イフルズ
何もないからこそ、残されたものは輝く。
〝混沌〟に満たされた大地に立つと、イフルズはいつもそう思う。
混沌は旧文明を崩壊させた最大の要因であると言われている、情報量を無限に増大させる現象だ。あらゆる存在を呑みこみ、何もかも等しく情報の最小単位にまで分解してしまう。この現象により、液体窒素へ放りこまれたように、旧い人類の文明は熱を奪われた。
『すべてが在ってすべてが無いもの』と呼ばれている混沌に抗するには、情報強度と呼ばれる指標が求めれる。存在の熱量を平衡化し散逸させる混沌に対して、自己組織の情報量を保つネゲントロピー。つまり、情報の絶対零度に耐える実存のための熱機関だ。
イフルズが外界に身を置けているのは、身にまとう巨大な鎧のためだ。
強化外骨格〝疾く駆ける騎士〟。
ギャロップは、現行人類であるARMと同化した無機生物が素材になっている。機械仕掛けの生物――CEMは〝種〟のみの群体で〝個〟を持たない。完全に無機物からなる生物であり、驚異的な環境適応能力を保持している。それは、外部からの情報を吸収して行う完璧な擬態だ。
CEMが人間の遺伝子情報を読み取ることで人類は新人類になり、〝個〟を持たない特性は、人類にKUネットという情報空間を与えた。その一方では、アーキテクチャを入力すると設計通りの構造物になり、人類はギャロップという巨大な外骨格を手に入れた。
CEMで造られたギャロップの鎧装は生体鉱物に似ている。大きな貝殻を削りだして継ぎあわせたようなシルエットに、甲殻のような鋭利なフォルム。有機的な無機質さを持つ装甲は、人型の節足動物が最初から存在したかのような自然さで組みあげられている。
イフルズが身につけているのは、型番TU-1D/LX――《スパロー》の通称で呼ばれている、訓練用の汎用機だ。
練習機のため通常のギャロップよりも一回り小さく、重装備の歩兵のような、ずんぐりとした印象の機体だ。それでも約五メートルの全長は、鎧と呼ぶにはあまりにも大きく、もはや身につけるというよりも乗っているというほうが正しい。事実、ギャロップの中にはコックピットがあり、パイロットは機体制御用の制御椅子に身を収めて機体の操縦を行う。あまつさえ、〝疾く駆ける〟の名の通り、ギャロップは亜音速で移動する。強化外骨格と呼ばれているが、事実上の人型有人兵器だ。
光すら混沌に呑みこまれた無明の世界でも、機体が取得した地形情報を地図に加えることで、視界が光学的に再現されて明瞭になる。
草木の一本すらない土と岩だけの荒涼とした大地。かつて青かったという空は、常に有と無の閾値を揺れ動く黒白の大理石模様をしている。何も始まらず、終わることもない、人類の生存圏外だ。
イフルズは今、奴隷学校の授業の一環で、都市の第一防衛線上に置かれた掩壕の一つを拠点として、哨戒行動をしている。掩壕といっても、ギャロップの格納庫と簡易な居住施設があるだけの地下空間で、どちらかと言えばトーチカのようなものだ。
都市の周囲には、都市を中心として円形の防衛線が同心円状に三つ敷かれている。防衛線は千キロメートルずつ直径が広がっており、円周上には約二五〇キロメートル間隔で掩壕が配置されている。第一防衛線は、その中で最外にある最前線だ。
授業は七人一組の二つの班が、攻撃側と防衛側に別れて行われている。
第一防衛線上にある掩壕の一つを中心にした、七五〇キロメートル四方の範囲が戦闘エリアだ。攻撃側の勝利条件は防御側を全滅させるか、第二防衛線に到達すること。防御側は敵の発見後、他の掩壕から援軍が到着する平均時間の一五分間、攻撃側を食い止めるか、全滅させれば勝利だ。
敵地への拠点侵攻と、敵からの拠点防衛を想定した訓練。今回、イフルズは防衛側だ。
〝イフルズ――おい、イフルズ。返事しろ、ハングでもしたか?〟
班用のグループ回線の連絡チャネルに通信が入る。移動中だった《スパロー》の動きをイフルズは止める。発信者の名前が視界にARヴィジョンでポップアップする。『C001-CHIVA』。奴隷に割り振られた管理用の個体識別子。友人のシュヴァだ。
〝聞こえてる。何だ?〟
