隷属
イフルズが目を醒まして一番最初に知覚したのは、自分を象る人肉だった。肉体の牢獄。虜囚の身となっている意識。ただただ煩わしくて恨めしい。
ぼんやりとした微睡の中から、意識がくっきりと現実に浮かびあがる。瞳に映ったのはどこかの部屋の天井。数瞬遅れて、視覚が捉えたものを理解しきれずに、身体を起こす――横になっていた? 戦場のド真ん中で、イフルズという個人がそれを行うのはありえない。
記憶に無い部屋だった。カーテンの隙間から太陽光が差しこんでおり、灯りは点いていないが室内をぼんやりと見渡せた。随分と奥行きがあり、自分がいるのはベッドルームで向こうにはリビングがあるとわかる。続き部屋。調度品も整えられており、明らかにあの戦場の中では異質な空間だ。
ベッドから出ようとすると、手を突いたマットレスの余りの柔らかさに体勢を崩してしまった。その時、ようやくイフルズは自分の身体のどこにも怪我がないと気がついた。それどころか戦闘服すら着ておらず、なぜか今は下着だけを身につけている半裸状態だ。できる限り自分の身体を確認してみたが、かすり傷一つなく、例の首輪もなくなっていた。
何が起こったのかわからないまま、イフルズはベッドに腰を落とす。困惑の中から記憶の連続性の復旧に努めていると、その努力は直ぐに実った。押込通知。確かに届いたはずだ、一方的に試験終了を告げてきた、あの胸糞悪い文面が。
思い出してショートメッセージの内容を確認しようする。しかし何故かVR意識が混濁しているようで自覚できない。上手くメッセージを探せなかった。VRPDのせいだろうか、脳――中央処理器官がまだVR意識を覚醒しきっていないのか。それとも、あの戦場は胡蝶が見ていた長い永い悪夢だったのだろうか――違う。その可能性だけは即断できた。
自分は紛れもない現実で殺戮を行ったのだ。
がちゃり、とリビングの方から扉の開く音がした。反射的に警戒して、イフルズはベッドルームとリビングの間仕切りに身を隠す。仄暗かった部屋に灯りが点いて、カーテンが自動で開いて窓から太陽光を採りこんだ。スイッチの音が聞こえなかったので、この部屋のシステムに対して命令を出したのだろう。
眩しさに目を細めながらも、イフルズは部屋に入って来た相手へ神経を集中させる。異様なほどに一定のリズムを保つ足音を立てながら近づいて来る。
相手の不意は衝けるだろうか。情報を引きだすために拘束するべきか、それとも殺すべきか。VR意識は人事不省のありさまだというのに、BR意識は戦場からの延長線のまま、まっすぐとやたらと綺麗に働く。様々な可能性を考えていると、足音はベッドルームの手前で止まった。
「識別子IFLS-ALT4S、そこから出てこい。どちらにしろこちらからは丸見えだ」
相手の声は機械的で、命令口調だったのもあるが、それこそ機械染みて正確な発音だった。
「もう一度言う。そこから出てこい。従わない場合、強制する」
その物言いに反して、威圧的な感じは孕んでおらず、事実を述べているだけのような口調。相手はこちらの素性も知っている上に、この部屋のシステムを掌握しているらしい。不可解な状況と断定的な相手に、イフルズは逡巡のあとに両手を上げて間仕切りから身を出した。
相手は窮屈そうなまでにネクタイをきっちりと締め、目に痛いほどの真紅の上着に、赤いサイドラインが入った黒のスラックスに半長靴を履いていた。ルクスリアの軍服だ。片脇にはフィルムで包装された何かと一緒に、蓋のついた箱を抱えている。
相手の恰好は、イフルズにはどこか強迫観念的に形を整えたもののように見えた。
「私の名前は識別子ALEX-THYMO。軍備奴隷だ。階級は中佐。一般生活的な名称はアレックスと呼称しろ」
