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エイドスの地  作者: 黒石迩守
第三部 無花果の種子

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28/31

ユカリ

内観の庭園(アル・ヒミア)》に在籍してから、今日までの一年は本当に大変だったとソフィアは思う。


 自分から望んだとはいえ、M/Mの教育は徹底していて、化粧術やファッションコーディネート、美容、立ち居振る舞い、それから広範で深い教養にそれを活かす会話術と社交術、エトセトラ……すべてが当時のソフィアには欠けていた能力で、すべてが一流になるまでM/Mは納得してくれなかった。


 情報空間インフオスフイアでの圧縮教育のおかげで、実時間は一ヶ月程度で済んだが、主観時間では一〇〇〇〇時間は経っている。奴隷学校で真面目に授業を受けなかったことを悔いる日が来るとは思わなかった。


 初めのうちは何度逃げだそうと考えただろうか。しかし、光背ハロウを知りたいという、生まれて初めて持った欲求が、ぎりぎりのところで思いとどまらせた。ここで逃げだしたら、自分は永遠にこの欠落を埋められないという確信。そしてM/Mの「それがアンタの選択なら強制はしないよ」という、無感情なある種の放任主義。それらが組みあわさったあのときの精神状態は多分、ほとんど強迫観念に近かっただろう。自分自身を見放してしまうという恐怖だ。


 だが、それを乗り越えたから『高級娼婦のソフィア』というペルソナを手に入れられた。


 その成果が、高級住宅地のふかふかのベッドで眠る今の朝だ。


 早朝の微睡みの中で、薄ぼんやりとした夢の回想から、ときおり目が覚めそうになる。もう少し惰眠が欲しいという欲望に従って、毛布に包まり枕に顔を埋めた。少しの汗とシャンプーの匂いがする。干したての寝具がお日様の匂いならば、これはお月様の匂いだろうか。取り留めのない思考に身を任せ、うとうとし始める。


〝起床時間です。起きてください〟


 しかし残念なことに惰眠への扉は閉まりきらなかった。コンシェルジュAIが、音声通信で呼びかけてくる。女性人格が設定されていたので、ソフィアはAIをユカリと呼んでいる。名前辞典からランダムに選んだ名前だ。自分の自堕落な性格を学習したせいか、彼女は生活態度に厳しい。


 ソフィアは相手の声が聞こえていないふりをする。


〝寝たふりをしても脳波でわかりますからね〟


 ユカリが呆れたように言う。それでもソフィアは無視する。AIのくせに何でこんな口うるさいのだと思う。毛布にしがみついていると、彼女が溜息を吐くのが聞こえた。すると、急に上体が持ちあがり始めた。枕越しにモーターの駆動音がする。ベッドのリクライニングだ。頭の位置が変わり、窓から降り注ぐ陽光で、真正面から顔が照らされる。


「……まだ、眠い」


 顔を顰めるソフィアに、澄ました声でユカリは答える。


〝昨夜の就寝時間は午前二時で、現在午前九時です。睡眠は十分です〟


 ソフィアはARヴィジョンでリクライニングのリモコンを表示する。『▼』のボタンを押した。背もたれが下がっていく――と思ったら、元の位置に戻ってしまった。


〝睡眠は十分とお伝えしましたが〟


 ユカリの言葉に答えず、欲望に従ってもう一度ボタンを押そうとする。伸ばした腕がボタンを捉える前に、リモコンは消えてしまった。


〝朝食の準備はできています。冷める前にお召しあがりを〟


 ユカリの声は少し怒ったようだった。渋々とベッドから這いでる。機嫌を損ねると、彼女は面倒を見てくれなくなる。オーナーの健康保全のために、AIに仕事放棄の権利が与えられているのだから変な話だ。ありがたみを実感させようという魂胆らしい。


 寝起きの気怠い身体を押してリビングに向かうと、几帳面に盛りつけられた朝食がテーブルに配膳されていた。両面焼きベーコンエッグの皿に、つけ合せのニンジンとタマネギのポテトサラダが載せられている。それからトーストとアプリコットジャム。


 食材は合成品ではなく、すべて天然ものだ。ジャムに至っては市販品ではなく、ユカリが家の調理器クツクウエアで作ったものだ。砂糖は健康によくないからと、代わりに蜂蜜を使っているらしい。ところで蜂ってどんな生き物なんだろう、と益体もなく思う。


 テーブルからベーコンの甘く香ばしい脂、淡白なタマゴとトーストの柔らかい小麦の匂いが漂ってきて、ソフィアの薄い腹から、空腹を訴える音が鳴った。


 ソフィアは食卓につき、もそもそと朝食を口に運び始めた。




〝本日のご予定はどうしますか〟


 朝食を終えて、飲み残したミルクをソフィアが舐めるように飲んでいるとユカリが言った。食洗機が低く唸っている。


「仕事、ぐらい」

()()()ですか?〟

「ちょっと待って……」


 スケジュール表をARヴィジョンに展開する。表示されたカレンダーには、『仕事』や『遊び』、『旅行』などの色分けされたタグがデフォルトで用意されている。ソフィアのカレンダーの予定は一色しかない。


 強調表示されている今日の予定を確認する。三日前から予約して指名を入れている客がいた。常連の女性だ。指定されている内容もいつも通り。人形遊び(ドールプレイ)()()()()()で着せ替えや性交を楽しむコース。


「夜に、BRで指名されてる」

〝BRですか〟


 ユカリは妙に歯切れ悪かった。


「なに……」

〝……以前にBDSM系の顧客を相手にしたとき、パニックを起こしたことを覚えているでしょうか。ソフィアさんは元奴隷だと伺いましたが、何か相談できる奴隷時代のご友人などは……〟


