昇格
ソフィアは夢を見ていた。
また、いつもの夢だ。少し成長した自分が、簡素なバンガローで土弄りに勤しむ夢。
その日は、さああ、と静かに優しい雨が降っていた。勢いの弱い零雨ではあるが、作業はできそうにない日だ。
水滴に叩かれて舞いあがった土の匂いを嗅ぎながら、ソフィアはベランダで椅子に体を預け読書していた。雲が空を閉ざした風景は、白クレヨンで線を引いた画用紙を、青灰色に塗りつぶしたはじき絵のようだ。
甘雨が降り続く中で、ソフィアは本のページをめくる。日がな一日やることがなく、読み進めていた物語は、いつしか裏表紙へたどり着いてしまった。最後のページをめくると、そこには萎びた小さな麻袋が張りついている。
ぺり、と小さく乾いた音を立てながら麻袋は剥がれた。
紐で絞られて閉じている袋の口に指を突っこみ、中を覗いてみる。中には小さな茶色の粒が何粒か入っていた。種子。また、どこからともなく現れる、何が育つかわからない種だ。雨が明けたら、新しい畝を作って埋めよう。
ソフィアは本を閉じると椅子から身を起こし、家の中に戻った。
空に晴れ間が見えるまで、まだ時間がかかりそうだ。書斎の主に本を返して、新しい本を借りよう。さて、次は何を読もうか、と書斎にまっすぐ向かった。ところで、書斎なんていつからあったっけ?
キッチンを抜けて奥に向かうと、バンガローには不釣り合いの、重厚なマホガニーの框組みの扉がある。軽くノックすると、中から「どうぞ」と短い返事が返ってきたので、中に入った。
「また、種があったよ」
書斎に入るなり、ソフィアは書斎の主に言った。
彼女は、ソフィアにとって、母のような姉のような女性だ。赤いワンピースを着て、いつも書斎で書架の整理ばかりしている。一度も畑仕事を手伝ってくれたことがない。
こちらを見ず、抱えていた数冊の本を書架に並べながら彼女は言う。
「植えるといいでしょう。芽が出るといいですね」
しかし、彼女はいつからいたっけ? 前からいただろうか? 夢だから曖昧だ。ずっと前からいた気もするし、今日初めて会った気もする。
ソフィアは麻袋の紐を指に引っかけて回しながら訊く。
「なんで、どの本にも種があるのかな?」
「ここにある本には、世界のすべてが書かれているからでしょう」
また一冊、本を書架に入れながら彼女は答える。
「けれど読んだ内容をどう解釈するかは、その人次第です」
抱えていた本をすべて書架に入れ終えると、彼女はこちらに向きなおった。琥珀色のウルフアイが印象的だ。
「だからその種は、物語を読み終えた、あなたが育てるべきもの。萌芽して、初めて現実となる可能性なのです」
ふぅん、とソフィアはわかったような、わかっていないような返事をする。
「でも、あなたも読んでるけど育てないの?」
彼女は書架の本の背表紙に手を滑らせ、慈しむようになでる。
「これは、あなたの世界ですから。私は整理するだけです」
「ただインドア派なだけじゃないの」
彼女は何かを考えるように目を閉じ、曖昧な笑みを浮かべた。
「……そうとも、言いますね」
「やってみればいいのに。あなただって育てていいんだよ、あなたもわたしなんだから」
妙な誤魔化しをする彼女に、ソフィアは溜め息を吐いた。
「ねぇ――」
そう、彼女の名を呼ぼうとして、目を覚ました。
頭がぼうっとして、瞼が妙に重い。よく寝た感じがするのに、まだ寝足りない気がして、目の奥に疲れを感じる。その割に体は不調どころか、今までにないくらいに快調だ。頭だけがただ重い。
ソフィアは目をこすりながら、億劫そうにベッドから起きあがる。辺りを見回してみると、自分が寝ていたベッドの他には、小さいデスクがあるだけの診察室のような部屋だった。
明らかに奴隷学校の寮にある自室ではない。