アレックスは背が高く、吊り目がちの細く黒い瞳からは感情を読み取れない。短く切り整えられた黒髪と綺麗に当てた髭のせいで、年齢は今一つわからなかった。ただ無表情な顔と機械的な口調に、異様に整えられた身嗜みから神経質さだけが感じ取れた。それとも相手はただ空白なだけだろうか――イフルズがそう考えていると、アレックスが脇に抱えていたものを、テーブルの上に置いた。
「三分でそれに着替えろ」
テーブルに置かれたものは、新品の肌着とワイシャツにスラックス――アレックスが着ているものと同じものだ。
相手はARヴィジョンに残り時間を表示させると、そのまま計測を開始した。
「は? ちょっと待てよ、意味が」
「あと二分五四秒だ」
当惑するイフルズに、アレックスは取りつく島も無い態度でそれだけ答えた。不承不承にイフルズは着替え始める。
服と一緒にテーブルに置かれた箱の中には、半長靴とベルト、それからネクタイが入っていた。これもアレックスが身につけているものと同じだ。慣れない服に手間取って、中途半端に着込んだまま半長靴の編み上げ紐を結ぶのに苦戦していると、アレックスが踵を返した。
「三分だ。ついて来い」
そのままこちらを見向きもせずに、アレックスは一切乱れのない歩幅で部屋を出た。状況に流されるまま、慌ててネクタイを片手に持ってあとを追う。ちょっと待て、こいつに従う必要があるのか? イフルズはそんな自問をしつつ、把握しきれていない状況を掴むために、とりあえず足早に先を行く相手の背を追うことにした。
部屋を出た廊下は広く長い上に、内装が木造りだった。一瞬、扉を潜って旧文明の時代に時間跳躍でもしたのかと幼稚な考えが頭を過る。
環境建築物では限りのある資源である木材を、ふんだんに使った建造物など、時代錯誤な上に高価すぎだ。確かめる術はないが、すべて本物の木なのだろう。木の匂いは知っている。奴隷学校の診療所で患者をリラックスさせるために、合成香料が使われていた。嗅いだことのある木の香りだ。
全体の調和を取るためか、等間隔にミニシャンデリアのイミテーションが天井から吊りさげられていた。人工光よりも目に慣れて刺激の少ない調整日光が辺りを照らしている。照明など埋めこんでしまえばいいのに、手間をかけた灯りは権力の威光のようだった。
床に敷かれているカーペットですら金がかかっている。少しの隙間も継ぎ目も見当たらない。おそらく廊下の形に合わせて、合成繊維を丸ごと一枚をプリントアウトしたのだろう。踏みだした足に伝わった感触が、奇妙な柔らかさだ。
無闇に金のかかった内装に、どこかの特別な行政機関の宿泊施設だろうかと、開いた口を塞げないままイフルズは見当をつけた。だが、それにしてはどこにも案内のAR表示が見当たらない。そもそも、そんな場所に自分がいる理由が理解できなかった。
「……ここはどこだ」
「私がそれに答える義務はない」
駄目元で訊いてみた問いの返答は、何となく予想していた通り、素っ気ないものだった。
あの戦場から、どこかに自分の身柄が移送されたのはもう間違いない。ならば少なくとも――目の前の男が軍人というのも含めて――ここは国の管理している施設なのは確かだ。こいつらのせいでイフルズの友人は全員死んだも同然だ。ならば唯々諾々と従う理由がどこにあるのだろうか。目の前に隙だらけの男を尋問した方がいいのでは――イフルズは昏い目でアレックスの背を見つめる。
手に持つネクタイの長さをさり気無く確認していると、相手が前を向いたまま言った。
「反抗は自由だ。貴様の資質の観点から、ベリカ様もそれは許している。だが、その場合、お前に供与された種々の権利は剥奪される」
イフルズは瞠目する。即座に辺りを見回した。〈目〉はそこら中にあるということか。しかし、それらしきものは一切は見つけられない。当然か、前時代的な光学的カメラを使っているわけもない。CEMを用いた神経経路網で建物全体を自己組織化した監視システム辺りが妥当だろう。
