試験開始
第二部 月も登らない空の下で
ソフィアは夢を見ていた。
――あぁ、これはいつものだ。ソフィアは明晰にそれを理解する。
夢の中のソフィアは少し成長して大人になっていて、土を弄りながら何かを育てている。今よりも長くなっている髪を一本結びにしていて、オーバーオールの下に着ているシャツから覗く、日に焼けた肌が健康的だ。畑で育てている、野菜なのか花なのかも判然としない、名前も知らない植物は、夢から醒めてしまうと、どんな形をしていたか、いつも忘れてしまう。
空が不機嫌になって辺りが暗くなり、地面から雨の匂いが漂ってきた。立ちあがって、腰を伸ばしながら空を仰ぐ。一雨来そうな曇天だった。畑仕事を切りあげて、夢の中で暮らしている簡素なバンガローに戻る。玄関で汚れた軍手を外してポケットに捩じこみ、泥のついた長靴をサンダルに履き替えてから、家の中に入った。
部屋の中央にはこぢんまりとしたテーブルが一脚、その隣にマットレスが潰れたベッド、奥には使いやすく什器を散らかしたキッチンがある。夢の中だからだろうか、都合よく水や電気が通っている。
オーバーオールの肩紐を外して楽な恰好を取りながらキッチンに向かい、冷蔵庫からお手製のレモンシロップのキャニスターを取りだす。少し多めのシロップを冷水で割って、グラス一杯の濃いめのレモネードを作った。一仕事したあとは、いつもこれを飲んで、喉の渇きを潤すのだ。
汗を掻き始めたグラスを頬に当てて冷たさを楽しみながら、玄関のベランダに向かう。そこには小さくて不格好だが、可愛らしい手作りの木製のテーブルと椅子がある。テーブルの上にある、表紙が色焼けしたハードカバーの本とグラスを交換して椅子に座った。ぎしりと椅子は不平を鳴らしたが、しっかりと体を支えてくれる。
泣きだした空の水音に包まれながら、栞を挟んでおいた頁を開く。その本のタイトルも内容も、夢から醒めると覚えていない。それが物語だという印象だけが残っている。判っているのは、いつもこうしてレモネードのすっきりとした甘い酸味を楽しみながら、頁を捲っているということだけだ。
やがて、グラスのレモネードが空になると栞で物語を中断して、この夢はいつものように終わる。彼女がこちらを向いて言うのだ。
「お帰り」
彼女に拒絶されて、満ち足りた悪夢が醒める――
全身に鋭い痛みが走った。
電気ショックのような衝撃で覚醒すると、そこは見覚えのない場所だった。打ちっ放しのコンクリートの部屋。窓と扉が一つだけであり、家具が置かれていない殺風景な狭い部屋だ。デザインを求めない、安上がりなコピー&ペーストのような箱。モジュール化された建築物。右手にある窓から射した光が、チンダル現象で埃を光らせていた。
「どこ……」
目をこすりながらソフィアは疑問を口にする。指に目脂がくっついた。今朝はしっかりと顔を洗ったはずなのに、とぼんやり思う。寝起きのように頭が上手く働かない。ついでになぜか体も重い。
状況が解らず心細くなって周囲を見回すと、部屋には他に誰かがいた。皆一様に、寝起きの様子だった。一人ではなかったことに安堵する。同時に、知らない人と同じ空間にいる不安感が新たに芽生えた。せめて、誰か知っている人でもいないだろうかと、反射的にその場の人間に情報探信を打つ。返ってきた情報を元に、プロファイルがARヴィジョンで表示された。
IFLS-ALT4S、ENCH-TREES、VLMN-BIBL0、TIER-FLESS、C001-CHIVA、N00N-LNTRN。見知った顔の同級生だ。全員が軍事演習用の装備を身につけている。市街戦用の黒っぽい迷彩の戦闘服とボディアーマー。ソフィアも同じものを身につけていた。このせいで体が重かったようだ。よく見ると、窓の反対側の壁にバックパックとヘルメットと銃器弾薬類が、一揃いにして七セット置いてある。
