欠落感
放課後の奴隷学校の宿舎の敷地を、特に目的もなくソフィアはぶらついていた。
ふらりと立ち寄った上級生用ラウンジは、入り口側の壁がガラス張りになっていて、開放的で落ち着いた雰囲気を演出するデザインになっている。フットサルコートほどの空間に、仲のいいグループがよく集まって使うラウンドテーブルが格子状に並べられていて、窓際にはいつも満席の人気の高いソファ席が用意されている。
ソフィアはラウンジをほとんど使用したことがないが、入り口から全体を見渡して、今日は明らかに賑わっていることがわかった。席がすべて埋まっていて、その場にいる全員が、ARヴィジョンを展開していることを他人に示す、状態通知用のダミーウィンドウを表示していたからだ。
適性試験の日が近づいているからだろう。どこに行っても皆、試験の勉強や実技の対策をしている。試験の内容は公表されていない。学生奴隷は過去の卒業生との連絡も取れないので、どんな試験が行われてきたのか知る手段もない。だからとにかく、やれることをやって最後の追いこみをしている。
どうしてそこまで勉強を頑張るのかソフィアには理解できない。試験勉強をしている全員が、明確にやりたいことや、なりたいものがあるとは思えない。それなのにどうして必死に努力するのだろう。
ソフィアは将来に興味がない。伸ばしたい能力もない。手に入れたいものもない。あるのは欠落感だけだ。どうでもいい、という感情が一番しっくりくる。
誰もがどこかに向かうために進んでいる。立ち止まっているのは自分だけだ。まるで、宇宙の拡がりのよう。果てのない端を目指して、周囲は膨張していく。自分はその場から動かず、周りとの距離はどんどん広まっていく。空間の間隙は冷却されて熱を失い、永遠に埋まらない死んだ隔たりができる。それはやがて、孤独を生みだす。
きゅっと胸がしめつけられるような錯覚をする。
苦しい。この場にいることが苦しい。未来に進んでいく人たちの中で、停止していることをソフィアは自覚する。他人が一分一秒生きていることで、自分が死んでいることが加速度的にわかってしまう。
人工太陽がゆっくりと茜色の夕陽に変わり、日が暮れた。影が伸びて自分の背後に大きな闇を落とす。気がつくと、虚無が自分よりも大きくなっていた。
未来のある人たちがいる空間が恐ろしくなり、ラウンジから足早に逃げだす。
別に誰も追ってきてはいない。そんなことはわかっている。けれども、何かにつきまとわれている恐怖感があって、歩調を落とせない。見えない怪物が、歩く速さで背後からついてきている。姿も足音もなく、自分には持ちえない未来を感じた瞬間から、その存在を感じた。振り向いても、そこには何もいないだろう。しかし、ソフィアは恐ろしくて幼稚な妄想を振り払えない。きっと、そこにいるのは自分の影法師だから。
誰もいない場所へ行きたい。今は、一人だけで安心できる場所がソフィアは欲しかった。自然と足は宿舎の中庭に向いていた。暗くなり始める夕方には、ほとんど人がいない場所だ。
中庭の中央には、ポリエステルで作られた、イミテーションの常緑樹が一本だけ植えられている。葉を茂らせて大きな影を作る、その木の名前をソフィアは知らない。円形の石造りの腰かけが、木を囲んで備えつけられていて、そこに腰を落ち着けた。
薄暗い誰もいない場所で足を休めると、安堵したせいか小さな体から大きな息が出た。今日はもうこのまま、ここで適当に時間を潰そう。どうせどこに行っても、試験勉強をしている人しかいない。
「おや、先客がいたんですね」
「あ、ソフィーじゃん。こんにちは」
声をかけられてびくりとする。目の前には男女の二人組がいた。
少し癖のある黒髪に、吸いこまれそうな緑色の瞳が印象的な、背筋が綺麗に伸びた利発そうな少年。肩までかかるブルネットの髪をした、凛々しさと愛嬌が同居した顔をしている、すらりとした長身痩躯の少女。
どちらも知っている顔だ。成績首位の優等生のビブルと、トレスの友達の一人のチア。二人は交際しているらしい。そしてソフィアはどちらも苦手なタイプの人間だ。
「君も休憩ですか?」
ビブルが訊いてくる。めったに口を利かない相手だというのに、自然体だ。
「うん……そんな感じ……」
休んでいたのは本当だ。ただ、相手は試験勉強の息抜きだと思っているのだろう。嘘を吐いているとばれてしまわないか、ソフィアは不安になる。頭の良い相手と話すのは緊張する。自分の頭の悪さが際立つようだし、特に彼の緑色の瞳は、すべてを見透かすようで嫌いだった。
「アタシとブルーも一緒に休んでいい、ソフィー?」
チアに訊かれる。一人でいたかったが、断る上手い理由が思いつかない。しどろもどろに「どうぞ」と答えてしまった。ありがと、と彼女はビブルと一緒にソフィアの隣へ腰かける。ほんの少しだけ、気づかれない程度に相手から距離を取った。