行動を読まれていたことに動揺しながらも、イフルズは相手に訊き返した。
「何だ、その権利っていうのは」
「私がそれに答える義務はない」
「なら何で言った」
「私がそれに答える義務はない」
訊きたいことだらけで、もう何回か質問をしようかとイフルズは思った。もしかしたら、一つくらいは、まともな回答が得られるかも知れない。しかし、先行する男が歩きながら喋っても、歩調も身体の重心も全くぶれないのを見て、イフルズは舌打ちをして渋々と口を閉じた。
しばらく歩いていると、アレックスは大きな両開きの扉の前で立ち止まった。ただの扉ではなく、これも木製で鏡板が嵌めこまれていて随分と手が込んでいる。この建築物の余りの成金染みた造りに、イフルズは呆れを通り越して、よくもここまで造ったものだと閉口した。
アレックスが、扉をノックする。
「ベリカ様、識別子IFLS-ALT4Sを連れて参りました」
相変わらずの機械的発音のあとに「入れ」と中から短い返事がした。
「失礼します」
アレックスが開いた扉の前に立ち、無言で室内に向けて顎を遣った。中に入れということらしい。黙ってそれに従うと、アレックスはその場でお手本のような一礼をしてから部屋を出て行った。
室内には、奴隷学校で使っていたのと似たような制御椅子が左隅に一脚あり、そこから伸びた配線が壁一面を覆うサーバマシンらしいものに繋がっている。冷却用の装置が内臓されているのか、ひやりとした空気が漂ってくる。KUネット上に直接置きたくないデータでもあるのか、イフルズは稼働しているサーバマシンの実物を初めて見た。オフラインの物理ストレージなど、軍から禁制品指定されていて、一般人なら一生縁のない代物だ。
部屋の中央には一本足の丸型テーブルが置かれており、椅子が二脚あった。どちらも木製で、テーブルの脚には凝った彫刻が施されている。片方の椅子には、軍服を着た女が座っており、その傍にはエプロンドレスを来た女中らしき女が立っていた。
「まずは適性試験の合格を祝ってやろう。貴様からは初見となるな、イフルズ。そこにかけるといい」
部屋に残されたイフルズに声をかけたのは、この部屋の主と思われる軍服を着た、鷹のような女だった。長く伸ばした金髪に碧眼。軍服の上からでも、普通の男にも負けないぐらいに鍛えているだろう骨格の良さがわかる。間違いなく彼女が、アレックスが呼んでいた『ベリカ様』なのだろう。
階級章は、見間違えでなければ少将――少将だと? 国の指導者層の人間だ。それがなぜ自分を呼びだしたのか。意味不明な出来事の連続で、イフルズは混乱したまま、言われた通り相手の対面に座った。木製の椅子は異様に硬く感じて、据わりが悪い。
さて、とベリカはテーブルの上で指を組んだ。
「貴様が置かれている状況を簡単に説明してやろう。貴様は適性試験に合格し、学生奴隷から正式な奴隷となり、そして私の所有物となった」
「……所有物?」
「言葉通りだ。貴様は私が買った。通常、適性試験に合格した奴隷は記憶の洗浄を行う。心的外傷後ストレス障害にでもなって奴隷として使い物にならなくなっては困るからな。しかし、貴様は特別にその措置を施さなかった」
「……どういう意味だ」
ベリカは不敵な色を顔に出して少し微笑った。
「適性試験の中で、私は最初は貴様など眼中になかった。だが試験の終盤、貴様が目についてな。衝動買いだ」
「ふざけて、いるのか……」
「ふざける? 何を言っている、おふざけで奴隷を買ったりするものか」
ベリカは頬杖を付いた。その碧色の瞳でイフルズを観賞するように眺めてくる。底が知れない深い水底に通じているような眼は、まるで旧文明に存在していたという海のようで気味が悪い。その奥に何があるのか全くわからない。
