引き金
「糞ったれめ」
シュヴァが目の前に光景に対して吐き捨てた。
「……乱戦、とすら呼べませんね。これはただの狂乱です」
「何だよ、これ……」
冷静な態度を崩さないビブルとは対照的に、イフルズは呆然としていた。
銃弾の嵐。全員が徒党を組むどころから、手当たり次第に殺しあいをしている光景が、目前で繰り広げられていた。辛うじて、銃弾が飛び交う方向性から集団性が見て取れる。その集団性は一つひとつがすぐに死滅し、小さくなる。だがその場の性質は損なわれることなく、次々と新たな集団が投入されていた。さながら不死化した悪性腫瘍が、互いを侵蝕しあっているかのようだ。
イフルズたちは建物の陰に隠れて、その戦闘の様子を窺っていた。
ノーン、トレス、ソフィアの三人に後衛の情報戦を任せて、前衛として斥候に出た直後、この光景にイフルズたちは出くわした。狙撃手の潜伏予想範囲地の一部。道中で見つけたホテルを拠点として、内部ネット化した首輪の中で展開されている情報を後衛組が拾いつつ、前衛組のバックアップを行うシンプルな隠密偵察の想定だった。
斥候に出始めてから、戦闘が至る所で始まったのか、銃声自体は様々な方向から拾えていた。小競りあいが起こりうるのは予想していた。状況が掴みきれていない焦燥から来る不用意な戦闘。緊張が生みだす突発性の暴力だと。
だがしかし、街を数ブロック進んだだけで、その認識が間違いだと気がつかされた。
すでに見える範囲で死体は転がっている。回収されてもいないということは、その余裕すらないということだ。そして銃は光と音で、恐慌状態を留めることなく作り続けている。自分たちもこの建物の陰から一歩踏みだせば、この野外合奏にいともたやすく加われるだろう。
〝ノーン、見ての通りだ。状況がおかしい、お前の話と違ぇ〟
目と鼻の先で繰り広げられている殺戮に対してだろうか、シュヴァが憎々しげに通信した。
困惑した声色でノーンは応答する。
〝見えてる。確かに、これは変だね……〟
シュヴァに擬験しているノーンには、この場にいるかのように状況が見えている。模造刺激。相手が五感で得た情報を感じるシミュレーターだ。
率直な意見をビブルが述べる。
〝状況の進行が早すぎますね。いえ、これは早いというよりも、促進されているような印象を受けます〟
「誰かが油でも注いだのか」
VRでの会話にBRでイフルズが割りこむと、相手は思慮深い表情で片眉を上げた。
「言い得て妙ですね。戦場に燃焼速度があるならば、そう言うことになります」
何かに迷うように視線を動かすと、ビブルはその貌を空白にした。
〝そちらでは情報は拾えましたか?〟
〝欺瞞情報と攻撃と防御のオンパレードだよ、情報流通量が半端ないね〟
VR側から声しか聞こえなかったが、ノーンの肩を竦める姿がイフルズには目に浮かぶようだった。
ノーンは続ける。
〝今、トレスとソフィアがネットワーク分析をやってくれて……あ、終わったみたいだ。どう?〟
〝えっと――結論から言うと、集まってるみたい〟
明らかに困惑が滲みでている声色でトレスが答える。
〝内部ネット内で見つけた他の班をノードとして構造解析をしたんだけど、任意の二つの班が戦闘状態になるのに、有意差は認められなかったの。だから、遭遇戦しか起きていないはずだと思う。そのあと、交戦状態をノードのリンクとして構造化したら、スケールフリーネットワーク化してた〟
〝一部の班だけ、交戦数が多いってこと?〟
ノーンの問いに、そう、とトレスは肯定する。
〝そこからハブ――交戦数の多い班――の情報戦の痕跡を調べてみたら、わたしたちみたいに前衛と後衛に分かれているみたいだったの。それで、他班の前衛の物理空間での位置情報を探したら、今、イフ君たちが向かっているところが中心になってた……えっと、つまりね、一箇所のエリアに戦闘が偏ってる〟
トレスの報告を聞いて、少し考えこむような間を空けてからノーンは言った。
〝ハブが固まって、一つの大きなノードになっているような、〈結節点〉ができてる?〟
〝そうなの。でも、何でかがわからなくて……そこには何もないの、でも皆そこに向かってる〟
トレスが気味悪そうに言う。イフルズは想像してみる。誰も彼もが理由もなく一つの場所に吸い寄せられている。重力特異点でもあるかのように。もし本当に、この戦場にそんなものがあるとすれば、どうなるだろうか? 答えは目の前にある。いずれ誰も抜けだせなくなる永遠の殺しあいの場。戦場のシュバルツシルト面。殺戮の地平線でもあるというのだろうか。だとしたら、どこからがその境界なのだろうか。
自分たちは今、戦場のどこに立っている?
