幕間Ⅲ:不自由なアヒルたち
レーム・ダッカーは、我が世の春の到来を確信していた。
今夜を以て、ルクスリアの二大都市の片翼は大きな変革を迎える。不遜にも、しき様の次席に座り続けていた小娘がいなくなり、ようやく正しい資格を持つ者が座するようになるのだ。
今宵、息子のリンプは偉大な業績を残す。長年の政敵であったベリカ・フィロを籠絡するのに成功し、ダッカー家主催の会食の機会を取りつけたのだ。
無論、ただの会食ではない。会場もスタッフも、すべてにダッカー家の息がかかっている。ベリカは、自らが虎口に足を踏み入れたとも気づいていないだろう。国宝級の〈闘争〉の持ち主とはいえ、所詮ベリカも人間だったのだ。自分の血を色濃く受け継ぎ、若い頃の自分によく似た、愛らしくも妖しい色気をまとう紅顔の我が息子。その魅力に逆らえなかったに違いない。なんと愚かな女なのか。だが、今はその愚かさこそ祝福したい。
会食中に起きたあらゆる出来事は、ダッカー家の掌の上から外に出ることはない。ベリカがいかに不審な死を遂げたとしても、それは必ず〝不幸な事故死〟になるのだ。
レームは今日という日を祝うために、娼婦や男娼を呼び寄せてベッドで侍らせていた。己の格に相応しい祝宴として酒と肴を饗し、自由に飲み食いさせている。馥郁な香りの葡萄酒、深みのある樽香を舌の上で転がして楽しめる蒸留酒など、多種多様な高級酒の栓を開け、さらにはハイグレードの〈料理〉の保有者に作らせたオードブルを取りそろえ、〈芸術〉のカービングアーティストにカットさせた果物で場を彩っていた。それらを惜しみなく振る舞いながら、見目麗しい男や女に給仕させつつ、様々な奉仕をさせて享楽に浸っている。
リンプの計画では、そろそろすべてが終わる時間だ。
レームは深く濃く暗い紅を湛えた葡萄酒のグラスを、満面の笑みで掲げる。おぉ、息子よ。今頃お前も、このワインのような血を流す小娘を見下ろし、杯を掲げていることだろう。
「新たな時代の幕開けに――」
乾杯、と口にした瞬間、世界が闇に包まれた。
突然のことにレームは体を強張らせる。何が起きたのか理解するのに数秒かかり、屋敷のシステムからのアラートで、ようやく停電したのだと気づくと、舌打ちした。まさかこんなタイミングで水を差されるとは。使用人たちにどんな不手際があったか知らないが、まぁいい。今日は記念すべき日だ、すぐに復旧させれば大目に見てやろう。
レームはホストに相応しい態度で、暗闇の中にいるゲストたちに呼びかける。
「すまないな、停電のようだ。復旧まで少し待ってくれ」
普段ならば烈火のごとく怒り狂って使用人を折檻していたところだが、大願成就の前に高揚したレームは、心に余裕があった。鷹揚な己の器の大きさに自己陶酔しつつ、暗闇の中でワインを口にする。ふむ、視覚のないところで愉しむ酒というのも乙なものだ。今はこの偶然を味わうことにしよう。
しかし、いつまで経っても光は戻ってこなかった。
痺れを切らしたレームは、執事に回線を繋いで怒鳴りつけた。
「何をしている! 電気を戻すのにどれだけ手間取っているんだ!」
屋敷の電気系統は冗長化されており、商用電源が途絶えても無停電電源装置と非常用発電機が存在している。屋敷のシステムに指示を出せば、ものの数秒で復旧できるのを、何をもたついているのか。
「……おい?」
そこでレームは違和感に気づいた。執事に繋いだ回線は開いているのに、こちらの叱責に反応すらしない。ややあって、向こう側で呻くように執事が言う。
〝レーム様……お逃げを……〟
すると、部屋にいた娼婦や男娼が暗闇の中で小さく悲鳴を上げ始めた。何事かと思い、驚きのあまり、レームは手にしていたワイングラスを手から落とした。びしゃりとベッドを湿らせる音がし、ワインの香りが広がる。
次の瞬間、レームは後頭部を何者かに押さえつけられ、ワインで濡れたシーツに顔を埋めさせられていた。腕を乱暴に背中側にひねり上げられ、やっと自分が何者かに襲われていると理解し、痛みと恐怖から声にならない叫びを上げる。後ろ手に回された手首が堅い紐状のもので結ばれ、肉に食いこむほど締めつけられ、あっという間にレームは自由を奪われた。