 急にユカリが変なことを言い出したので、ソフィアは思わず眉をひそめた。


 BDSMは『力と支配』傾向の性癖の総称だ。そんな客を相手にした記憶はないし、ましてや客の前でパニックを起こした覚えは微塵もない。それに奴隷時代の友人? 奴隷学校にいた友達と言えば――適正試験で――――最後は独り――――――


 頭が、痛い。


 触れては、駄目。


 罪を。忘れないと。


 不意に体がびくりとした。ジャーキングだ。まだ眠気が残っていたのか、少しうたた寝してしまったようだ。会話中に居眠りだなんて、ユカリにまた小言を言われてしまう。ばれていないだろうか。そう思いつつ、ソフィアは適当に繕った返事をする。


「――ごめん、何か言った?」

〝……いえ、なんでもありません〟


 気のせいか、ユカリの声色には、少し不安が混じっているような気がした。


〝嗜虐思考の顧客は私が弾いていますが、それでもVRでのお仕事のほうが安心だったのにな、と思いました〟


 別にどちらでも変わらないとソフィアは思う。BRとVRは、感覚の入力端子が違うに過ぎない。それは気にするほどのものだろうか。どちらも結果的には同じだろう。


 BRの意識には肉がある。感覚し、現象する肉が。始まった頃からあるものだから、そこに疑問の余地はない。だから意識は純粋に()であることが前提だ。


 意識による認識からすべてが始まる。感じるものがあるから、それを頼りに世界を構築している。だから、世界は肉の檻の中で育つ。自分自身こそが全なのだから、他のものは肉から漏れだした血だ。


 わたしたちは、最初からどこか()()()なんだろうな、とソフィアは思う。だから、血を流し続ける自分の身体の痛みを和らげるために、他の誰かを求める。一緒になっていれば、お互いの傷を塞げる。


 そのとき、世界にやっと血が満ちる。


 しかし、VRの意識は簡単に()を選択できる。さっきまでそこにいたのに、スイッチを弾くように。肉の外の――そもそも肉すらない――意識なのだから、他人と自分の境界はファジーなはずだ。それでも、VRでも自分は自分で、世界は理路整然としている。きっと、BRと同じように肉があるのだろう。


 見えない肉。


 けれどもそれは、入力を受ければ出力している。VRでは意識も情報であるから当たり前だが、それはとても感覚と現象に似ている。


 それに、情報空間インフオスフイアでも官能は官能で、快楽の心地よさは変わらない。肉はないのに、意識だけが情報を受けて処理するというのは、とても不思議だ。感じている実体がどこかにあるはずだが、迷子のようでわからない。たまに、客の相手をしていて達したときに自分と出逢える。あれは、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、どっちがどっちかわからない。けれど、どちらからも確かに見えるものがある。


 光背ハロウ


 とても綺麗な光。


 追い求めても、未だに正体がわからない、あれは何なのだろう。ただ()()()()()()()としかわからない。それは本能から飛躍した直観だ。あれが何なのかを調べようと、色々な手を尽くした。けれども納得できる答えは見つかっていない。


 KUネットで調べると、神や真理や様々な哲学用語の類が、ソフィアの感覚の表象を検索エンジンに入力した結果として出力された。キーワード検索でなく、抽象的な情報から出された答えは、どれも近いようでほど遠い。ピースの形が微妙に違い、永遠に完成しないパズルのようだった。ますますあれが何なのかが知りたくなった。


 ()()()()()()()()()()()()。はっきりしているのはそれだけで、あとは光に埋めつくされている。あの場では、空間の拡がりを感じられたが、身動きが取れなかった。いや、取れないのではなく、取る気が起きない。目の前にいる彼女わたしから目を逸らせない。鏡像のような虚像でもなく、はっきりとした存在感のある彼女わたし


 他にも確かに彼女わたし以外の何かが存在しているが、それは認識できない。だから正しくは、あるのは光ではなく空白なのだろう。彼女わたしだけの場所。それでもあの場は、すべてが肯定されていて、生も死も含意した自己を認められる。


 肉を感じないVRでもない。少なくとも感覚があり、けれども物質からも精神からも解放されている。


 ()()()()()


 ()()()()()だけの、()()()()だけの、彼女わたしだけに取って置かれたところ。


 物質という肉と精神という骨を残さず削ぎ落とした、最後に残った純粋なものだけが、あそこにはある。感覚すべき主体――物理的な、心理的な意味での――が存在していないことは自覚的に自明なのに、それでも感じる。


 その()()()()()()()()()を、ソフィアは言語化する術を持っていなかった。


 だから、彼女わたし以外のすべてが空白の光で埋め尽くされたさまが、まるで光を背負っているようだったから、光背ハロウと呼んだ。


 そう呼ぶに相応しい尊いものに感じた。


〝ソフィアさん、どうかされましたか?〟


 はっとする。ユカリの言葉で我に返った。


「ちょっと、ぼうっとしてただけ」


 光背ハロウのことを考えると、つい周りが見えなくなる。初めて見たときから、気になって仕方がない。少しの間とはいえ、欠落感が埋まるからだろう。きっと、光背ハロウは自分の心に空いた孔を塞ぐ断片なのだ。だから、何があっても正体を突き止めたい。


 そうだ、と思いだす。


「ユカリ、仕事の前に予定できた。でかける」

〝どちらに?〟


 ソフィアはコップのミルクを飲みほした。


「娯楽屋街」

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