寒気がした。一瞬、自分のいる場所が、途轍もない危険な高所であるかのように、ぞっとする。
今ならまだ間にあうのではないかと言う考えが頭を過った。まだ戦場の引力から逃れられるのではないだろうか。少なくとも、自分はまだ引き寄せられていない。ここはまだエルゴ球の中だ。ペンローズ過程の適用範囲。重力特異点のエネルギーだけを持ち去り、生の活力を得られる。まだ、十二分に生きることが――
「イフルズ、どうかしましたか?」
ビブルに声をかけられる。そして彼を見て気づいた。
ビブルは既に戦場に引っ張られている。だからこそ、こうして今ここにいるのだ。恋人の仇を取るという明確な殺意。それは途方もなく大きな引力だ。彼をそこから引っ張りだせるほどのエネルギーを自分は持っているだろうか。ない。わかりきっている。もしも立場が逆だったら。そう考えると、とてもじゃないができない。
ビブルはすでに、チアの頭を撃ち抜いた一発の弾丸で戦場に引き寄せられているのだ。
だがしかし、イフルズの中にいる選択者は言葉にしようとする。それが保身の果てにある薄汚さだと自覚していても。
「なぁ、ここから――」
そこでビブルの背後にある建物の角から、一つの影が、こちらに飛びこんでくるのが見えた。
歩兵。この戦場で初めて遭遇した敵。
敵はこちらに気づいた。相手は左腕から血を流している。負傷して逃げだしてきたのだろう、ヘルメットを着けておらず汚れて黒ずんだ顔がよく見える。
そしてイフルズは彼と目が合った。
恐怖。
そして錯乱と怒りと焦燥。命の価値が安い場所で得られる、およそすべての負の感情を混ぜあわせたような、濁りきった色が滲みだしている。
敵は大きく口を開けた。何か叫ぼうとしながら、同時に怪我をしていない右腕でこちらに銃口を向ける。真っ黒な穴。あれも重力特異点だ。殺戮の地平線が見える。それに反応して、イフルズの体は訓練通りに滑らかに動いた。
こちらも銃口を向ける。脳内で状況が一瞬で処理された。ボディアーマーの複合発泡金属製のプレートは、ある程度は銃弾を止めるどころか破壊する。その下にある戦闘服には、グラフェンを二層構造にしたジアメンがあり、銃弾一発では貫通しない。だから最低でも数発命中させなければ相手は倒れない。だがそれでは駄目だ。その間に敵のマズルフラッシュが何回か見えるだろう。そうすればこちらも被弾する可能性がある。あまつさえ、敵の叫び声が響けば自分たちの存在が周囲に露呈する。だから、狙うのは頭。距離は目測で約三メートル。余裕で当てられる。
引き金は引けなかった。
しかし、頭の真横で銃声がした。鼓膜がきんと痺れる。頭が割れそうな痛みがする中、敵が首から血を流し、どさりと倒れるのが見えた。
何が起きたのかと振り向こうとするのと同時に、シュヴァに胸倉を掴まれてイフルズは壁に体を叩きつけられていた。
〝耳が聞こえねぇだろうから、VR側で言うぞ〟
シュヴァの顔は、怒りに満ちていた。
〝戦場には二種類の人間がいる。暴力を使う奴と頭を使う奴だ。俺たちは二人とも前者だ、イフルズ。どっちもできない奴がどうなるかは言わなくてもわかるな? そこに転がってるからな。暴力装置として働けないなら、今すぐにここから拠点に戻って戦闘が終わるまで寝てろ。俺が何を言いたいかわかるか? 暴力を使えない奴は頭を使えばいい、頭を使えない奴は暴力を使えばいい。誰にでもできるのは後者だ、だがそれすらできねぇ奴は仲間を殺す。もう一度訊くぞ。俺が何を言いたいかわかるか、イフルズ?〟
〝……悪かった〟
躊躇った。人を殺すことを明らかに躊躇った。シュヴァが言っていることは正しい。少なくとも、今イフルズはこの場にいる全員を殺しかけたのだから。
シュヴァはこちらの目を直視して睨み続ける。そこから目を逸らさなかった。逸らしてはならないと理解していた。やがて、シュヴァが胸元を掴んでいた腕の力を緩めた。
ちょっといいですか、とビブルが言った。
〝助けて貰ったお礼も言いたいですし、イフルズに反省をさせるのもそうですが、その前にちょっと〟
ビブルは倒れた敵の足を掴んで、自分たちのいる路地裏に引きずりこんでいた。
〝彼はまだ生きてます、運ぶのを手伝ってもらっていいですか?〟
はぁ? とシュヴァが怪訝そうな顔をする。
〝助けるつもりかよ〟
〝いえ、そんなつもりは毛頭ないです。どの道もう彼は助かりませんよ、持ってあと数分です。ですから、死ぬ前に有効利用させて貰いましょう〟
〝どう言う意味だ?〟
シュヴァと一緒に敵を運ぶのを手伝いながら、イフルズは訊いた。
〝通信経路を乗っ取ります。直接肉体に接触すれば、死にかけの相手から盗聴するのは容易です〟
ARMとなった人類は肉体そのものが一つの装置だ。その肉体を構成するCEMは、ARMにとって一種の連結定義であり、BRでは肉体の接触のみで相互接続が可能となっている。確かに、昏睡状態に近い相手なら、よほどの強固なセキュリティがない限り、クラッキングは簡単だろう。
腰に手を当てながらシュヴァは運びこんだ敵を見下ろす。
〝まだそいつの接続先の接続関係生きてるのか?〟
〝幸い〟
言いながら、ビブルはその場に屈みこんだ。息が細くなりすぎて、もう聞き取れなくなっている相手の頬に触れる。ビブルの瞼がぴくりと動いたように見えた。セキュリティが張られていたのだろうか。しかし、ビブルを相手にしては、死にかけの人間が情報空間で抵抗する余地はないだろう。
〝――成功ですね、彼の班のLANに入れました。ノーン、そちらに回します。生体反応情報をループさせて、彼の死を欺瞞させておいてください〟
〝了解。あとはこっちで向こう側から情報拾ってみるよ。バレたら、すぐ捨てる〟
さて、とビブルはイフルズのほうに顔を向けた。
「彼はもう生かしておく必要がなくなりました」
いつの間にか、耳は聞こえるようになっていた。
「このまま苦しませる必要も、ねぇな」
そう言って、シュヴァもイフルズを見てくる。沈黙。それが何を意味しているのか、彼にもはっきりとわかっている。自分の手の中にあるものを使うべきだ。
「……そうだな」
人の命は重いのに、引き金は軽かった。