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小説の更新情報は下記の傘花SNSよりご確認いただけますm(_ _)m


Instagram:@kasahana_tosho


  7


 ※ ※ ※



「ベビーカーってあるでしょ?」


 透析室の端でベッドメイキングをしていた先輩の坂下さんが、あたしに向かってそんな雑談を始める。


「はぁ」

「梅田さんはさ、電車とかで畳む?それともそのままにしとく?」


 坂下さんには小さな子どもがいる。小さな、と言っても、確かもう5歳位になっていたはず。


 かく言うあたしは育休から復帰してこの透析クリニックに戻ってきたばかりで、まだ自分の足で歩き始めて間もない子どもがいた。


「坂下さんのお子さん、まだベビーカーなんすか」

「違うわよ。もうあの何ていうの?B型ベビーカー?だって許容体重超えちゃってるし。そういう話じゃないの」

「畳む選択肢とかあります?何で畳まないといけないんすか?」


 あたしがこの職場で看護助手として働き始めて3年の月日が経とうとしている。産休育休で休んでいた時期が1年と半年あることを思えば、実働としては2年ほどだろうか。


 高校を卒業した後、大学にも行かず定職にも就かずにアルバイトを転々としていたあたしが唯一長く続けられた仕事というのが、この看護助手だった。


 これが自分の天職だったからとか、そんな大層な理由ではない。


 純粋に業務時間が驚くほど固定化されていて、人間関係も悪くはなかったから。そして毎日同じことを繰り返すルーティンワークで、難しいことを考えずに済んだから。


 朝7時半に出勤して、15時過ぎには退勤することができる。イレギュラーな残業などほぼない。朝が得意で午後にある程度自由に動き回ることができるのは、あたしの生活スタイルに合っていたのだ。


 業務中は歩き回ることが多く、時折体力的にキツさを感じることもあったが、若さ故か休めばすぐに回復した。


 けれどこのまま5年10年続けることは億劫だな、と思っていた矢先に、妊娠が発覚した。


 結婚はしていなかったけれど、父親の見当はついていた。だから妊娠を機に結婚するかと彼に尋ねたけれど、予想通り次の日には彼は蒸発していた。


 子どもは嫌いではなかったしいつかは欲しいと思っていたから、堕そうなどとは考えもしなかった。ただ、1人で育てていくにはこの世はあまりに母子に優しくなかった。


 働かなければ、食べていくことも子どもを育てていくこともできないから。


 そんな中で、職場の先輩母という存在は驚くほど頼りになった。特に坂下さんには、着られなくなった子どもの洋服から使わなくなった哺乳瓶、ベビーベッド、ベビーカーまで、あらとあらゆるものを譲ってもらった。


 仕事も私生活も、坂下さんには助けてもらってばかりだった。


 だからそんな坂下さんの言葉はあまり無下にはしたくないのだが。


「やっぱり、梅田さんはそういう考えだと思ったわ。あーあ、私もそういうメンタルでいられたら、もっと子育て楽かなぁ」

「メンタルっていうか、そもそも鉄道会社自体が畳まなくていいって言ってますよ」

「でも、周りの目とかあるじゃない?畳まないと非常識の烙印を押されるみたいな」

「気にし過ぎじゃないすか?山手線の激混み満員電車とかじゃなければいいと思いますけど。あれはむしろ子どもが危険だし。大人だって肋骨折れるって」

「でもなんか、空いてても畳みたくなっちゃうのよ。視線が痛いって言うか。電車なんだから、って言われてるような気分になるというか。そういうの、よくネットで聞くじゃない?」

「はぁ」

「梅田さんは今どうしてるの?」

「あたしは家の近くの保育園なんで、預けてから電車に乗るんで」

「やっぱり本来はそういうのを考えて保育園選びってしないと駄目よね…はぁ…」


 今はベビーカー使っていないと先ほど坂下さんは言っていたが、それなら一体何に悩んでいるのだろう。


 そんなあたしの疑問を察したように、坂下さんは言葉を続ける。


「いや今日、子どもが保育園行きたくないってぐずっちゃってね。しかもよりにもよってホームで電車を待ってる時に。こっちも出勤時間があるから、頑張ってあやしてても電車が来たら乗るしかないじゃない?静かな電車の中で、子どもがずっとやだやだ泣いてて、もうこっちはやめて!って気分よ。周りの目が痛いのなんのって。たった3駅よ?3駅だけど、地獄の3駅」

「うるせぇなって舌打ちでもされたんすか?」

「…されてないけど、うるせぇなって思われてたわよ、絶対。あれはもう修行僧みたいなものよね。世間体に勝つのは己の精神力って感じでさ」

「通勤電車って同じ時間に乗ることが多いじゃないすか。だから周りのお客さんも割と顔馴染みというか。だから、あの子、今日もいるなぁとか、今日は保育園行きたくないんだなぁ、今日は楽しそうにしてる、ぐらいのことしか考えてないと思いますよ。つか、文句言われても、どうしようもないもんはどうしようもないし。うるせぇって言ってるてめぇがうるせぇよって話」

「今日の朝の話はただの一つの例え話なのよ。なんかこう、育児していると、常日頃、そういう世間体か、子育ての権利か、みたいな壁にぶち当たることないっ?!」


 腕を組んで、あたしは考えているふりをする。


 ないと即答したら、坂下さんに怒られそうな気がしたからだ。


 だって悩む必要があるだろうか?世間体より大切なのは自分の子どもだ。


「ちょっと、梅田さん」


 目の前の坂下さんではない別の誰かに声をかけられた気がして、あたしは振り返る。


 少し離れたベッドに横たわって布団を肩まですっぽり被った裁矢加津子が、あたしに向かって手をこまねいていた。


「裁矢さん、どうしました」


 裁矢のところまで歩いていって、あたしは彼女にそう尋ねる。


「寒いから、エアコンちょっと調整してくれない?」


 寒さもすっかり増してきて、空調の届き難い窓際のベッドの患者からはよくこうした要望が聞こえてくる。


 裁矢もその例に漏れていなかった。


「ナースに確認してくるので、待っててもらっていいすか」

「エアコンくらい、梅田さんがちゃちゃっと変えてくれれば良いじゃない」

「そういうわけにはいかないんすよ」


 手に持っていたシーツを患者のいないベッドに置いて、あたしはナースカウンターへと向かう。


 ナースカウンターにはパソコンの画面を睨みつけるスタッフが数名。どのスタッフも話しかけるなと言わんばかりに忙しなくキーボードを叩いていた。


 だからと言って、遠慮している場合でもない。


「すみません、土居主任。今ちょっといいすか」


 声をかけると、長い黒髪を高い位置で一つの結いた看護師が視線をちらりとこちらに向ける。その視線はすぐにパソコンの画面に戻ってしまったけれど、可愛らしい声で「はぁい?」と返事がくる。


 今日のリーダーナースは土居主任か。ある意味一番避けたかった相手だったかもしれない。


「裁矢さんが寒いからエアコン調整してくれって」

「またかぁ。どうしよっかなぁ」

「一応今、暖房は…24度みたいですね。ちょっと上げます?」

「いや、室温上げると多分また隣の小泉さんがショックになるから。いいや。ちょっと話してくる」

「お願いします」


 土居主任の億劫そうな背中を見送って、あたしはまた坂下さんのところへ戻る。


次回投稿は8/30(土)

を予定しております。

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