構造物先生
イフルズは奴隷学校に備えつけられた診療室を訪れていた。VRPDの定期診療と適性試験に向けた調整のためだ。
患者をリラックスさせるために用意された診療室は、一人かけのソファが二脚あり、カーキ色を基調にしている。わざわざ大きな一枚ガラスの窓の外に、小さな滝のある水棲生物空間まで造ってあり、ご苦労なことだと思う。
国民にあらゆる苦を認めないルクスリアには、医療制度というものがない。〈官能〉の概念であるしきが廃止しているからだ。その代わりに、国のありとあらゆる場所に、それこそ『目』の届かない場所がないしきは、自国民の健康状態を監視し、高い健康水準を維持するシステムを作りあげている。
国民はそれと意識することなく、日常生活を送るだけでヘルスケアされており、物理的な肉体が病に倒れることは皆無だ。家の中での呼気や発汗、排泄物――新陳代謝の産物が検査されており、異常が見つかれば知らないうちに食事や風呂などで薬が投与されている。医療はライフラインと直結し、個人の恒常性の瑕疵は即座に検出され、システムが誘導して知らぬ間に治癒させる。
奴隷もその医療インフラのおこぼれに与っている。だからイフルズも産まれてから肉体的には一度も病気らしい病気に罹ったことはない。他の序列国家ではどうなっているかは知らないが、少なくともルクスリアの医療は徹底している。『伝染病』は死語だ。ウィルス感染ですら『ゼロ号患者』の発見は感染と同時で、対策も終わっている。
そんな膨大な情報処理を行うしきは、まさにルクスリアそのものであると言っても過言ではない。数百年以上も表舞台に姿を見せていないが、それでも国家と等号で結ばれている存在の偉大さに翳りはない。いや、そもそも概念なしで成立する国家など、今はもうないだろう。だからこの国では、病気であることは恥ずべきことなのが一般的だ。遺伝子疾患すら生まれる前に治療されるというのに、イフルズには障害がある。あまつさえの精神疾患。
だが、周囲の目は関係ない、とイフルズは割り切っている。VRPDはもう、自分の一部だ。それに、自分の目指すべき目標を定めている。あとは結果を出して周りを黙らせればいい。
イフルズが診療室に足を踏み入れると、医療従事用AIのアバターが、ソファに腰かけた状態で立体映像で表示される。
国が用意しているAIの医者は、元型の『老賢者』を患者が自己投影した構造物だ。医者で構造物。だから俗に構造物先生と呼ばれている。
イフルズが視る『医者』は、黄色人種の男性だ。熟年し、経験豊かで落ち着きのある雰囲気を持っている。自分に父親がいるとしたら、こんな感じなのだろうか。いや、だろうか、ではなく実際に自分の父親に近い存在なのだ。元々が己の元型なのだし、おそらくはアバターの構築は自分の遺伝子情報から行われているに違いない。
VRの産物が、自分のVR上の精神を治療をするという皮肉。だが、業腹なことに相手の声のトーン、所作、口調、話の間の取り方、ありとあらゆるものが一種の安心を与える。頼っていい相手だ、と何かが告げてくるのだ。だが諾々と従うな、と二律背反の感情が同時に訴える。
目前の構造物先生に心を許さないように、気を張り詰めさせてイフルズは挨拶する。
「どうも、先生」
「やぁ、久しぶりですね、イフルズ君。さ、どうぞ座ってください」
勧められるがまま、イフルズはソファに座って相手の対面の席に着いた。空気圧式のクッションが、勝手に座り心地を良くしてくれる。至れり尽くせりが逆に苛立ちを誘った。
「それで、今日は?」
「適性試験が近いので、何というか……最終調整、みたいなことを」
それは良い心がけですね、と構造物先生は微笑む。脳裏にチラつくのはオイディプスの影だろうか。その表情に安堵感を抱く自分を、無性に殴りたくなる。
「ですが、申し訳ないことに、私からイフルズ君のVRPDに尽くせる手は、もうありません」
「は?」
「現在、アルト氏症候群には治療法がありませんので、一生つきあっていくしかありません。それはご存知でしょう?」
もちろん知っている。だからこそ、大事な試験の前に症状を安定させたくて、構造物先生を頼りにきたのだ。
もしや時間の無駄だったろうか、とイフルズが後悔し始めていると、構造物先生が訊いてくる。
「イフルズ君、肉体に魂はいつ宿ると思いますか?」
意味不明な問いに、イフルズは呆気に取られる。
「魂って……魂ですよね?」
えぇ、と構造物先生は短く首肯する。
何の話だ。生命と生物を線引きするための抽象概念が、どうして今の話題の俎上に載るのか理解できなかった。
「そんなの、生まれた時からに決まっているじゃないですか」
下らない、とばかりに一蹴すると、構造物先生が反駁する。
「いわゆる、物心がつく頃までの記憶も、自我もはっきりしている人間などいません。その間、人間には果たして魂が宿っていると言えると思いますか?」
「赤ん坊だって、泣いたり笑ったりするじゃないですか。それは魂が宿ってる、とは言わないんですか」
