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「何?裁矢さん?」
「はい」
「裁矢さんもさ、窓際寒いならあっちの18番ベッドの方に移ればいいのにね。空いてるんだし」
「端っこの方が良いらしいっすよ。それに窓から外が見れるのは気分転換になるとかって」
「じゃあ寒いのくらい我慢するか、厚着するとか自分で対処してほしいわよねぇ」
坂下さんの話を聞きながら、それも「世間体」か「患者としての権利」なのではないかと思う。
長い透析時間、気分的にプライベートが保たれやすい端のベッドにしたいと思うのも、寒さを訴えるのも患者としての権利だ。
裁矢は寒いからどうにかしてくれと、スタッフに怒鳴りつけたわけでも暴れ回ったわけでもない。
ただ自分の一つの意見として、権利として、スタッフに申し出ただけだ。
それを世間体だとか周りの目だとか言ってしまうのは、日本人の悪い癖のようにも思える。
「で、何の話でしたっけ?越えられない壁があるって?」
大して興味もなさそうに答えるあたしを見て、坂下さんの溜息が聞こえてきそうだった。
「梅田さーん」
坂下さんの隣に並んで枕カバーを交換していると、再びあたしを呼ぶ声がした。
何だ今日は。人気者のように良く声を掛けられる。
振り返ると、受付の方から事務員の歌川さんが歩いてくるのが見えた。
「歌川さん。なんすか」
「保育園から電話」
「…まじすか」
前言撤回。何が人気者だ。
坂下さんと目が合うと、彼女は「あらまぁ」と同情の表情を浮かべていた。
すみません、と呟いて、あたしは渋々受付の受話器を取る。
予想通り、子どもの発熱。お迎えをお願いしたいとの連絡だ。
溜息をついて、あたしは受話器を下ろす。
こういう時、きちんと結婚をして夫がいれば良かったのだろうかと思う。夫と助け合いながら子育てをすることができただろうから。こまめに連絡を取り合うまともな両親でも良い。孫のためにちょっとは頑張ってくれたはず。
けれどいないものはしょうかない。助け合える夫もまともな親も、あたしにはいない。
あの子の親の代わりになれる人は、あたし以外に誰もいない。
踵を返す。ナースカウンターに近付いて、裁矢との話を終えて再びパソコンとにらめっこをしていた土居主任の背中に声を掛ける。
「主任、度々すいません。ちょっといいですか」
「はぁい」
さすがに2度目は鬱陶しそうに、しかも一切こちらを見ずに彼女は返事をする。
「子どもが熱発しちゃったみたいで、迎えに来てって保育園から電話が」
「あーらー」
「なので帰ります」
「えぇー、困るぅ」
「すいません。あと、明日もお休みをいただけると」
最早土居主任からの返事はなかった。口には出さずとも不機嫌さが滲み出ている。
明らかに迷惑だと横顔が語っているが、こちらとしても、やっぱり仕事します、などということは当然言えるわけもなく、無言を了承だと受け取ることにする。
報告はした。あとは親としての、一職員としての権利を主張するまでだ。
とりあえず何度か頭を下げておいて、あたしは坂下さんのところへ戻る。
「お迎えー?」
にやっと笑った坂下さんは、保育園からの電話の内容を予想していたようにそう言った。
「すいません」
「まだ1歳だもんねぇ。しょうがないよ。まだまだ、あと2、3年は続くよ」
「そんなにすか」
「少なくともうちのお坊ちゃまは3歳までは最低でも1ヶ月に1回熱出してました」
「その時も上司は土居主任でした?」
「ううん。私の時はもっと酷いお局様だったわよ。だから子どものために動くのは、親の権利です!って喧嘩しちゃって、その人異動になったんだもの。代わりに来た土居さんは表立っては文句言わないけど、でも迷惑そうな顔を隠さないよねぇ、あの人も。子どもの発熱は37度5分。社会の視線は39度くらい?」
そんな坂下さんの言葉を聞いて、あたしは何度か瞬きをする。
先程と言っていることが随分と違っていたから。
「権利、主張できるじゃないすか」
「え?」
以前の上司と喧嘩したのであれば、それは坂下さんがしっかりと自分の権利を伝えることができたということだ。
世間体を気にして、何も言えない、遠慮してしまうという先ほどの坂下さんとは全く違う。