ベリカはそれが当然の権利であるかのように、イフルズの頤に手を伸ばした。
「いいかイフルズ。ある程度まで成熟した文明で生活する人間には選択肢が生まれる。社会がテクノロジーにより人の手を離れて完璧に自律機能し、そこに属する者が社会貢献の必要性を失うことにより生まれる余暇だ。人類は生物としての野性をすでに克服し、残ったものをすべて注ぎこむ場所を探している最中だ。知性と感性の到達点を模索する余裕がある。それが選択という形で自由を得ている。そういう点で、この国は現存する序列国家の中で、最も選択肢が与えられている場所だろう」
「何が言いたい」
「この国において、奴隷は社会インフラのテクノロジーの一つに過ぎない。だが、さっきも言ったように貴様は特別だ」
ベリカはイフルズの下顎をくすぐるように指を滑らせると、隣に控えていた女中に対して手振りで何かの合図を送った。すると、ごとりと、女中はテーブルの上に何かを置いた。
「貴様には選択肢を与えてやる」
それはイフルズには戦場で見慣れたもの――ハンドガンだった。
「その銃には、一発だけ弾丸が込められている。貴様ならわかるはずだ、選べ」
武器の使い道は一つしかない。誰かの命を奪うか守るか、いずれにしろ誰かを殺すための道具だ。それが、今この場――奴隷という立場であるイフルズに渡された意味。生き方の選択。社会という巨大なシステムを前にして、その中でどう機能すべきかを迫られている。ベリカは選べと言った。それは、この銃で誰の命を奪うか奪わないかをだ。
イフルズは銃を手に持つ。あの戦場と変わらない重さだ。肉にまとわりついている重さを、イフルズは軽くしないと我慢ならない。一生囚われるだろうこの牢獄の中で、名前すら知らないその感情を満足する方法は、選択肢は――限られている。
ベリカの眉間を撃ち抜いた。
断末魔もなくベリカの身体から力が抜けて、一度頭を強かにテーブルに打ちつけると、その反動でそのまま床に倒れた。頭からゆっくりと血が流れ出して、カーペットが吸いこみ始める。すぐに血を吸えなくなったカーペットは、観念したように血溜りを作り始めた。
試しに、ベリカの隣に居た女中に向けて引き金を引いてみたが、がちん、と鈍い金属音が鳴っただけだった。どうやら本当に弾丸は一発だけだったようだ。仕方がない、首の骨でも折って殺して、さっさとここから逃げよう。そうイフルズが椅子から立ちあがろうとすると、
「――ふっ、ふふふっ」
突然、目の前の女中が笑い始めた。恐怖で頭がおかしくなってしまったのだろうか? そう思っていると、女中は予想外の言葉を吐いた。
「素晴らしい。素晴らしいぞ、イフルズ。やはり貴様は私の同類だ、奴隷なのが実に惜しいぐらいだ」
いつの間にか、女中が立っていた場所にはベリカが立っていた。イフルズは瞠目して床に目をやると、そこには頭から血を流して死んでいる女中がいた。その顔には恐怖が刻みこまれている。
「なに、そんなに大した仕掛けではない。ARヴィジョンだ。上から被せて初めからその女中と私は入れ替わっていただけだ。あぁ、その女中は奴隷の死刑囚だから殺したことを気にする必要はないぞ――いや、元々気にしてなどいなかったか?」
ベリカは悠然と歩いて、隣に死体が転がっている椅子に腰を落ち着けた。
「貴様、VRPDらしいな。アルト氏症候群、だったか。こんな単純なARヴィジョンによる偽装も見抜けないとは……やはり悪化しているという検査結果は確かだったようだな、貴様のそれは。VR意識がまともに働いていないだろう。この時代にそれでは少々問題があるな。今度、AIアシスタントを用意させよう」
アルト氏症候群が悪化している? だからVR意識に靄がかかったようで、知覚できないのか。だとしたら何が原因で? イフルズは自分の肉体に対する疑問が一気に湧いてきたが、いや、それよりも、と思考を切り替える。今、最も自分が取るべきと思う行動を取った。