今やソフィアの記憶は完全に混乱していた。自分が何をしていたかを思いだそうとする。そう、確か適性試験を受けていたはずだ。試験の内容は、普段の授業で受ける定期考査と同じような、学力と実技試験だった。科目も総合的な内容で――その辺りから記憶が曖昧になっている。
「どうなってんだ、こりゃ」
シュヴァの漏らした言葉に、その場にいた全員が困惑の色を見せる。誰も状況を把握していないようだ。状況把握に努めようと、視線をあちらこちらに向けている。その中で、何かに気づいたようにビブルが目を瞠った。
「ちょっといいですか」
ぐい、とシュヴァの首元をビブルが覗きこんだ。
「おわ、何だよ急に」
苦言を無視して、ビブルは相手の首を調べている。自然とソフィアの視線もそちらに向いた。
シュヴァの首には首輪状の何かがあった。乾涸びた太いミミズのようにも、指の太さほどの管状の内臓のようにも見える。思わずソフィアも自分の首に手をやる。指先がざらりとした凸みを撫でた。どうやら、同じ物が着いているようだ。どのように巻かれているのか、触感では首輪と肌の境界が今一つ判らない。首輪を撫でていると、どくん、と脈打った。驚いて手を引っこめる。
首輪をしげしげと観察していたビブルが、興味深そうに唸る。
「これ、インプラントされてますね。頸動脈まで食いこんで……いや、一体化してます、頸椎まで届いていそうです」
「インプラント、って何かの装置ってこと?」
ソフィアと同様に首を触っていた大柄な少年――ノーンが訊く。その疑問に、イフルズが続く。
「見たことない装置だな……CEM素子から造ったものか」
「CEMの素子……」
不思議そうにソフィアは呟く。奴隷学校の授業で聞いたような気がするが、よく覚えていない。そう、とイフルズが相槌を打つ。独り言のつもりだったので、返事にびくりとした。
「真っ新なCEMを使って、一から造ったんだろうな」
ぼんやりとソフィアは授業で教えられたことを思いだす。〝個〟を持たない無機生命《CEM》は、あらゆる環境で生きるために、情報を吸収して完璧な擬態を行う。その特性を利用してプログラミングのように設計図を与えると、その通りの形状と性質を獲得する。この首輪もそうして造られた何かの装置なのだろう。
おそらくは、とビブルが首肯する。
「どんな装置かは不明ですが、一定の機能を持っていそうです。僕たちを気つけさせたのも、この首輪でしょうね」
「随分と乱暴な目覚まし時計だな」
シュヴァがぼやき、部屋の隅に置いてあるバックパックを手振りで示した。
「これも適性試験の続きか? 実戦形式の演習でも――」
そこに押込通知のショートメッセージが届いた。警報つき。『重要度:緊急』設定の通知が、突然視界に割りこみ、驚いて息を呑む。メッセージが強制的にARヴィジョンへ展開された。
『適性試験受験者各位へ。全受験者の覚醒を確認しました。これより最終試験を開始します。試験形式は生存競争となり、それ以外のルールは自由となります。本試験は本メッセージの受信と同時に開始とします。なお、試験の終了は受験者が規定人数に達した時点で終了するものとし、試験期間は無期限です。それでは皆さん、頑張ってください』
全員がメッセージを読み終えるまで暫しの間が空いた後、シュヴァが頭を掻く。
「――やろうって、みたいだな」
「装備も一揃いあるみたいだし、結構な長期演習になるのかも知れないな」
綺麗に分けられた装備品一式を見ながらイフルズが言った。うげ、とチアが不満を漏らす。
「面倒くさー。わざわざこの少人数で分けたってことは、チーム戦ってことかぁ」
チアは窓のほうを向いて外の様子を見ると、深い溜息を吐いた。
