を審馬はまともに知ろうとはしていなかった。


 綾香のことはとっくに知り尽くしているのだと、本気で思っていたのだ。学生の頃からずっと一緒で、彼女の好きな物も嫌いな事も、どういう性格で何をされたら嬉しいのか、何が彼女の逆鱗に触れるのか、知らないことなどなかったから。


 「母」として生きなければならない綾香には、自分でも自覚していなかった、もしくは母になって初めて抱いた感情があったのだろう。抑えられない怒りも哀しみも、そんな中にある幸せも、母親としての成長であるとともに、綾香という1人の人間の大きな変化であったはずなのだ。


 問題なのは、審馬が父親としても1人の人間としても何一つ変わろうとしなかったことだ。綾香の変化を受け入れようとしなかったことだ。


 成熟した大人に変化など存在しない、体も心も何一つ変わらないなどと、そんなことはあるはずがない。


 今更気付いても、綾香も杏も戻ってはきやしない。だから審馬にできることは、その現実を受け止めて、審馬自身が変化していくことだけだ。母親にとってのその「少し」の絶望と強い孤独を見逃さずに理解することだ。


 母親とて、1人の人なのだから。

 


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次回投稿は9/27(土)

を予定しております。

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