応答を返すと『IFLS-ALT4S』とイフルズの識別子が表示される。奴隷は皆、識別子から己の通称を考えさせられるが、名前にならないような文字列の奴はいないのだろうか、などとぼんやり思う。
〝何だじゃねぇ、お前。定時連絡〟
〝異状なし。今のところ敵影は目視できない〟
〝現在地点は〟
コックピット内で機体制御用の制御椅子を介して、地図プログラムをイフルズは起動する。肉体とギャロップに共通するCEMが連結定義となって、機体に組みこまれたベトロニクスへ要求を出す。3Dモデルの地図表示がARヴィジョン上でアクティブになる。
現在地は拠点から約一八〇キロメートル離れた地点だ。哨戒を命じられた地点まではあと二〇キロある。今の速度のまま進めば、あと一分程度で着く。
イフルズは溜息を吐いた。単独でこんな奥まで来てしまっては、会敵したときに援軍は望めない。今回の指揮官役のイリィには嫌われているらしい。授業だからいいものの、実戦だったら考えられない当てつけだ。
〝一八〇キロ地点だ〟
うぅむ、とシュヴァが唸った。
〝だいぶ行ったな……お前で見つけられねぇなら、別の場所から攻めてくる、かね〟
〝どうだか。あまり信用されても困る。感覚欺瞞兵装を使われていたら、オレにはどうしようもない〟
ギャロップの索敵は己の感覚を拡大させる受容器測定が主要だ。電波自体が混沌に呑みこまれるため、レーダーは役に立たない。そのため、外骨格として身につけている、ギャロップが取得する情報――つまり、パイロットの感覚に頼らざるを得ない。要は、意図的に感覚を鋭敏にして、混沌の流動の中から敵を探すということだ。
神経が液状化して周囲に溶けるような受容器測定は、調整されたアリス症候群のような感覚だ。遠くにあるものが近く感じられ、小さなものが大きくなる。だが、ギャロップに搭載されたAIに制御され、知覚情報は狂わない。
訓練を受けたパイロットの索敵距離は、平均で半径四〇キロメートル程度だ。しかし、先天的に感覚の鋭いイフルズは、最大で一〇〇キロメートルまで索敵できる。そして、その高い索敵性能を理由に、一人で哨戒行動をさせられている。
〝せめてもう一人ぐらいつけてくれればな……〟
どこまでも続く茶色い風景を見回して、イフルズは肩を落とす。
どれだけ索敵に優れていても所詮は感覚だ。欺く方法はいくらでもある。そもそも自身の感覚は情報の取得に使っているだけで、解析はAI任せだ。どれだけ多くのサンプルを取れても、AIが誤認識したら相手はステルス状態だ。貧弱なAI相手なら、ボールをライフルと勘違いさせるピクセルアタックも成立するのだから、混沌というノイズだらけの中で、たった一人の感覚を信用しきるのも問題だろう。
あ、おい――シュヴァが慌てたように言う。
〝お前、馬鹿。音声入ってるぞ、これグループ通し――〟
友人の言葉を遮るように視界に識別子『1LL1-N42TY』がポップアップする。今回の指揮官役のイリィだ。やってしまった、と煩わしさで顔が軽く引きつる。悪い意味でイフルズは彼のことをよく知っている。嫌っている相手が漏らした不満を、見逃す人間ではない。
イリィが大きく息を溜める音が聞こえた。これからたっぷりと嫌味を込めた言葉を吐くのだろう。
〝ボクの指示に文句があるのか、イフリィ〟
神経質そうなトーンの高い喋り方。言葉の棘がジャブのように明瞭なのは、ある意味才能だろう。そしてまったく指揮官向きではない気質だ。
コックピットの天井をイフルズは仰いだ。
〝文句というか、ブリーフィングのときに進言したことを思いだしているだけだ。あと、その呼び方やめてくれないか。響きが女っぽくて嫌いなんだ〟
〝お前の案は却下したはずだ。文句がないなら、黙って自分の仕事をしろ、イフリィ〟
〝了解。精一杯働くよ〟
あまりの億劫さにイフルズは目頭を押さえる。何かにつけて口撃してくる奴を相手にしても仕方がない。それに自分が意見を出したことは記録されている。それで十分だ。
〝そうだ、最初から大人しく従っていればいい。お前みたいな障害者が班にいるだけで迷惑なんだ。それをボクが上手く使ってやろうとしているんだからな、感謝しろ〟
おい、とシュヴァが低い声で会話に割りこんできた。