「それが機械的反応でないと証明できますか? ましてや、赤子には差しだされた指を本能的に掴む手掌把握反射のような、原始反射があります。貴方は泣いて喚く以外の主張方法を持たない赤子が明確な自我を持ち、かつそれが魂と呼べるほどに高尚で確固たるものにより為されている。そう断言できますか?」
そんなのわかるわけがない。赤ん坊がVRで、いつからはっきりとした自分のアバターを構築するのかなど知らない。
「一つ、思考実験をしてみましょう。『二人の色』という思考実験をご存知ですか?」
いえ、とイフルズが首を横に振ると、構造物先生は人差し指と中指を立てた。
「ある個人から二人のクローンを作ります。ここでは便宜的に彼ら、としましょう。彼らはお互いの存在を知らず、まったく同じ構造の部屋でAIによって教育されます」
突然の流れにイフルズはついて行けない。構造物先生が急に狂ってしまったのだろうかと不安になり、思わず話を静止する。
「ちょ、何の話です?」
「ですから、思考実験ですよ。まぁ、端的に言うならば魂への言及です」
はぁ、と間抜けな返事しか出なかった。とりあえず、気になったことを訊いてみる。
「えっと、何でAIに教育されるんです?」
「教育者が人間では作用因として差が出てしまうための前提の定義です。さて、彼らはある事情から、自分がいる部屋から出ないで教育を施されます。教育内容は心理学について、そして自然界に存在する一般的な色彩についてです。そして精神的にも、巨視的には無視できるほどの差しかない同一の体験をして、彼らは成長していきます」
「巨視的?」
「まぁ、人格形成は複雑ですからね、単純化するための方便ですよ」
構造物先生は一旦、話の間を取って足を組み直す。
「えっと……つまり、二人のクローンが、まったく同じ環境で勉強して成長をしている、ということで合ってます?」
イフルズの確認に相手から、はい、という答えが来た。
「教育を終えた後の彼らは、自らが学んだことに関する事柄を完全に理解しているものとします。心理学と自然の色彩ですね。そして彼らは最終段階として心理学的原色のパレットを渡され、『自分という色を表現する』ように言われます」
何となく、話の様子がイフルズにも見えてきた。要するに、同一の環境で育った、同一の遺伝子を持つ人間の自己表現結果の仮想、というところだろう。
「この時、この二人が作った色を計測すると、その色空間の座標は精神物理学的な個人を表現していると言えるでしょう。では、彼らの色彩は同一でしょうか? 仮に、同一の座標を取るとしたら、定義より彼らの心は同一の構造となっており、『個』というのは座標系で適当な値を取っているに過ぎないのではないでしょうか?」
「……同じ魂、ということですか」
「そうですね。更に言えば、これは魂が適切に解析することが可能であり、肉体的にも精神的にも差がある人々を、限りなく同一の個人に近づけられることになります」
つまり、と構造物先生が言う。
「魂は幻想に過ぎない」
どうですか? と言葉は続いた。
「イフルズ君は、彼らの色彩は同一になると思いますか?」
イフルズは即答できなかった。答えに窮する。例えば、自分と同じ魂を持つ人間が、この世界のどこかにいたら、そいつは自分だろうか? そんな量子もつれみたいな状態、有ってたまるか。直観的には、もう解答は出ていた。
「単純に考えれば、同じ色になるとは思いますけど……」
だが、納得できない。
「魂が一緒ということは、その二人はある状況に対して、まったく同じ行動を取るということですか?」
「この思考実験の目的は、同一の肉体と精神を持つ別々の個人が存在する時、彼らは同一の〝個〟か? という点です。つまり、さきほども言ったように魂への言及ですね。心身の成長は可変ですが、魂の実体は未だに不明瞭なままです。生命が触れることのできない不可侵領域に存在する値は、どのように構築されているか解らないままです。ですから、魂には幻想性が付与されてしまっています。それを剥がせるかどうか、とも言えますね」
人類は〝個〟を持たないCEMと融合することで、KUネットを獲得した。そしてCEMの研究中に、〝個〟のない存在からヒトを模した存在を造ったとき、そこには魂は宿っているか? という疑問が生まれた。
答えはノーだ。
明らかな機械存在に魂が宿っているとは認めれらなかったからだ。だから、生物と生命は魂の有無で明確に分けられている。だが、その魂自体は誰も観測したことがない。形而上的な仮定された概念だ。
「魂が先に在るだけじゃないんですか?」
「そうですね、それならば心身は魂という本質に従い、影響を受けるだけですね。ではその先験的な魂というモノは、いつできあがるのでしょう?」
それは不可知だとイフルズは思う。だから、自信ない口調でしか答えられなかった。
「……生まれた時に」
「では、魂が先に在り、それは本質を保つものとしてコンスタントとしましょう。ですが、それでも個々人の心身に適切な調整を施せば、魂の影響まで考慮して、総体的な〝個〟が同一の存在を生みだせるのではないでしょうか?」
「さっきの色彩が同じものになる、という意味で、ですか?」
