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エイドスの地  作者: 黒石迩守
第二部 月も登らない空の下で

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20/31

逃亡

 光に包まれた身体が、闇に滑り落ちるような感覚がした。


 ずしりとした自分の肉の重さを自覚して、目を覚ましたのだと、ソフィアは気づく。


 ふわりとしたマットレスに沈む体で、自分がベッドに寝ていることがわかった。体力の容器に穴が開いて、活力が漏れだしているように全身が気怠い。頭がぼうっとして、記憶の糸が上手く結ばれない。


 体を起こそうと、ベッドの中でもぞもぞと動く。上半身を起こした筋肉が、きしりと痛んだ。ベッドのヘッドボードに背中を預けて、ぺたぺたと、両手で自分の顔を触ってみる。


 なぜだか、自分の肉体に奇妙に違和感があった。窮屈な感じがする。世界はこんな重苦しいものだっただろうか。あのときは、もっと浮遊感があった。


 ()()()()


 想起が記憶の結び目を作る。


 自分の身に何が起きたのか思いだし、意識がはっきりとする。男たちに体を弄ばれていた。途中で意識が朦朧として、視界が白く塗りつぶされたのを覚えている。そのあとが思いだせない。何か、とても素晴らしいものに手が届きかけた気がする。それを思いだせない自分が、非常に歯痒かった。


 記憶と齟齬を感じ、毛布をめくる。自分の姿を確認すると、ナイフで切られたはずの戦闘服を着ていた。ただ、サイズが少し大きい。自分のものではない。汚れていたはずの体も綺麗になっている。髪の毛は少し湿っていたが、べとついていない。体液で濡れているわけではなかった。


 ばっと隣のベッドを見る。トレスの死体がない。代わりに、部屋の奥で壁に寄りかかりながら、床に座って誰かが寝ていた。片脇にアサルトライフルを抱えている。


「……イフルズ?」


 相手の名前を呟くと、相手はぱちりと目を開いた。


「起きたか、ソフィア」

「ここ……」

「ホテルの三階の部屋だ。元々、拠点にしていた場所だよ。オレがここまでお前を運んできた」

「運ぶって……」


 肩紐でアサルトライフルを肩に吊りながら、イフルズは立ちあがる。指を組んで、ぐっと腕を前に伸ばしながら、彼はこちらに歩いてきた。


「お前を襲った連中はオレが全員殺した。そのあと、この部屋に移動した」


 隣のベッドにイフルズは腰かける。


「悪い、汚れていたから勝手に体を洗って、服を着させてもらった」


 それと――こちらから目を逸らし、気まずそうにイフルズは続けた。


「その……意味があるかわからないが、あとで自分の体のケアをしたほうがいいと思う」


 言われて、ソフィアは自分の下腹部を意識する。確かに、妊娠のリスクは十分にあった。しかし、その事実はまるで他人事のようで、どうでもよく感じられた。あの時、感覚が遠のいたら自分の欠落が埋まった。そちらのほうが、重要だった。


「そう言えば、他の二人は……」


 前衛として行動していたビブルとシュヴァの姿が見えない。どこに行っているのだろうと、何気なく訊いた。


 イフルズは俯き、指を組んだ腕を太腿の上に置く。手の甲に血管が浮きでて、指が真っ白になっていた。


「死んだ」


 肺の中の酸素を一気に絞りだし、無理矢理出したような声だった。


「生き残っているのは、オレたちだけだ」


 ソフィアは目をしばたたかせる。そしてイフルズから一度視線を外し、また戻した。何も言葉が出てこなかった。かける言葉が見つからないというより、実感が湧かない。興味のないニュースを聞いた気分だった。


「何があったか、教えてくれないか」


 黙りこくっていると、イフルズが訊いてきた。


 彼が知りたいのは、どうしてトレスが死んだのか、ということだろう。どこまで話すべきなのか迷う。トレスは敵の襲撃で死んだ。単純化するとそれだけの話だ。しかし、トレスが襲われている最中、自分はただ見ていた。彼からすれば、恋人が見殺しにされたも同然だ。自分には何もできなかった。それは事実だ。だが、そう言い訳をして納得してくれるだろうか。