「拘束完了」
短く言った襲撃者の声は、まだ若さの残る少年のようだった。しかし、その声音はぞっとするほど冷徹だ。感情を完全に排して、自分の役割に徹している。この若さで、どんな経験を積んできたのか、レームには想像もつかなかった。
そのまま襲撃者に襟首を掴まれ、レームはベッドから引きずり落とされる。同時に、部屋に明かりが戻ってきた。しばらくぶりの光にレームは目を細める。
眩しさに目が慣れると、室内には顔を覆面で隠し、全身を火器と防具で固めた男たちがいた。全員、黒ずくめで特殊部隊並みの装備を身につけており、明らかにプロの人間だ。部屋にいた娼婦や男娼は、あの短い時間で全員レームと同じように拘束され、床に転がされている。ダッカー家の屋敷のシステムの制御を奪い、迅速にここまでやってきた練度を考えると、ルクスリアの軍属以外には考えられない。
レームはどうにか言葉を絞りだす。
「……き、貴様らは何者だ。わたしが何者かわかっているのか」
ならば、命令系統的には自分よりも下にいる人間のはずだ。これは何かの手違いに決まっている。そう固く信じて、レームは精一杯の強気の姿勢を見せた。
レームを拘束した襲撃者が、哀れむような蔑みの目を向けたのに彼は気づかなかった。襲撃者はレームの言葉などなかったかのように彼を無視し、再び襟首をつかんで引きずっていく。されるがままのレームは、怯えた哀れっぽい声を上げるしかできなかった。
襲撃者はレームを一人の男の前に荒っぽく投げ出す。両手が使えないレームは、懇願するような姿勢しか取れず、相手を下から見上げる形になった。軍の准将にまで登りつめた自分に何という不敬だ。あまりの屈辱に視線で相手を殺してやりたかった。
レームの前に立つ男は、他の隊員を背後に立たせていた。レームを襲った襲撃者も、役目を終えたのか、男の後ろへ行き待機姿勢を取っていた。
リーダーらしき男は、感情のない機械的に整った発音で呼びかける。
「レーム・ダッカー准将」
そしてなめらかに平板な口調で名乗った。
「我々はPSEUです」
その名を聞いて、レームは一気に血の気が失せるのを感じた。
PSEU――公安執行部隊は、ルクスリアの治安維持のための特殊任務部隊だ。しかし、その名が示す治安維持のための『公安執行』の名に反して、その活動内容は秘匿されている。
レームも噂には聞いたことがあった。精兵が集められ、過酷な訓練を積んだ、ルクスリアで最強の部隊の一つだと。PSEUの任務内容は極秘で、その存在自体、軍の上層部の人間しか知らない非公然部隊だ。一時、レームもこの部隊の実態を掴もうとしたことがあるが、自分の権限ではあらゆる情報の開示が非許可になっていた。
レームがPSEUの正体を知ろうとしたのは、この部隊の編成者であり、指揮権を持つ者が理由だ。そして同時に、この場にPSEUがやってきたことの危険性を、それが物語っている。
そう、PSEUは、ベリカが編成した部隊なのだ。
一部では、PSEUは事実上のベリカの私設部隊であり、様々な工作活動を行っている暗殺部隊とも噂されている。しかし、軍の中で誰がPSEUに属しているのかもわからない以上、声高にその存在を吹聴し、批判するのは危険極まる。だから皆、噂に留めているのだ。
レームは滝のような冷や汗が湧いてきて、顔や脇がどんどんと湿っていくのを感じていた。
まさか、計画がすべてバレていたというのか。
リーダーの男が口を開く。
「あなたは、軍事クーデターを企図した」
それは、疑惑の確認の言葉ですらなく、すでに立証された事実を述べているだけの言葉だった。
ばれている。確定だ。どうする、どうやってこの場を切り抜ける。
「その罪を認めますか」
罪。
そうだ、罪というのならば、自分は何もしていない! レーム・ダッカーは、たまたまここで饗宴を開いていただけだ。この〈官能〉の国で、そこに何の罪があるというのだろうか?