「うっわ、広っ。何これ、地下の市街地戦用の演習場っぽいけど、外壁見えない。今までこんな規模の場所でやったことないんだけど。つーか、ランダムに配置されたのかな、これじゃ相手班探すのも大変……」
窓ガラスが割れた。同時に、ぱんっ、と空気が破裂するような音。続いて、びちゃ、と湿り気のある音。それから、ぐらり、とチアの体が地面に吸い寄せられるようにして、倒れた。頭が床に打ちつけられて少し弾むと、彼女は動かなくなった。
頭が。
彼女の頭は抉れていた。
赤く縁取られた凹みの中に、白っぽい何かが見えた。脳髄。ふっくらとしていて、てらてらと妙にピンク色の艶がある。チアから離れた位置に、彼女だったものの一部が転がっていて、灰色の床をキャンバスに赤い線を引いていた。彼女のブルネットの髪が、肌と脳と床に血でへばりついている。妙にリアルで逆に冗談のようだった。狙撃。それを理解するまでに、この場で死ぬには十分な時間、ソフィアは棒立ちだった。
「全員窓際の壁へ!!」
誰かが大声で叫んだ。ソフィアは反射的にその声に従って、窓際に行ってしゃがみこむ。遅れて声の主がノーンだったと理解し、彼はあんな大声を出せたんだ、と無意識に考える。
窓の下には、ソフィアを含めて五人が屈んでいた。あれ、と思う。五人? 一人足りない。振り返ると、トレスが呆然と立ち尽くしていた。危ない、と声を出そうとする。そのままだと死んじゃう、と手を伸ばそうとする。
死。
命の危機が脳裏を過る。途端に喉も腕も石になったように硬直した。
動けず逡巡しているソフィアの隣で、誰かが飛びだしていた。黒髪の少年。イフルズだ。彼はトレスの手を取って、渾身の力で抱き寄せる。次の瞬間、弾丸が壁を削る音がした。それから遅れて発砲音。
遠い音が、身体の芯に染みこむように残響した。
「い、イフ君……チアちゃんが、ち、チアちゃ――チアちゃんは……?」
「見るな。何も考えるな。息を吸って、静かに、ゆっくり……そう、その調子で、呼吸だけに集中しろ……」
声も体も震えているトレスの視界を、イフルズが手で塞ぎながら抱きしめている。トレスの呼吸は乱れて深くなりすぎていた。恋人に押さえられた目から、涙が漏れて頬を濡らしている。泣いていた。もう解っているのだ。
親友を助けるためにソフィアは動けなかった。いや、動かなかった。自分の意思で彼女を見殺しにしようとした。でも仕方がない、自分の腕力ではトレスを引き寄せることはできなかっただろう。恋人に助けられた方が彼女も嬉しいに決まっている。だから、あの場面で自分が動く必要はなかった。むしろ、イフルズと同時に動いていたら、彼の邪魔になっていたに違いない。
そう、だから問題ない。
ソフィアは自分に言い聞かせる。だが、納得しているはずなのに、なぜか視界が暗い。周りの音もよく聞こえない。胸の奥から闇が滲みだしてきて、自分を塗りつぶすような感覚に襲われる。息が苦しい。闇で真っ黒になった顔のどこに口があるかわからない。まるで自分が立ちあがった影のようだった。
ぱん、という音がして影が振り払われる。
「ソフィア、呼吸をして」
言われて、自分が呼吸を忘れていたことにソフィアは気づく。破裂するように口を開いて肺から二酸化炭素を追いだし、酸素を取りこみ始めた。どれだけ息を止めてしまっていたのだろうか。床に手をついて、みっともなくぜいぜいと喘ぐ。顔を上げると、ノーンがいた。どうやら、彼が目の前で手を叩いて、我に返らせてくれたようだった。
「あ……その、ありが……」
お礼を言おうとしても、息が切れて上手く言葉にならない。ノーンは大きな手で優しく背中をさすってくれた。
「慌てないでいいよ、ゆっくりと息をして」
暫くの間、沈黙が続いた。突然すぎる状況に、誰もが何も言えずにいた。トレスの泣き声と、ソフィアの荒い呼吸の音だけが部屋の中に響いていた。