〝イリィ、さすがにその発言は看過できねぇ。取り消せ〟
コックピットの天井を見上げていた首をイフルズは元に戻す。道理に合わないことがシュヴァは嫌いだ。気持ちはありがたいが、訓練中に喧嘩をされて、連携が乱れるのも困る。
二人の口論を執り成そうと、イフルズは口を挟んだ。
〝いいんだシュヴァ。ただの事実だ〟
イフルズには生まれつき、アルト氏症候群という仮想現実知覚障害がある。ARMは物理空間と情報空間に対し、それぞれ基底現実と仮想現実で同時に思考する、並列意識を持っている。
授業で習ったことを思いだす。確か、教師AIはこんなことを言っていた。『並列意識はミルクのようなコロイドです』。意識の分散系。一人の人間の中のアイソトープな意識の存在。
その二現実のうち、VRでの意識がイフルズは不安定なのだ。だが、日常生活を送るのに問題はない。情報処理能力が無能な分、反動で肉体の感覚が優れているという恩恵もある。
あまり気持ちは良くないが、VRPDを論われるのはもう慣れていた。
〝本人もこう言っているぞ。何も問題ないだろう? むしろありがたく思ってほしいね、指摘してやることで、しっかりと立場を自覚させているんだ。シュヴァ、お前も無駄口ばかり叩いていないで、さっさとイフリィと一緒に敵を見つけろ〟
ぎり、とシュヴァが歯噛みする音が聞こえた。友人の憤懣やる方ない顔が目に浮かぶが、あえて何も言わない。気にしていないから問題ない。つき合いの長い相手だ、自分の態度から意を汲み取ってくれるだろう。
納得しかねているようだったが、シュヴァは鼻を鳴らして言った。
〝あぁ、これは申し訳ありません。ただいま鋭意索敵中であります、指揮官殿。自分たちが敵を見つけるまで、どうかごゆっくりお待ちを〟
グループ通信の参加者からシュヴァの識別子が消える。ほっとしながらイフルズも通信を終わらせた。同時に個別通信の着信が入ってくる。識別子を見ないでも判る通信相手に、思わずくすりと笑う。応答すると、即座にシュヴァの苛立った声が回線に流れた。
〝あの野郎、トレスをイフルズに取られたと逆恨みしやがって〟
〝あそこまで露骨に嫌われると、いっそ清々しいな。あ、トレスには黙ってろよ、気を揉ませたくない〟
〝解ってるよ。しっかし、腹立つ……そう言えば、戦場では流れ弾で死ぬ可能性も高いんだってな?〟
〝友軍相撃は減点だぞ。それに混沌の中で、ギャロップが使える火器の命中精度なんて――〟
受容器測定に反応が出る。体が強張った。即座にイフルズは《スパロー》に臨戦態勢を取らせる。硬くなりかけた身体を、慣れた構えでほぐしながら、敵機の位置を確認する。自機の前方八〇キロメートル地点。ギャロップが二体。AIが接敵予想時間を算出する。約一四四秒後。
〝――敵影を捕捉した〟
〝情報探信打て、気づかれる前に!〟
シュヴァが声を荒げるのとほぼ同時にイフルズは情報探信を打つ。知覚で捉えた時点で、KUネット上では自他の表象が接続関係として成立している。観測した誰かが情報空間上にいることを想起し、通信経路を確立する。単純な呼びかけ。要求に対して、不随意運動のような無意識の応答が、反響定位のように誰かから返ってくる。
〝応答取れた、解析に回せ〟
訓練で身体に叩きこまれた動作で、取得できた情報をシュヴァに送信する。
情報探信に対する応答は、そのままでは役に立たない。統一資源識別子として、誰を指し示しているのか同定して、やっと意味を持つ。もちろん、取得したデータに一致する情報が、データベースに登録されていれば、の話だ。
ヒット、とシュヴァが良い返事をくれた。
〝情報出すぞ。回線をグループに切り替えろ〟
班用の連絡チャネルに、シュヴァから敵の情報が送られてくる。ARヴィジョンに二人分の識別子とプロファイルが表示された。『VLMN-BIBL0』、『N00N-LNTRN』。くそっ、と心中でイフルズは毒づく。どちらも知っている相手だ。
〝よりによってビブルか。それにノーンも〟
〝ノーンはいいとして、首席様が相手かよ。今回の訓練は点数取れねぇな、こりゃ〟
軽口を叩いたシュヴァに、イリィが苛立ちを見せる。
〝全体の士気に関わるようなことを口にするな、この間抜け。ボクが指揮官なんだ、負けるわけがない〟