 ソフィアはイフルズの表情を窺う。こちらをじっと見ている。目に隈ができて、疲労が色濃く出ている。相手の瞳が怖い。感情を読み取れない。視線の向きはわかるが、焦点がどこにあるのかわからない。戦場という鑢で感情が削られた顔だ。


 急激に意識する。イフルズは、この戦場で命を奪うのに慣れてしまっているのだ。


「大丈夫か」


 すっと、イフルズがこちらに手を伸ばしてくる。何人も殺した手。必要とあれば自分を殺すのを躊躇わない腕。彼の掌に細い首を掴まれる妄想をする。思わずソフィアは身を退いた。


 イフルズは小さく首を傾げた。


「……言いたくないなら、無理して話さなくてもいい」


 こちらを気遣う言葉をくれる。しかし、表情が変わらない。空白ブランクな貌とも違う、心に揺れ幅がない貌だ。


 このまま沈黙することをイフルズは許してくれるだろう。だが、その選択は相手の心に抜けない棘を刺す行為だ。彼はいつまでも気にし続け、いつか棘を抜こうと無理して、心を壊すかも知れない。そのとき、自分は何をされるだろう。


「ううん……ありがとう、話すね」


 これは自己防衛だ。嘘は吐かない。けれど都合の悪い事実は隠す。


 ソフィアはそう決めて、イリィたちが襲撃してきてから、自分の記憶が残っている時点までのことを話した。ただし、自分がトレスを助けようと動かず、見殺しにしたことだけは、曖昧にした。


 イフルズは黙って聞いていた。腕を組み、こちらの目をまっすぐに見つめてくる。相手の視線が突き刺さるようで辛くなる。記憶を掘り起こすのに必死なふりをして、彼から顔を逸らした。


 事の顛末を話し終えると、イフルズが腰を上げる。彼の体の影で、ソフィアの小さな体が覆われた。男性の大きな体躯を目の端で捉え、びくりとする。


「周囲の見回りに行ってくる」


 一言だけ告げると、イフルズは足早に部屋を出て行った。


 部屋に一人残されたソフィアは、緊張で鼓動が早くなっているのを自覚する。


 恐れている。明らかに自分はイフルズに怯えていた。トレスを見殺しにしたという秘密を知られたら、どうなってしまうのだろう。


 心の中で、恐怖を土壌に不安の種が萌芽する。


 自分たちを襲ってきた相手を、問答無用でイフルズは殺した。ならば自分も同じことをされるのではないだろうか。恋人を見捨てた自分は、復讐に値する人間に違いない。果たして、自分は秘密を抱えたまま、彼の近くにいることに耐えられるだろうか。それ以前に、気づかれていない保証はどこにもない。今後、悟られないとも限らない。


 しっかりと心に根を張って不安が育っていく。枝を伸ばし、葉をつけ、大きくなっていく。考えれば考えるほど、養分を蓄えて幹は太くなり、精神の大部分を占めていく。


 ()()()()()()()


 立派な強迫の実が成った。


 今のうちしかないと思った。


 ベッドを飛びだす。体力がほとんど残っていなかった体は、足で自分を支えられず、床に膝をつく。部屋に置きっぱなしになっていた自分のバックパックが、低くなった視界に入る。バックパックまで這って行き、上手く動かせない指で雨蓋を外す。中身を確認して、持てそうにない重い弾薬類を放りだした。それだけの作業で息が乱れた。


 ぎゅっと服の胸元を掴み、俯いて早く鎮まれと願う。とにかく、大きく息を吸って吐いてを繰り返し、呼吸が整うのを待った。落ち着いたところで力を振り絞って腰を上げる。


 腕に力を込めてバックパックを持ちあげて背負った。重さで体がぐらつくが、何とか踏みとどまる。廊下に続く扉をきっと見据えた。あの向こうに行けば安全だ。早くホテルの外に出ないと。


 そうしてソフィアは逃げだした。

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