「そうですね。別人でありながら、心的には同一の存在と成り得るとは考えられませんか?」
確かに、関数的に〝個〟を導きだす方法があれば、それはできそうだ。しかし、イフルズは何かが引っかかる。いや、引っかかるというよりも、はっきりと嫌だ。それを認めると、今ここにいる自分が無意味になってしまう気がする。あまりにも生命が手軽なものになってしまう不安感から、反論する。
「いや、でも何かおかしいですよ。何と言うか……変な例えですけど、同じ素材を使って同じ調理をしても、できた料理は別だし……」
「料理ですか。面白い考え方ですね。ですが、完成した料理は別物だとしても、その味自体は同じものにはなりませんか?」
「それは……そうですけど……」
そうじゃない。言いたいことはそうじゃない。オレの完璧な複製がここにいたら、そいつはオレか? 端的にまとめあげた仮定に、イフルズは挑むしかない。
「いや、やっぱり違います。違う。そうだ、物理的にも精神的にも、別の実体なのは明白なんだ。それに魂が同値だとしても、値を格納する変数になる肉体は別だ。それは同じように見えるだけの別物だ」
ほう、と構造物先生は興味深そうに問う。
「なぜそう断言できるんです?」
なぜって、とイフルズは素朴な実感で応えた。
「別物なのは事実じゃないですか」
構造物先生は微笑う。
「その通りですね。さきほどの思考実験に登場するような二人がいたとしても、彼らが別の人間であることは事実です。その実在性は覆りません。仮に、彼らの色彩が同じになり、客観的に見ても彼らが同一人物に見えたとしても、彼ら自体の世界は別物です。彼らの主観性が混ざり合うことは、時空的にも不可能です。それがAIには持ち得ない魂という実体だと私は思いますよ」
相手の言葉でイフルズは思いだす。相手は構造物だ。人間ではなく、それらしい振る舞いだけをする存在だ。突然、相手の『私』という言葉が酷く空虚に聞こえた。
「そして、彼らが互いの存在を知り、思考を読みあい、息を合わせるような芸当ができたとしても、それは相手を熟知しているのと大して差はありません。重要なのは誰が自我を意識しているかということです」
自分の魂はここにしかない。無意識にイフルズは自分の胸元に手を当てる。構造物先生の話は、自己は独占的だということだ。魂は意識を現実に暴露するが、自意識を知覚する他者には、こちらの秘部は見えないし触れない。だから重なり合うこともない。
「オレがオレであることが排他的なのは解りました。でもすみません、先生が言いたいことは、結局何なんですか?」
構造物先生はソファの背もたれに寄りかかる。
「初めに言った通りですよ、魂への言及です。現実は魂の本質の表象です。例えば、脳が物理法則を解釈して意識上に物理世界は展開している、という意味では、BRは脳内の物理演算エンジンでシミュレートされた、ある種の仮想現実に過ぎません。そして脳に解釈機能を提供している――『個』の世界を構築している――のが、自分を自分たらしめている、一般的に魂と呼ばれているものです。アルト氏症候群によるVRの知覚障害は、魂の構造的欠陥が原因だろうというのが通説です。しかし、現代の技術では、魂を解析して修復することはできません」
自分の頭の中に浮かぶ脳に、見えないケーブルが刺さっているのをイフルズは想像する。魂は孤独で、意識を連結定義にした、現実というプラットフォームで通信をしているに過ぎないのだろう。脳が繋がっている、ブラックボックス化された部品が、自分は壊れているのだとすると、酷く気分が悪かった。
頭がふらつくような感覚を覚えながら、イフルズは黙って話の続きを待つ。
「ですが、脳が停止した機能を別の機能で補完するように、VRの知覚障害は、君にBRでの優れた知覚を与えています。君が意識する物理世界は、他の人よりも精細なんですよ。それは君だけの武器です」
その言葉の意味を理解するまでに、少し時間がかかった。
「えっと……つまり、体を鍛えろ、みたいな意味ですか?」
「まぁ、乱暴に言えばそうですね」
言いながら、構造物先生はイフルズの成績をARヴィジョンに表示する。学生奴隷の情報はオープンだ。しかし、いくら相手がAIとは言え、ほいほいと個人情報を覗かれるのは気分のいいものではない。
「イフルズ君の体育系の成績は非常に優秀ですね。そう言う意味では、VRでできない分、今までも無意識にBRで補っていたのではないですか?」
「確かに、まぁ、そうかも知れないですけど……」
実際は、できることは何でもやってやるという、半ば自棄じみた結果なのだが。
「これならば、VRPDであることを含めても、軍備奴隷として通用しますよ。軍備配属される可能性は十二分にあると思います」
突然の結論にイフルズは戸惑う。
「その……本気で言ってます?」
「私は人間の機微を理解していても実践はできませんよ」
構造物先生は表情を変えずに続けた。
「生憎、私はAIですから」
イフルズには、それは冗談のつもりなのか、真面目な発言なのかよく判らなかった。
ただ、構造物の笑顔はやはりどこか空虚だった。