「……とりあえず、装備品を身につけないと」
沈黙を破ったのはノーンだった。
「待てよ、バックパックは部屋の反対側だぞ。取りに行くには遠すぎる」
シュヴァの言う通りだった。用意されている装備品は、窓際にいる自分たちから見て、真正面の壁際にある。五メートルは距離があった。狙撃手からは、移動している間に十分に狙いをつけられるだろう。
「いえ、多分、もう大丈夫だと思います」
言うや否や、立ちあがったビブルが部屋の奥に向かっていた。静止のためにイフルズが怒声を発しかけるが、それを遮るように淡々と彼は続ける。
「ずっとこの部屋を狙っているとは思えません。二発です。撃っていました。他の人間に居場所が露呈するには十分です。もう移動している可能性が高い」
言いながら、部屋の中央に横たわるチアを平然とビブルは跨いで、正面の壁際に辿り着いた。そのままバックパックを背負って、てきぱきと他の装備を身につけ始める。
銃声は、ない。
ビブルがこちらに振り向く。
「ですが、ここに居続けるのも得策とは思えません。早く移動したほうがいいでしょう。皆さんも、早く装備を整えてください」
本当に移動して大丈夫なのかソフィアが迷っていると、ノーンとシュヴァが黙って移動し、装備品を身につけ始めた。イフルズはビブルの行動に呆気に取られた様子で動かない。
どう行動するのが正しいのかわからなかったので、ソフィアは多数派に従って装備品を身につけることにした。
「装備は、ハンドガンとアサルトライフル――あぁ、これは使用者が未登録ですね、きちんと登録してロックをかけておかないと――ナイフにレーション、緊急医療キットに……歩兵用の基本的な装備が一式ですね。当然ながら、弾丸は演習用のペイント弾ではなく実弾です」
ビブルは淡々とハンドガンのマガジンの中身を確認している。足元に横たわって動かないチアに目もくれない。あまりにも冷静で、少し気味が悪かった。その様子が気になったが、相手の心に踏みこむ勇気はソフィアにはなかった。あるいは、わざと考えないようにしているのかも知れない。無意識に彼女は死体を横目で捉えてしまい、グロテスクさに後悔した。網膜に焼きついてしまわないように装備に集中する。
歩兵装備の基本的な扱いは軍事演習で習ったので、ある程度は理解している。銃器は軽量化が進んでいて、ソフィアの細腕でも取り回せるが、どうしても重量の変えられない弾薬などの道具がまとまると、総重量が十五キロを超す。小柄な自分の体の三分の一以上はある。バックパックを背負うと、ずしりとした重さに少し泣きそうになる。動けないほどではないが、長時間の行動はとても無理そうだ。こんなありさまで、生き残れる気がしない。
ふっと、急に背中が軽くなる。驚いて振り向くと、ソフィアのバックパックをシュヴァが片手で持ちあげていた。装備のつけ方が間違っていて怒られてしまうのではないか、と萎縮して身構えていると、彼が言った。
「少し寄越せ、お前の体格だときついだろ」
「いいの……?」
ソフィアの言葉に、相手は肩を竦める。
「いいも何もねぇよ、適材適所だ」
「ありがとう」
シュヴァの言葉に甘えて、ソフィアはバックパックを降ろした。ひとまず、予備の弾薬をすべて彼に預けることにした。重量が三キロほど減っただけで、バックパックを背負ったときの体感が大分楽になる。
「おい――おかしいぞお前ら!!」
突然の怒鳴り声に驚いて振り向くと、イフルズが肩を震わせて激昂していた。ビブルが冷ややかな視線を彼に送る。
「……何ですか、イフルズ」
「何ですか? だと」
イフルズは彼に詰め寄り、胸倉を掴む。
「何ですかじゃないだろ!! お前……チアが、チアが――死んだのに! 冷静に何をしてるんだ!!」
言われて、ビブルが不思議そうに返す。
「冷静?」