チアはパーソナルスペースが狭い。簡単に他人の領域に這入りこんで、持ち前の明るさで打ち解けてしまう。相手との距離感を察する勘もよく、決して嫌な思いにはさせない。だから友達が多く、誰とでも仲が良い。ソフィアも彼女の距離感は不快ではない。けれど、明朗闊達な相手と一緒にいると、自分の底の浅さが照らしだされるようで嫌いだった。
「いやぁ、しっかし、適性試験とかマジ面倒だよね」
両足を投げだしながら、空を仰いでチアが言った。ソフィアはどきりとする。もしかして、彼女も自分と同じように、試験に意味を見出せていないのかと、淡い期待が芽生えるのを感じた。
ビブルが道理を言い聞かせるようにチアを諭す。
「面倒だなんて言ってられませんよ、将来を決める重要な試験なんですから」
「もちろん頑張るよ? それなりにだけど。天才のブルーと一緒に働ける仕事とか、アタシには無理だし、そこそこを目指す感じで」
ビブルの言葉に屈託なく笑いながら応じるチアの表情を見て、期待の芽が心の中ですぐさま枯れる。彼女の顔は、しっかりと描いている未来像があることを物語っていた。
何だ、やっぱり違う――落胆で黄昏の暗さが色濃くなる。結局、チアも将来の夢を持っている人間の一人だ。心の中心に、孔の空いた自分とは違う。どうやって他の人たちは、この虚を埋めているのだろう。それとも、最初から満ちているのが普通なのだろうか。この世界で自分だけがおかしいのだろうか。
僕はしっかりと頑張りますよ、とビブルが言う。
「卒業後にやりたいこともありますし」
「それ前から言ってるよね。絶対に教えてくれないけど。ねぇ、ソフィー、酷いと思わない? 恋人に隠しごとしてるんだよ、こいつ」
「え? その……えっと……」
急に馴れ馴れしく話を振られて、ソフィアは困惑する。ビブルのことは全然知らない。二人がどんなつき合い方をしているのかも解らないのに、どんな答えを返せばいいのだろう。大体、自分のことすら微塵も理解できていないのに、他人についてとやかく言えるわけがない。言葉を探しているうちに、焦りで冷や汗が出てきた。何だかそれが情けなくなり、考えているふりをして、顔を隠そうと少し俯いた。
返答に悩んでいると、ビブルが溜息を吐く。
「君はまたそうやって他人をダシにしようとして。すみません、ソフィア。彼女、最近はいつもこうやって僕の夢を聞きだそうとするんです」
申し訳なさそうにビブルが苦笑した。その謝罪に、言外に別の意味が込められていることにソフィアは気づく。これは、自分を困らせたことに対しての謝罪だ。
見透かされていた。
かっと顔が赤くなるのを感じる。何もない自分を気取られたのが、恥ずかしくて仕方なかった。
取り繕おうとして、声が震えないように言葉を絞りだす。
「ううん、別にチアの気持ちも、何となくわかるし」
嘘だ。けれども微笑いながら、誤魔化したかった。
だよねー、と同意を得られたチアが嬉しそうにする。
「好きな人の夢とか知りたいのは当たり前なんだから」
「言いませんからね絶対に」
にやつきながら横目に見てくる恋人を、ビブルは一言で撥ねつけた。
そう言えば、とビブルは話題を変えようとソフィアに訊いてくる。
「ソフィアはどんな進路を希望していますか?」
虚を衝かれる質問だった。そんなものあるわけがない。人間は、誰もが将来について必ず考えなければいけないのだろうか。夢があって当然のようなビブルの口振りに、ソフィアは苛立ちを覚える。
「将来の夢って……ないといけないの?」
こちらの言葉に、相手は不思議そうな顔をする。その不理解がすべてを物語っていた。
「夢が、持てない人間だっている……一緒にしないで」
口にしてすぐにソフィアは後悔する。嫌な言い方をしてしまった。普通はおかしいのは自分のほうだ。相手に理解も求めないで、拒絶の態度だけを取るだなんて、最低だ。
ソフィアの気持ちとは裏腹に、なるほど、とビブルは口にした。
「僕は学生奴隷という立場で、定められた範囲で決めた夢に満足してました。しかし、ソフィアはそうではないんですね。目から鱗、というのは、こういうことなんでしょうか……すみません、考えの浅い質問をしてしまいました」
ソフィアは混乱する。相手は何に納得して、何を謝っているのだろう。こちらの混乱をよそに、相手は勝手に得心がいったように言葉を続ける。
「何だかそれは――少し、羨ましい」
彼は誰のことを話しているのだろうか。今やソフィアは混乱の極みだった。何にも満足できない自分を羨んでいる? 相手の言葉の意味を汲み取れない。何でそんな考え方ができるのだろう。
あぁ、とソフィアは納得する。そして同時に諦める。きっと、それが欠落感のない人間なのだ。自分には絶対に辿り着けない場所で行われる相互理解だ。
じわりと、心の孔が広がった気がした。