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階段から転がり落ちていく審馬を誰かが笑って見ている。
指をさして、こんな奴になってはいけないと、誰かが誰かに言っている。
警視庁にいた頃は出世だけが全てだと思っていた。出世をすれば多くの金を手に入れることができるし、それで家族を十分に養うことができる。警察や国という圧倒的強者の存在に愛する者達を優先的に守ってもらうことができる。
だから、上の人間にごまをすって自らも偉い立場に成り上がるべきだと、以前の審馬は信じて疑っていなかった。
あの空間はそんな似たり寄ったりの思考回路の人間ばかりが集まっていた。審馬が取り立てて出世欲が強かったわけでは決してなかった。
警察官という正義の代名詞を掲げながら、皆自分の欲望を満たすことしか考えていなかった。
審馬がそうした世界から目が覚めたのは、一体何がきっかけだったのだろう。悩むまでもなく、娘の杏の、そして綾香との一件があったからだ。
審馬が結婚したのはもう今から20年も前の話だ。警察官になって間もなく、当時付き合っていた彼女の綾香に妊娠が発覚したのだ。
夫としての役割意識だとか、父親としての自覚だとか、そんなものは当時から大してなかったと思う。綾香自身も審馬にそんなものを強く求めていなかった。警察官として生きることがどれほど大変かを彼女は間近で見ていたし、警察官の妻として影ながら夫を支えていることに誇りを感じている雰囲気さえあった。
今思えば、綾香はただずっと審馬に共感してもらいたかっただけなのかと思う。仕事で忙しいのも理解しているし、手を貸して欲しいわけでもない。警察官の妻としても母親としても、自分は何とかやり遂げたいと思っている。けれど、毎日いつでも幸せに笑っていられるわけではなくて、時として辛くて涙が止まらないこともあって、そんな時にただ話を聞いてもらいたかっただけなのだと。
審馬はそんな彼女の辛さを理解しようとは微塵も思っていなかった。だから、彼女から別れを告げられたのは、ある意味当然のことのようにも思う。
綾香が審馬を見限ったのは、杏が高校1年生の時の秋に起きた一件が大きく影響していると自覚している。今振り返っても、あの選択は決して許されるものではなかった。
中学生になったばかりの杏に腎不全が発覚した時、綾香はどれほど一人で悩み苦しんだだろうかと今なら考えることができる。審馬に負担をかけたくなかっただろうし、とは言え中学生という多感な時期に大きな病気を患ってしまった娘とどう接していくべきか、彼女には相談できる相手もいなかった。
高校生に上がって杏が人工透析を導入した時も、審馬にとっては気付いたらそうなっていた程度の認識だ。
けれど審馬だって、無関心だっただけではない。杏が通院していたクリニックや彼女が飲んでいた薬については一通り把握していたつもりだ。透析患者が今後どうやって生きていくのか、他の透析患者はどうやって生活しているのか、仕事の合間に調べたりもした。
仕事が忙しくて直接関わることは難しかったけれど、2人を愛していないわけではなかったから。
それでも一つ言い訳をさせてもらえるとしたら、杏が高校1年生の秋頃は、とにかく事件が立て込んでいて忙しかったのだ。凶悪連続殺人事件の犯人があと一歩で捕まえることができそうという時で、その決着が審馬の出世に大きく影響していたのだ。
綾香に忙しいと思うけれど時間を作って欲しいと言われて、連日警視庁に泊まっていた審馬は着替えを取りに行くついでに彼女との話し合いを承諾した。
大きいお腹を撫でながら、綾香は審馬の顔を真っすぐ見つめる。
ーーー杏に、貴方の腎臓を一つ分けて欲しいの。
普通の親なら、それを拒否する理由など何一つないだろう。腎臓など一つあれば人間は生きていける。
けれどあの時の審馬はとにかく刑事として足を止めたくなくて、事の重大さも綾香がどれほど追い詰められていたかも理解していなくて、だからあんなにもあっさりと簡単に「無理だ」と答えることができたのだ。
次に着替えを取りに家に帰った時、そこにはもう綾香の姿も杏の姿もなかった。残されていたのは、サインされた離婚届だけだった。
当時の自分は、家族のためにやみくもにやってきたのにと腹を立てたものだ。
けれど冷静になればわかる。何が家族のためなのだと。ただ単に自分が、刑事として犯人を検挙し動機を探り、真相を解明していくその快楽に浸っていたかっただけだろうと。
家族を捨ててまで知りたかった事件の真相に辿り着いた結果も悲惨なものだ。
事件は解決した。審馬の功績で、凶悪連続殺人事件の犯人は無事に逮捕された。犯人が次の殺人を起こすその直前に、犯行を止めることができた。審馬だけが犯人の動機に気付き、先回りすることができたからだ。
けれどその動機が問題だった。犯人が事件を引き起こした動機は、警視庁上層部への強い恨みからだった。犯人は以前に警視庁が真実を揉み消した被害者遺族だったのだ。
審馬はその事実を上層部に追及した。事件の真相を、本当の動機を捻じ曲げてまで一件落着で済ませようとする連中に腹が立って、喧嘩上等で殴り込みに行った。
綾香と杏がいなくなって、自分が思っていたよりも精神的に参っていて自暴自棄になっていたというのもあったかもしれない。
結果的に、審馬はこうして麻布署へと左遷させられた。それでも警視庁の膝下にいさせられたのは、あくまで審馬は「上司と殴り合いの喧嘩をしたせい」で異動させられたのであって、凶悪連続殺人事件は一切関係ないのだと上層部が素知らぬ顔をしていたかったからだろう。
麻布署で好き勝手に暴れる審馬を見て、多くの者が後ろ指をさす。
ああなってしまってはおしまいだと。もう二度と這い上がっては来られないと。
端から見れば、仕事人間の審馬が家族から捨てられて自暴自棄になり、挙句の果てに腹いせで上司に喧嘩を売って左遷させられただけに見えるだろう。その認識も間違ってはいない。
けれどその一枚奥の世界を覗いてみると、今まで自分が見えていたものと違う景色がある。
審馬も綾香のその一枚奥の世界を覗くべきだったのだ。刑事として犯人と相対するとできることが身内にはできないなどと、何て皮肉な事だろうか。
過去の自分を後悔しても、綾香も杏も、とっくに生まれて元気に過ごしているであろうもう一人の子どもも、戻ってはきやしない。
あれほど求めていた出世街道にも戻れやしない。
だからこそ、審馬が動機に拘る信念はより一層強くなる。
表面的に見えている事実のその奥に、真実が隠されている。それを知ろうとしなければ、本当の意味で誰も救えやしない。
被害者に向かってナイフを振りかざし、細い体を今にも引き裂こうとしているその手を止めることなど、決してできやしないのだ。
次回投稿は9/6(土)
を予定しております。




