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裁矢家の玄関に足を踏み入れながら、審馬は手袋に手を通す。
高橋から受け取った資料と家を見比べながら、一つ一つ室内を調べていく。
嫁という立場から切り取っても、悪役に描かれることのない裁矢菜穂子。そしてそれは逆も然りだ。菜穂子という立場から切り取っても、賢一郎や加津子は悪役に描かれていない。
誰かを強く恨むような人間は、犯罪心理学的にはしばしば「スケープゴート機制」や「外的帰属バイアス」に陥るとされる。
自分の不幸や鬱屈した感情のはけ口を一人の相手にだけ向け、その人物だけを憎悪の対象に仕立て上げるのだ。そうすることで、攻撃的な動機が揺ぎないものになる。
だが菜穂子にはその兆候がない。彼女の語り口からは誰かを悪者に仕立てるような執着が感じられない。
だからこそ、彼女の動機を恨みだと解釈するのは不自然だ。別の理屈がそこにある。
ではそれなら、彼女が羅列した罪状の意味は何なのだろう。
加津子に対する罪状は、名誉毀損罪、強要罪および準監禁罪。準監禁罪については、確か賢一郎にも認定されていたはずだ。
準監禁罪。わざわざ「準」と言うくらいだから、物理的に鍵をかけられてはいたわけではないのだろう。精神的・社会的に監禁と同じくらいの自由の剥奪をされていたと考えるべきだ。
それは、菜穂子に対する、だろうか。
報告書を見る限り、菜穂子は自由に家を出入りしている。加津子の通う透析クリニックに度々訪れていることからもそれは明白だ。
けれどそれを菜穂子自身が望んではいなかったのであれば。強要されて行っていたことであれば、少々強引ではあるが、準監禁罪の適応だと考えることができるかもしれない。
菜穂子と賢一郎の寝室のクローゼットを開ける。そして自分はまた、「恨み」を根本的な動機と考えてしまっていることに気付く。
恨みでなかったとしたら何だ。精神的に社会的に監禁されて、自由に生きられなくて、そこに生まれた感情が恨みでなかったとしたら何なのだ。
もしかして本当に、彼女の動機は「正義の鉄槌」なのか?家庭という閉鎖された世界の中で罪に問われることはない彼らを、本当に正義として裁いただけなのか?
いや、そんなことはおおよそあり得ない。動機として成立しない。どんな言い訳をしようと、その言い訳の裏には必ず強感情がある。裁矢菜穂子という人間が頭のおかしいサイコパスだとしても、正義面のその奥には、例えるのであれば、強い恨みが、殺害への快楽があったはずなのだ。
彼女の犯す殺人が本当の意味で裁かれない罪への正義感だったとしたら、それが家族にしか適応されないのもおかしな話だ。
法律の穴を掻い潜り無罪となった強姦魔を何故彼女は殺そうと考えなかったのか。街中で周囲の迷惑も考えずに暴れる連中を何故裁こうと考えなかったのか。
菜穂子の動機は家族に依存している。家族だから、起きた事件。
家族を殺す理由が恨みでも快楽でも無理心中でもなければ、あとは何だ。
引き出しの中を探る手を止めて、審馬は大きな溜息を着く。
裁矢菜穂子から見えていた世界は、一体何だったのだろうか。
できた妻、できた嫁、できた母親。その裏側で、一体どんな景色を見ていたのか。
部屋を出てキッチンへと向かう。アイランドキッチンの引き出しを次々と開けていって、やがて加津子と賢一郎が服用していたのであろう薬を見つける。
大きなピルケースに薬が保管されている。月曜日から日曜日まで仕切りがあって、几帳面に薬が割り振られている。
一緒に保管されている書類は、薬局でもらう薬剤提供情報文書だろうか。薬剤師に質問でもしたのか、沢山のメモ書きが残されている。
書類を無造作にキッチン台に投げ捨てて、審馬は真正面に見えた広々としたリビングをゆっくりと眺める。
そこにあったのは、「救い」だったのだろうか。「救い」故の「殺害」だったのだろうか。だから、最後の殺人、加津子を殺した後に彼女は役所に向い、全てに終止符を付けようとしたのだろうか。
「救い」が菜穂子自身に対するものか、それとも家族に対するものかはわからない。
加津子との関係に疲れた故の菜穂子の「救い」だったのか、それとも病気と闘い続けた加津子が求めた「救い」だったのか。
これほど几帳面に世話をしていたのなら、どちらであってもおかしくはない気がする。
ーーー杏がね、泣いてるの。
キッチンから離れようとした時、綾香の言葉が再び審馬の脳裏を過ぎる。
背後に振り返ると、綾香がソファに座ったまま顔を両手で覆っていた。
ーーー杏だけが、泣いてるの。
何故今、綾香の言葉が思い返されたのだろうか。
その理由がわからないまま、審馬は何度も瞬きをするけれど、目の前にいる彼女の幻影が消えてなくなることはなかった。
綾香がゆっくりと顔を上げる。審馬を見上げるその瞳に涙は溜まってはいなかった。
代わりにあったのは、母親としての絶望だろうか。
ーーー他の子は、皆凄く立派に歌ってる。元気いっぱいに、楽しそうに、ママ、パパ、見て見て!って。でもね、杏だけが泣いてるの。
審馬が話半分にしか聞いていないことに彼女は溜息をついて、そしてまた両手で顔を覆う。
ーーーママと離れて寂しかったね。近くにいるのにどうしてママと離れないといけないのって、嫌だったよねって。よく頑張ったねって。…私はどうして、そうやって杏を抱きしめてあげられる母親じゃないんだろう。
過去の審馬が綾香から目を逸らす。忙しいのに愚痴になど付き合ってられないと、彼女と向き合うことを拒否しているる。
優しく子どもを抱きしめることができる母親になりたいのであればなればいいだろうと、今の審馬であればそんな言葉を安易に投げ掛けはしないけれど、それでもきっと、綾香の心情の全てを理解し切れてなどいない。
ーーーどうしてこの子は、皆と一緒じゃないの?
手の合間から雫が流れていく。それが彼女の膝に落ちていく様を、審馬はただぼんやりと見つめている。
頭を振る。高橋から受け取っていた報告書を握りしめて、審馬は警察署へと戻る。そのまま真っ先に取調室へと戻ると、菜穂子は椅子に腰掛けたまま目を固く閉じていた。
背もたれに背中をつけることなく座っている彼女は、決して眠っているわけではないのだろう。
審馬の気配を感じたのか、菜穂子の長い睫毛がわずかに揺れる。彼女の大きな瞳が審馬の姿を捉えている。
次回投稿は9/10(水)
を予定しております。




