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「旦那の家庭内暴力に必死で耐えて、挙句の果てには死刑にするのがあんたの普通か。大層ご立派な普通だな」
「それは、仕事もお金もあって、いざとなったら子どもすら捨てて好き勝手に逃げ出すことができる男性だから、そう思えるのでは?」
感情をぐっと堪えて喉の奥へと飲み込む。
審馬の心情を見透かされたのかと思った。けれど彼女の言葉は、きっと彼女自身を含め女性が抱いている一般論なのだろう。
確かに、男性は、少なくとも審馬は、あまりにも身勝手に全てを捨てて逃げてきた。崩壊している家庭から目を背けることができた。
けれど綾香にとってはどうだっただろう。刑事の妻としてまともに働くことも叶わず、子どもを見捨てることもできず、崩壊していく家庭の中で、菜穂子のように「普通」であろうとするしかなかったのかもしれない。
「家庭というのは、国家の最小単位です。法的にもそう定義されている。私は刑罰を執行したのではありません。制度を再定義したのです。私的制裁などでは決してありません。司法の空白地帯を埋めたのです」
菜穂子の言葉に、審馬は溜息を腕を組みながら椅子の背もたれに体を預ける。
この女の思考回路はさっきと何も変わっていない。むしろこれは、参考人として署に来た時以上に自分の殺人を自己正当化しているようにも捉えることができる。
菜穂子は、法律の外で勝手に人を裁いたわけではないと主張している。法が届かない場所で、代わりに「正当な裁き」を下しただけ。司法に欠けていた穴を、自分が埋めただけなのだと。
菜穂子の紡ぐ言葉の一つ一つに、自分が静かに苛立ち始めているのを感じる。
こちらが何を語っても、彼女に何を語らせても、その心の内が全く見えてこない。何が何この女の目的なのかがわからない。
取り調べをしていてこんなにも手ごたえを感じないのは初めてだ。
「刑事さん。司法に身を置く者であれば、『家庭内の密室性』が時として法の手を届かなくすることを知っているでしょう。誰も声を上げられず、証拠も残らず、助けも入れず、虐げられた者が何年も黙って耐えていることなど、あなたが一番見てきたのでは?」
確かにそうだ。衝動的な殺人も計画性の高い殺人も、声を上げることもできず、それ故に助けてもらうこともできず、積もりに積もった恨みが爆発した時に起こる。
そんな殺人事件を審馬は何度も目にしてきた。
つまりは、菜穂子の動機もそういうことだと言いたいのだろうか。
「だから、誰かが彼らを裁かなければいけなかったのです」
何かが、蟠りとなって審馬の頭に残り続けている。ずっとこべりついて離れない違和感の正体を審馬自身も掴み取る事ができずにいる。
誰かが裁かなければいけなかったから殺した。それが、この女の本当の動機ではないはず。この女の中には、家庭内暴力を受けていた故に抱いた強い恨みがあるはずなのに、その強い激しい感情の片鱗すら見えてこない。
巧妙に隠しているのだろうか。動機を悟られないように、必死で言葉巧みにこちらを騙そうとしているのだろうか。
それとも、この女の中には激しい感情など存在していないのだろうか。
「旦那を憎んでいたから、裁いたんじゃないのか」
「法定は私的な感情を持ち込む場所ではありません」
「被告人裁矢賢一郎に対する罪状、保護責任者遺棄罪、暴行罪、準監禁罪および強制性交等罪。これは、あんたが受けていた家庭内暴力の罪状だ。だからあんたは旦那に強い恨みを抱いていた。だから、裁くしかなかった」
感情の起伏が全くない菜穂子とは裏腹に、審馬の方が声を荒らげていく。
言いながら、これではさっきまで取り調べしていた刑事達の自白強要と何ら変わらないなと冷静に考えている自分がいた。
「罪状はただの罪状です。そこに、憎しみも恨みもあるはずだと言うのは、貴方方の願望でしょう」
気付けば両手で机を強く叩いていた。菜穂子の方にぐっと顔を近付けて、胸倉を掴む勢いで睨みつける。
近くで見れば見るほど、どこまでも顔が整った美しい女だ。そんな女が、自分は何も間違っていないと、正義面を掲げて審馬を見上げている。それが更にこちらの神経を逆撫でする。
こんな場所で、こんな刑事と被疑者という関係でさえなければ、この距離が2人を甘い世界へと導いてくれただろうに。
「…そのような威嚇的行為は、刑法208条、暴行罪に該当する可能性があります。どうか、お気をつけて」
互いの鼻先がついてしまいそうなほどの距離で、けれどもほんの少しの動揺も見せずに審馬の顔を見つめて、菜穂子はそう言う。
審馬の今の荒れた心情では、彼女のそんな言葉は挑発にしか聞こえなかった。
椅子の背もたれにゆったりと体を預けて、菜穂子は言葉を続ける。「こうした取調室も、法が届かない密室性のある場所でしょう。…家庭と同じように」
絶句する。反論も、皮肉も、怒鳴り声すら出てこない。菜穂子が今敢えて法律を引っ張り出して審馬を咎めたのは、先ほどの自分の主張を押し通すためだったのだと気付かされたからだ。
お前がこの不透明性の高い取調室という空間で法を犯すのであれば、私が法の届かない家庭という場所で誰かを裁いたことをお前に咎められる筋合いはないのだと、そう彼女は訴えている。
「刑事さんは、私とは違うでしょう?」菜穂子がそう言って、ゆっくりとまばたきをする。「本当の意味で、貴方は法律を武器に闘うことができるのだから」
審馬は菜穂子から目を逸らすしかなかった。そしてそれは、今回の取り調べにおいて審馬の敗北を表しているようなものだった。
菜穂子から逃げるようにして審馬は取調室を出る。そのまま取調室の扉に背中を預けて、大きな溜息をつく。
今回においては、完全に菜穂子の方が一枚上手だった。審馬を苛立たせて自分の主張を通すことも、彼女の計算の内だったのだろう。
参考人だった際に審馬に言い負かされて、どう寝首を掻いてやろうかと菜穂子はずっと考えていたのだろうか。
だとしたら、今回は彼女の勝利だ。審馬は完全に菜穂子の思惑通り、冷静になれずに取調室をこうして出てきてしまった。
自分の中で燻る苛立ちを落ち着かせるように、審馬はゆっくりと後ろに振り返る。
だが、まだこれからだ。被疑者としての取り調べはまだ始まったばかりで、証拠もこれからどんどんと集まってくる。
気を取り直すように、審馬は両手で自らの頬を叩く。そしてすぐに頭を切り替えて、先ほどの彼女の言葉の意味を考える。
ーーー本当の意味で、貴方は法律を武器に闘うことができるのだから。
審馬を咎めながら、菜穂子は自分の行いも省みているような発言をしていた。
菜穂子は自分のしていることが間違っていると気付いているのだろうか。自分が誰かを裁けるような立場の人間ではないと、彼女自身が一番理解しているのだろうか。
それなら何故、彼女は自分が裁判官かのように罪状を語るのだろう。何故、その罪状を元に裁きを下したのだろう。
夫が憎くて、殺してやりたくて、それが裁矢菜穂子という不可解な殺人鬼の中に隠された真の動機ではないのだろうか。
「完全に被疑者に食われましたね。何が、わからせてやるよ、ですか」
監視室から出てきた東が、鼻で笑うようにそう言う。
次回投稿は8/13(水)
を予定しております。