「世間体より、子育ての、親としての権利、でしょ?」
「…確かに。病児保育とかもあるでしょって言われるけどさ、やっぱり子どもが熱出して心細かったら、傍にいてあげたいじゃない」
「熱じゃなくたって、親としての権利、主張しても良いと思いますよ」
「そう、かな」
「それで坂下さんは、ベビーカー、畳むんですか?」
「畳まなくていいかも…もう使わないけど」
坂下さんと笑い合って、あたしは「すいません。じゃあ、あとはよろしくお願いします」とその場を後にする。
世間体か、個人の権利か。
難しい話なのは確かだ。どちらを優先しても蟠りが残る。
それならば、今よりもう少し、個人を優先しても良いのではないかとあたしは思う。
少なくとも世間体を気にし過ぎてしまう坂下さんのような人は、もっと自分のために周囲を無視しても良い。
万人にとって都合の良い人になることなどできないのだから。誰にとっても当たり前で普通の親になど、なれるはずがないのだから。
制服から着替えようと更衣室に入ろうとした時、ふと、受付の方に院長と土居主任がいるのが目に入る。
2人が誰かと話している。あれは、裁矢の家族だ。裁矢の娘ではなく、確か嫁だったはず。
相変わらず見惚れるほどの美しさだ。佇まいも動作も洗練されている。温室育ちのお嬢様というのが初めて見た時の彼女のイメージだ。中学生くらいの子どもがいると聞いたことがあるが、そんな雰囲気は微塵も感じさせない。
きっとあたしと違って「できた」母親なのだろう。金銭的な余裕も精神的な余裕もある彼女は、子どもに良い環境と教育を与えることができる。世間的にはいわゆる「底辺」と呼ばれるあたしとは、住んでいる世界が違い過ぎる。
裁矢に何かあればいつも彼女がクリニックに訪れていたことを思い出す。つい先日も、裁矢に出された処方箋を彼女が受け取りにきていた。
確か今日は、裁矢の今後の治療方針についての説明をする予定だったはず。
実子でもないのに、随分と姑のために尽す嫁だと思った。嫁姑関係がとても良いのだろうか。息子は仕事で忙しく表に出てこられないのだと看護師達が愚痴紛れに話していたが、だとしても普通はこんなに甲斐甲斐しく姑の世話などできやしないだろう。
近頃は友達のように仲が良く、息子を差し置いて2人で遊びに行ってしまうような嫁姑もいると聞く。裁矢家にもそんな親しさがあるのかもしれない。
あたしには姑は当然のこと夫もいないのだから、あくまで想像なのだけれど。
土居主任に促されるように、裁矢の嫁はあたしの方へと向かってくる。否、あたしのすぐ横の面談室の方へとだ。
ヒールの音が受付に響き渡る。裁矢の嫁が履いている靴の音だ。
すれ違った瞬間、裁矢の嫁がちらりとあたしを見た気がした。
会釈をする彼女を、あたしは何故か「会釈された当事者」ではなく、テレビを観ている視聴者のような感覚で見つめる。
機械的な彼女の会釈に、その瞳に、人間味を全く感じられなかったからだ。目の前にいる人間に、人としての温かみのようなものを全く感じられなかったからだ。
だからその会釈が、瞳が、あたしに向けられていたものだと、全く気付くことができなかった。
裁矢の嫁が面談室に入っていく。扉が閉まる音が聞こえて、あたしの意識は漸く現実に引き戻される。
良好な嫁姑関係。完璧な母親。
そんなものは、実はどんな家庭にも存在しないのかもしれない。
裁矢の嫁ももしかしたら坂下さんと同じように、電車の中でベビーカーを畳んでしまうような人なだけなのかもしれないと思う。
誰に向けられているのかもわからない、きっと自分のためにもならない修行。
世間体に畳まれるくらいなら、ベビーカーを畳まない方がずっといいのに。
…まぁ、あたしには関係ないけど。
着替えをして、帰路に着く。保育園にはあたしを待っている人がいる。
世間体にはいくらでも代用品があるけれど、あたしは子どもにとって誰にも代わりにはなれない、唯一無二の母親なのだ。
そんなあたしにとっては何気ないいつも通りの日が、裁矢晴翔が殺害され、そして裁矢賢一郎が殺される当日だったと知るのは、まだもう少し先の話だった。
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次回投稿は9/3(水)
を予定しております。