そして、無感情な口調で彼は続けた。
「僕が冷静に見える――それは良かった、僕はこの状況下で十二分に良好な精神状態ということですね」
「お前――」
イフルズの怒りが頂点に達したのが傍目にも判った。彼が殴りかかろうと腕を振りかぶる。その腕をシュヴァが掴んだ。
そして短く告げる。
「イフルズ、今のビブルは空白だ」
瞠目すると、イフルズは振りあげていた拳を降ろした。目をぎゅっと閉じ、悔やむような表情で彼は俯く。
「悪い、ビブル」
ようやく、ビブルの落ち着いた態度にソフィアも合点がいった。恋人が死んだ悲しみを顔に出さないように、彼はVRに感情領域を向けていたのだ。今、この中で一番泣き叫びたいはずなのに、感情を押し殺している。VRPDのイフルズが感情の機微に気がつけないのは当然だろう。おそらく、シュヴァとノーンは察していた。だが、自分はどうなのだろうか。ビブルのことを不気味に思うだけで、病んだ部分のように、感情の枝葉から疑問を切り落とした。
欠落を感じる。これがソフィアという人間性なのだと、どうしようもなく思い知る。
感情領域が空白な人間特有の、静かな流水のような口調でビブルは言う。
「いえ。君は悪くないです。僕も、わざと君を怒らせるような言い方をしました。いっそ、殴って欲しくて。君は、何も悪くないですよ、イフルズ」
それで――とシュヴァがバックパックをイフルズに投げる。
「これからどうする。この――胸糞悪いことに事実の――適性試験を、どうする」
「生き残るしか、ないだろうね」
装備を整え終えたノーンが、いつの間にかトレスに手を貸して、立ちあがらせていた。
「さっきの押込通知。『試験の終了は受験者が規定人数に達した時点で終了する』ってあった。だから、ぼくたちには二つの選択肢がある」
その一、とノーンは人差し指を立てる。
「試験終了まで――つまり、他の受験生たちの争いから逃げて、隠れ続ける」
その二、中指を立てる。
「積極的に戦闘に参加して、試験の早期終了を目指す。共通しているのは、どちらの選択肢を取ったとしても、戦闘は避けられないということ」
泣き止んだが、まだ心の整理ができていない様子のトレスが、しゃくりあげながら不安げに問う。
「絶対に、た、戦わないといけないの……? 誰も積極的に戦おうなんてしないと、その、思うんだけど……」
ノーンは首を横に振った。
「残念ながら、多分それはないと思うよ。今はまだ、状況が初期だから、積極的な戦闘はないと思うけど、いずれは大規模な戦闘が始まる。なぜなら『ルールが自由』で、『試験期間が無期限』だから」
「それって、どういう……」
「生存戦略だろ」
シュヴァが吐き捨てるように言った。
「食料は限られている。生存枠も限られている。だったらあとは簡単だ。そのうち、放っておいても群れができて、群れ同士で潰しあいが始まる。しかもご丁寧に、俺たちは顔見知りで構成された班単位で分けられているみたいだしな、初めから班内に、ある程度の結束がある。他も似たようなもんだろうさ。心理的にも、片手で数えられる人数で行動するよりも、両手で数えられる人数がいたほうが安心するのは当たり前だ。初期に接触した奴らで班から分隊、小隊、中隊……どこで安定するかは判らんが、そうなるだろうさ」
「……それで。オレたちも、生存戦略とやらをするのか、シュヴァ」
イフルズは拳を握りしめていた。その目には、ぶつけどころのない怒りが宿っているようにソフィアには見えた。彼ははっきりとした強い口調で続ける。
「殺しあいを」
イフルズの言葉に対する返答は誰からもなかった。ソフィアも同様だ。これから誰かの命を奪うのかと問われて、肯定する精神構造はしていない。それが戦争のような必要に迫られる殺人ならば、あるいは許容する余地はあったかも知れない。しかし、今ここには自己保存しか理由がない。突然、原始的な競争原理を持ちだされても、人間は赤の女王の言葉を実践できない。