手の中で銃を回転させて銃身を握りながら、椅子から立ちあがった。銃把をベリカの頭目がけて振りおろす。だが、イフルズの意に反して、なぜか腕はベリカの頭の直前で止まってしまった。
ベリカは鷹揚とした態度で、自分の頭に向けられた銃をつつく。
「人の話を聞いていなかったのか、イフルズ? 貴様のVR意識はまともに働いていない。つまり、基幹入出力器官を乗っ取るのも容易だ」
体が拘束されているような感覚もなく、自らの意思で止めてしまったかのようにイフルズの腕はぴくりともしない。筋肉に力を込めようとしているのに、パントマイムをやらされているかのように、そこから姿勢を変えられなかった。
基幹入出力器官は『精神の脳幹』とも呼ばれるARMの器官の一つだ。それを支配されるのは、VRどころかBRも掌握されているに等しい。
「座れ」
ベリカに一言そう命じられると、イフルズの体はその通りに腰を下ろした。ベリカは自分の足元に転がる死体を眺めながら、満足そうに言う。
「迷うことなく私を殺したな。貴様ならそうすると思っていた。自らの生を全うするための選択としては、至極当然だ」
ベリカは視線をイフルズに戻して続ける。
「貴様はあの適性試験の中で、自らの生を獲得するために行動していた。最初はそれに迷い、戸惑い、動きがぎこちなかったが、終盤は素晴らしかったぞ。友人が全員死ぬことで、余計なものがすべて刮ぎ落とされたようだな。自らの命だけしか残っていないという極限状態で、それでもなお生きることを選択した。貴様の友人の一人は賢いようだったが、それができなかった。まぁ、死んで当然だな」
ビブルのことか――かっと頭に血が上るような感覚が生まれる。だがその怒りに対してイフルズの体はぴくりとも反応しない。心が肉体から切り離されてしまったかのようだ。
「貴様は正しい。生物というのは、その発生からして、すでに他の命を奪うようにできている。生存するために、あらゆる手段を用いて自らの命を守る。それは生物である限りは必ず組みこまれている機能であり、形相の一つだ。生命史により連綿と続けられてきたDNAプログラミングの結果で、そこに生物としての等級は無関係だ。純粋に生物としての仕組みであり、形而上でそう構築されている」
生物であるならば、必ず他の生物の命を奪う。ベリカはそう言っている。それは生態系の食物連鎖についての学術的事実ではなく、もっと深淵に近い観念のようにイフルズには感じられた。『生物』のパラダイムとしてではなく、枠組みとして抗えないものとして語っている。
「だが、ヒトにまで複雑化した生物は、その知性を以て、それに名前を与えている。そしてそれの達成は、本能という言葉では収まらない唯心的衝動として現れるがゆえに、欲求として満たされる一種の〈官能〉に通じている。生物として進化するために獲得した、最も純粋な機能のうちの一つだ。イフルズ、貴様はあの戦場で自らの感情に困惑し、未だにその正体を掴めていないだろう?」
ベリカが言っているのは、まとわりつくこの重さだろうか。もしかして――とイフルズは、その正体に気がつく。同時に心が掻き乱されるような焦燥感が生まれる。そんなことを認めるわけにはいかない。いや、認めたくないというのが正しい。
やめろ。
イフルズはすでに解答に辿り着いている。だが、口にさえ出さなければまだ間にあう。あの戦場での殺戮の理由に名前など要らない。友人を、恋人を、全てを失くしてなお、おめおめと生きている理由が利己的なものになってしまう。生きる理由を失ったはずなのに、それがすり替わっていたことなど知りたくない。だからこそ、ベリカがゆっくりと口を開くのを必死で制止しようとするが、身体はまったく動かせない。
やめてくれ!!