困惑しながらベッドから降りると、自分が制服を着ているのに気がついた。皺になるから制服のまま寝ないよう、いつも注意されているから気をつけているのに、いつ寝てしまったのだろう。授業中に気分が悪くなって、診察室で寝ていた? いや、そんな記憶はない。そもそも確か、今日は授業がなく――
――そう、今日は適性試験だったはずだ。
さっきまで試験を受けていたことを、ようやくはっきりと思い出した。定期考査と同じような、学力と実技の試験が終わったはずだ。そのあと――そうだ、そのあと、あの戦場に放りこまれたのだ。
適性試験の戦場で、班を組み、生き残りをかけた殺しあいが始まったのだ。
最後に適性試験の終了通知を受け取った記憶はある。最後、自分は一人ぼっちで憔悴していたので、あの報せでとても安堵したのだ。
武器も持たず、必要最低限の荷物しかない状態で生き残れたのは、運がよかったとしか言いようがない。一人になって試験が終わるまでの間、他の学生奴隷にほとんど遭遇しなかったのは奇跡だろう。周囲に敵の影がないか怯えながら身を潜めている中で、他の学生奴隷が近くを通りかかっても、たまたま自分のいる方向に向かってこず、素通りしてくれたおかげだ。あのときは、まるで自分が透明になって、誰にも見えていないようだった。
それしか覚えていない。
なぜ一人きりだったのだろう? その理由が思い出せない。班の仲間がいたはずなのに、まっさきに死にそうな非力な自分だけが生き残った?
自分は誰と班を組んでいたっけ。誰かと一緒にいたはず。光景は思い浮かぶが、黒い靄がかかってしまったように、相手の顔が思い出せない。残夢のように何かあったことだけ心に残っている。詳細が思い出せない。確か、自分の他には男の子が三人、女の子が二人いた。
他の子たちは――
思い出そうとすると、喉の奥から苦いものがせり上がってきた。思わず口を両手で押さえたが、耐えきれず近くのゴミ箱に嘔吐してしまった。胃の中のものが逆流した勢いで、横隔膜が変に縮んで肋骨が痛んだ。突然息ができなくなり、ゴミ箱にすがりながら、ぜいぜいと喘ぎながら目から涙が滲んでくる。
何か、何かとても、ひどいことがあった気がする。これは忘れていていいものだろうか。
考えれば考えるほど、誰かが無理矢理、押さえつけて閉じこめようとでもしているのか、記憶を想起しようとするたびに、締めつけられるような頭痛がする。小さく呻きながら床に突っ伏してしまった。頭がぐらぐらして、目眩がする。平衡感覚が無茶苦茶で、空間に酔って、また吐きそうだ。
どうにか起きあがったが立ちくらみがして、思わずベッドに倒れこむ。痛みと吐き気で何も考えられなく――
――――――
――――
――
何をしていたっけ?
それよりここはどこだろう?
ソフィアは自分がどこにいるのか確認しようと、部屋の外に出た。
廊下に出ると、奴隷学校の施設ではないことは一目瞭然だった。
一面ガラス張りの壁で、外が見渡せるようになっている。その先の光景は、奴隷学校から臨んでいた人工森林の緑ではなく、木々よりも大きい高楼の密林だった。ソフィアはこの場所を知っている。一度も足を踏みいれたことはないが、いつも遠くから眺めていた景色だ。
ここは、ルクスリアの国民が暮らす都市部だ。
そこに押込通知が視界に割りこんできた。メッセージには公的な国からの文書が添付されている。適性試験の結果だろうか。自分は試験に合格し、正式な奴隷になったのだろう。だから都市部にいるに違いない。
そう思い、文書を開いてみたが、その内容は予想とは大きく違ったものだった。
試験結果について色々と書かれているのは思った通りだったが、それらをまとめた結論は、奴隷としての配属先についてではなかった。
文書の最後はこう締められていた。
『〈性交〉への著しい適性から、官能の等級においてグレードSと判定されました。つきましては、これを以て識別子SPHA-LXRRT様へ、公民権を付与いたします。シティホールでの手続きをお願いいたします』
ソフィアは奴隷から国民に昇格していた。