雄弁な沈黙が流れる。肯定が空気を支配していた。どっぷりと浸かりきった現実に、答えは不要だった。
「申し訳ありませんが、僕はこの班を離脱したいと思います」
静寂の泉にビブルが一石を投じる。「はっ?」と疑問の声を上げたイフルズを無視して彼は続ける。
「僕は、この試験よりも優先してやりたいことができました。だから、君たちと行動をともにすることはできません。それは必ず君たちに迷惑をかける。なので、単独行動を――」
言い終わる前に、シュヴァがビブルを小突くように蹴った。
「ふざけんな。そんなの認めるわけねぇだろ。お為倒しに言い回しやがって」
わかってんだよ、とシュヴァが苦々しい表情でビブルを睨みつける。
「復讐だろ」
少し黙ってから、ビブルは小さく頷いた。
「ならいい。どうせ多かれ少なかれ、これから誰かを殺すんだ。せめてその殺しには意味を持たせたい。俺はお前に協力するよ」
周囲を見回してシュヴァが視線で問いかけてくる。「お前らはどうする?」と。
「ぼくも協力する」
次に名乗りを上げたのは、悲しげな顔のノーンだった。
「この引き金を引く覚悟は、全然できてない。でも、実際にチアは死んだ。悪夢のように呆気なく。でも現実は醒めることがない、死ぬまで」
彼はアサルトライフルを軽く持ちあげる。
「ぼくたちが、この国で〝奴隷〟って分類をされていた理由が何となくわかったよ、今。ルクスリアは『国民にあらゆる苦を認めない』。でもぼくらは国民じゃない。インフラ設備と大差ない、道具だ。これまで徹底的に管理されて、育成された。そして今は、間引きされようとしている。だから、淘汰されないように、抵抗するしかない」
「他に、方法はないのか……ここから逃げだしたり、死を偽装すれば、もしかして」
思案顔で顎に手を当てていたイフルズが、苦渋に満ちた顔で言う。
「無理だよ、ぼくたちには首輪がつけられている」
お道化て誤魔化すように、ノーンは自分の首元を指差した。
首輪が反乱防止用の装置である可能性を、ノーンは告げていた。おそらく、自分たちの言動は、すべてこの試験を運営している人間たちに筒抜けだろう。ましてや、今自分たちがいる場所に、内側から開けられる扉があるかも疑わしい。
戦いを回避しようとするイフルズに、ソフィアも賛同したかった。戦うのは怖いし、見知らぬ他人を手にかけるなど、できそうにないからだ。しかし、意見を出したくない。反論されたら何も言えないし、具体的な解決策を持っていない。呆れられて見放されるのが、恐ろしくて仕方がない。
心の底では既に理解している。戦う以外の方法はない。それでも、この極限状況からの楽な道への標を、誰かが提示してくれることを期待している。
トレスが、また泣きだした。
「……た、戦おう」
両手で顔を押さえながら、震えた声で、彼女は言う。
「わたしも、戦うから……これ以上は、誰にも死んでほしくない。せ、せめて、身勝手だけど……友達には生きていて欲しいの……」
イフルズが、何も言わずにトレスを抱きしめた。彼女は、感情の堰が切れたように号泣する。
「ごめんね、ごめんね、イフ君……。わたし、凄く汚い……誰かの命で、自分が助かることを望んでる……。死にたくない……!!」
「いいよ、いいんだ。オレたちは、この場所にいる全員がそうだ。お前は間違ってない。ここにいる誰一人として、間違ってない」
ソフィアは手に持っていたアサルトライフルの銃身を、ぎゅっと握りしめる。皆が戦うことを決めた。だったら、それに逆らえない。自分一人で生き残れないのだから、ついて行くしかない。
「わたしも、戦う」
孤立を恐れて口を衝いて出た言葉は、我ながら実に薄っぺらかった。