そう絶叫したいが無慈悲にベリカの言葉はイフルズに届いた。
「お前のその感情の名前を教えてやろう――それは〈闘争〉だ」
――あぁ、これは呪いだ。
たった今、はっきりとイフルズは呪われた。
逃避することでわずかに残していた人間性が、すべて言の葉という水で浚われたように、呪文がイフルズの底に現れる。
これは呪詛だ。自らの中で曖昧だった原理主義的感情が、一つの形で固着した。そしてそれは十分に納得できるものだ。だからこそ、もう逃げられない。自分の中には〈闘争〉が根づいている。もう大分前から命を奪うことに躊躇いがなくなっている。自己保身のために手段を選ばない判断力が生まれている。死ぬまで生きるために、あらゆる手段を取るだろう。だからこの肉の重みからは一生逃れられない。
誰かを護りたいという願いのために、まず自分が生きなければならないと、手段と目的がぐちゃぐちゃになっている。
「お前はあの戦場で、殺すことを選択した。だからここにいる」
愉快そうに、うっとりとした表情でベリカはイフルズの顔を舐めるように見る。イフルズはただ、悔いることもできず――悔いるという感情がそこに生まれる余地が一切ない――悔しそうに表情を歪めるだけだった。
「……何で」
気がつくと、身体の自由は戻っていた。呟けた自分の言葉を、噛み締めるようにしてイフルズは訊く。
「何で、お前はオレを買った」
ベリカは、ふぅむ、と面白そうにする。
「結論から言うと」
平静な調子でベリカは言った。
「しき様がルクスリアを滅ぼす可能性がある。それを防ぐのを手伝え」
相手の言葉を聞き間違えたのかとイフルズは思った。怪訝そうにする彼を無視して、ベリカは続ける。
「この国の現在の根であるソニア様は、老齢からもう先が長くない。逝去されたならば、〈官能〉の概念であるしき様が新たな根を選ぶことになる。だがそれは常に〈性交〉の官能の等級を持つ者でな」
概念の根。それは序列国家ならば必ずいる、その国を最も体現しているとされている人間。
「その理由は、この国の、我がフィロ家の様な貴族には、伝承として伝わっている。しき様は、あるものを求めて身を隠したのだと」
「何だよ……それは」
「さぁな。〈種子〉と呼ばれているが、詳しくはわからん。少なくとも、しき様にとって国家運営は必須でない可能性が高い。ならば、〈種子〉を手に入れたら、不要になったルクスリアを、しき様は捨てるだろう。概念のいない国など、あっという間に他国に侵略される。それは絶対に容認できない」
「それが、しき様がルクスリアを滅ぼす可能性がある、という意味か」
ベリカは首肯した。
とても信じられる話ではない。ただの妄想か陰謀論の様相だ。国家が根本から覆る可能性が、自分が生まれる前から秘められていたなど、鵜呑みにできない。問題は主張している相手だ。ベリカ・フィロ。この国の指導者層の人間。最高権力者のうちの一人。
これは心の分水嶺だ。
信じるか、疑うか。そういう単純な図式の話だ。自分の力が求められている。そんなとき、イフルズという人間が出す答えは常に一つだった。誰かを助けたい。その信念に従って生きてきた。だが今は、あの戦場での体験が、自己言及している。
――本当に自分は誰かを助けることができるのか?
イフルズは目を瞑る。闇の中で、自分自身の姿を探した。しかし、そんなものは都合よく見つからない。当然だ、理想は探すのではなく追い求めるものなのだから。
どうせ自分にはもう、何もない。
ここにいるのは、理想の炎に己をくべて、灰燼に帰した残骸だ。だから、誰かに求められることに素直になれず、反発してしまう。自分自身が燃え差しに価値を見出せないからだ。だが、残骸の中には、いまだに種火が残っている。
自分の中に熾火の明りを見た気がして、目を開いた。
結局、そう簡単に自分を変えることはできない。ならば、誰かの期待に応えようとするのが、現実で結ばれるイフルズという人間像だ。
「……条件がある」
「言ってみろ」
イフルズは顔を上げた。
「月の見える場所に墓が欲しい」




