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菜穂子の眉がほんの一瞬だけ震えた気がした。だが次の瞬間には冷え切った声が返ってくる。
「何がおっしゃりたいので?」
「死にたがっていた裁矢加津子を、あんたは救うために裁きを下した」
菜穂子が思わず息を吐き出したのは、湧き上がった苦笑を抑え切れなかったからのように見えた。
お前は何を言っているのだと、曲がった眉と口角が訴えている。
そんな彼女の態度から、この推理すら正解ではなかったのだと確信する。
救い、ではない。この女の根底にある動機は、そんな三流小説じみたものではない。
またもや掴みかけた答えがするりと手から逃げ出してしまったことに落胆するも、これは前進だと自分を奮い立たせる。
菜穂子は今まで、こうして自分の感情を露わにすることすらなかったのだから。
だとしたら、何故「救い」が彼女の心をそこまで揺さぶったのだろう。
「これは裁きです。救いなんてものじゃないっ」
こちらに掴みかかる勢いで椅子から立ち上がった菜穂子は、強い口調でそう言い放つ。
自分が行なっていた神聖な裁きを穢すなとでも言いたのだろうか。
いやきっと、そんなくだらない言い分ではない。
菜穂子にとって、この殺人はどうしても「裁き」でなければいけないのだ。「救い」などという別の「正義」であってはいけないのだ。
それはある意味で、菜穂子が「救い」という情状酌量のある殺人を拒否しているようにも思える。
「裁き」という言葉で殺人を正当化しておきながら、けれども自分の殺人に同情の余地があったと思われたくはない。
同情を拒むのは、裏返せば自分の行為を正義だと言い張らなければならないほどの後ろめたさがあるということだろうか。
そこから導かれる答えは、彼女の深層心理に、正義では塗り潰せない影、つまり罪悪感があるのだ。
「どうして」息を吸いながら、審馬は真っ直ぐ菜穂子を見上げて尋ねる。「救いじゃ駄目なんだ?」
根底にある菜穂子の心理が、捕まりたくない、自分は悪くない、とにかく「加害者」ではなく「正義の執行者」でありたい、そんなものであったならば、この殺人は「救いのためだった」とするべきだ。
その方が、周囲の同情や裁判上の情状酌量を得ることができる。
「救い」を動機にしておけば、自分の立場を守れるのだ。
けれど菜穂子はそれを拒否した。「救い」を持ち出す方が有利なのに、彼女は「裁き」に固執した。
菜穂子自身も、どうすれば自分を守ることができるのかわかっているはずなのに。
紛いなりにも、彼女は法の道を志していたのだから。
「救いにしておけば、あんたの大好きな裁判で有利になるはずだ」
だからその違和感の先に、この女の本当の動機が隠されている。
菜穂子が微かに震える手をもう片方の手で押さえながら、ゆっくりと椅子に座る。
じっと、彼女は机を睨みつけている。冷静に反論しようとしても、その言葉が出せずにいる。
「情状酌量など…必要ありません」
漸く菜穂子の口から絞り出たのは、そんな言葉だけだった。
敢えて多くを語らず後からいくらでも弁解できるように答えているが、それは菜穂子が自分の殺人を間接的に認めたようなものだろう。
本当に無実なら、自分のしたことを無罪だと思っているのであれば、救いではない、これは裁きだ、という理屈で突っぱねてしまえばいい。それを「情状酌量など必要ない」と返してしまうのは、裁判を受ける前提の発言だ。
つまりこれは、裁かれるのは避けられない、ただ自分の信念を守りたいという彼女の心の表れだ。
殺人を犯した事実を内心では認めているからこそ、彼女は同情を退ける態度を見せたのだ。
「ずっと、あんたに聞きたかったことがある」
小さく深呼吸をする菜穂子に、審馬は静かに問いかける。
彼女の長い睫毛を見つめながら、仕掛けるのであればここだという強い確信が審馬を奮い立たせる。
「裁矢菜穂子の罪状は何だ」
菜穂子がゆっくりと顔を上げる。わずかに揺れる彼女の視線が審馬を捉えている。
「あんたが裁判官だったとして、裁矢菜穂子に罪状を下すなら、それは一体何だ」
自分でも愚問だとわかってはいた。自らの罪を問うなど、犯した罪を正当化し正義を語る犯罪者がするはずもない。
けれど菜穂子の中には、正義を主張する自意識と同情を突き放す罪悪感が混在している。
その矛盾を突けば、自分を外から見つめざるを得なくなる。
裁矢菜穂子という人間を客観視することで、彼女の口から「裁かれるべき自分」を吐き出させるのだ。
「わ、私は正当な判決を下しただけで、何も」
「あんたの罪状は聞いてない」菜穂子の言葉を遮るように審馬は言う。「裁判官として、裁矢菜穂子の罪状は何だと聞いてるんだ」
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次回投稿は9/17(水)
を予定しております。