「ち、違う、わたしは何も知らない! 息子だ、きっと息子が分不相応な野心を持ったに違いない!」
息子よ、今はお前を贄にする罪を許せ。だがこの場さえ切り抜けてしまえば、そのあとでどうにかお前を救って見せよう。我々は失敗した。あとはもう他国への亡命しかない。
レームの言葉に、彼を襲撃した若い隊員の一人がうんざりしたように嘆息した。
リーダーの男は淡々と言う。
「残念です。准将が命乞いをして、まだ再起を図ろうとする胆力があるならば、〝事故死〟から助けてやれと言われていたのですが」
リーダーはあらかじめ決められていた分岐に従うように、自然な手つきでハンドガンの撃鉄を起こした。
「ま、待て、本当では――えぇい、たかが小娘の走狗の奴隷どもが、わたしの命を奪うなど、ごうま――」
ぱす、と短い音がして、レームは沈黙した。それ以降、彼が口を開くことはなかった。
リーダーは何事もなかったかのように、レームだったものをまたいで、言った。
「任務完了。撤収する」
*
ルクスリアの環境建築物はドーム型をしているため、自然と建築物は中央部ほど高層になっていく。
それはちょうど森の極相に似ていて、空間に余裕のある場所ほど、光を求める樹木さながらに、高層ビルが建てられていくのだ。そして当然、高所からの展望は特別なものとして扱われ、高貴な身分の人間たちが高級な立地として利用する。
ダッカー家が会食会場に選んだレストランも、そうした高層ビルの中にある一流の店だ。
隣り合うビル群の窓は美しく磨きあげられ、地上の明かりを映しだす鏡のようになっている。個人の趣味嗜好をトラッキングした無粋なAR広告は一切浮かんでおらず、純粋に夜景を楽しめるように徹底された空間だ。
今夜、店は貸し切りにされており、たった二人の客を満足させるためだけに全力が注がれている。だがしかし、残念なことに、客の一人はどうやら食事を楽しめていないようだった。
会食のホストであるリンプ・ダッカーは、別の場所で父親がそうしているのと同じように、滝のような冷や汗を掻いていた。
意気揚々とゲストであるベリカを迎え入れ、完璧にエスコートをしつつ、会食はスタートした。アペリティフで口の滑りを良くし、運ばれてくるコース料理へ順に舌鼓を打ちながら、会話を楽しんでいた。無論、内心ではベリカにもうすぐ死が訪れることにうきうきとしながら。
しかし、予定の時間になっても、ちっとも暗殺は実行されなかった。
計画では、レストランの隣のビルに狙撃手を潜ませており、席についたベリカを狙撃する手筈だ。しかし、実行時間をとっくにすぎて、コースの料理は予定よりも先に進んでしまい、メインディッシュにまで来てしまった。
しかもそのメインディッシュもおかしい。事前のオーダーでは、最上級の牛肉のコンフィが出されるはずが、なぜか運ばれてきたのはアヒルのコンフィだ。
「――どうかされましたが、ダッカー少佐」
切り分けたアヒルを口に運びながらベリカが言った。
「ずいぶんと顔色が悪いようだ」
優雅な黒のマーメイドドレスを着ているベリカは、普段よりも碧眼の色の深さが強調される。そのせいか、すべてを見透かされているような錯覚にリンプは陥っていた。
「い、いえ……なんでもありませんよ」
平静を装おうとするが、手が震えてしまい、ナイフとフォークを上手く扱えず、無様にもかちかちと皿の上で音を鳴らしてしまう。
「そうですか。しかし、ここの食事は素晴らしいですね。今後も、是非通いたい」
対するベリカは少しの音も立てず、完璧な所作で食事を続ける。
そこに、押込通知が視界に表示された。突然の通知にリンプは思わずビクリとする。食事中にもかかわらず届く連絡は、相当の緊急性がない限りマナー違反だ。しかし、不思議なことに視線の動きから察するに、ベリカも同じタイミングで押込通知が届いているようだった。
「失礼、何やら緊急の報せのようだ」
そう断りを入れて、ベリカはメッセージに目を通し始めた。リンプも慌てて、自分に届いたメッセージを開き――そして愕然とした。
「あぁ、何ということだ」
感情のこもっていない声でベリカが言った。
「御父上が〝事故死〟されたとは、お悔やみを」
そしてようやく、リンプはすべてを悟った。計画はすべて露呈しており、どころかこの会食すらもベリカの掌の上にあるのだ。
格が、違う。
それが自然とリンプの心底から湧いてきた言葉だった。
この場で、次の言葉を間違えたら、用意していた狙撃手が打ち抜くのはリンプの額だろう。自然とそんな発想が湧いてきた。何と言うのが正解なのか。どうすれば目の前の女の意に沿えるのか。混乱と恐怖の中で、リンプの思考はショートし、もはや何をすればいいのかも、わからなくなっていった。
そして死にたくない一心で絞り出せたのは『調子を合わせる』という結論だった。
自分はきちんとベリカを満足させる答えを出せただろうか。この結論は正しいのか。自分はきちんと彼女が望む表情を作れているだろうか。内心の感情と表に出すべき感情が歪んでぐちゃぐちゃになっている。
リンプは今の自分が、父の死に対して、どんな顔をしているのかも、わからなかった。
「ち、父の事故死は痛ましい」
リンプの顔は、引きつった泣き笑いだった。