悪態にシュヴァが怒りの声を上げたが、イリィはそれを無視してこちらに指示を出す。
〝状況を報告しろ、イフリィ〟
〝オレは移動を停止している。向こうは速度を落とす気配がない。相手もこちらに気づいているな。このままだと、あと一三〇秒で接敵する〟
イフルズはギャロップの操縦には自信がある。相手が複数でも、ある程度は一人で遅滞戦闘ができる実力はあると自負している。だが、相手はビブルだ。奴隷学校の成績トップの人間で、ギャロップの操縦は自分と一二を争っている。サシならともかく、二対一で目標を達成する目はほとんどない。
選択肢に迷うまでもない場面だ、とイフルズは助けを求める。
〝イリィ、増援か離脱許可を要請する。オレだけだと私刑だ〟
〝却下だ。誰が指示を請えと言った、ボクは状況を報告しろと言ったんだ〟
耳を疑うような言葉が返ってきた。イフルズが呆気に取られていると、噛みつくようにシュヴァが反論する。
〝馬鹿言え、相手はビブルだぞ。いくらイフルズでも無理だ〟
〝先にノーンを潰せばいい。相手の大きな戦力の一つを潰すチャンスだ。それにビブルたちがそこに現れたことにイフリィの索敵範囲を加味して、敵の進攻経路も予想がついた。大方、三方向から攻め入るつもりだろう。こちらの残戦力を予想経路に配置して防御に徹すれば、制限時間がきてボクの勝ちだ〟
声を荒げて文句を口にしそうになるのを、拳を握りしめてイフルズは衝動を抑えた。声高に抗議しても、イリィは更に態度を硬化するだけだろう。
だが、イリィの考えには穴がありすぎる。自分で嵌るための落とし穴を掘っているようなものだ。ビブルたちが斥候の可能性もあるし、向こうの残戦力が機動戦で各個撃破を仕掛けてきたらどうするつもりだ。大体、向こうの狙いが最初から一点突破だったら、その時点で負けが確定する。
せめてもう少し慎重な作戦に切り替えてくれることを期待して、イフルズは提案する。
〝リソースを横に広げきっていいのか? 縦深防御の方がいいと思うが〟
〝お前はそんなことを考える必要はない、目前の敵に集中するんだ。やれ、イフリィ、指揮官命令だ。後退ではなく攻撃だ〟
コックピットの床をイフルズは大きく踏みつけた。取りつく島もない。ここまで無能だとは思わなかった。言いたいことはたくさんあったが、失望が心の大部分を塗りつぶす。訓練だから嫌がらせをしても構わないとでも考えているのだろうか。
上擦りそうな声の調子を、どうにか抑えてイフルズは指揮官に訊く。
〝……接敵まで一〇〇秒。もう一度確認だ、増援か離脱許可を要請する〟
〝ボクはすでに命令を出した。何度も言わせるな、後退ではなく攻撃だ〟
嫌われたものだ、それでも手は抜けない。上等だ、と己を鼓舞する。この程度の苦境、切り抜けなければ軍属になどなれない。
〝了解した、戦闘に入る!!〟
*
〝識別子IFLS-ALT4S、撃墜判定です。お疲れさまでした、接続を切ってシミュレーターを終了してください〟
無機質な合成音声でAIが敗北を告げてくる。VR上に再現されたギャロップのコック ピットの中で、イフルズは仏頂面でそれを聞いていた。
結果は、こちらが全滅、相手の損耗なし。完膚なきまでの敗北だった。
シミュレーターのメニューから、自己診断機能を呼びだす。戦闘終了時の機体の状態が表示された。機体システムの状態を表す人型のシルエットは、正常を示す緑色よりも、障害を意味する赤色の方が多い。左腕切断、両脚部全損、腰部機能不全、止めにコックピットのある胸部が圧壊。イフルズは奥歯を噛みしめる。実戦なら死んでいた。
〝識別子IFLS-ALT4S、撃墜判定で――〟
「うるさい、何度も言うな」
戦闘訓練用のシミュレーターとの接続を切る。VRのコックピットが消えて、無限の広がりを持つ銀灰色の情報空間に、制御椅子に腰かけたイフルズだけが残された。むすりととしたまま、VRからBRに感情領域を切り替える。物理空間のシミュレータールームにいるイフルズの空っぽだった貌に、情報空間上の感情が写し取られた。
シミュレータールームには制御椅子がずらりと並んでいる。細長い長方形の空間の両脇に、左右それぞれ二十脚のチェアが置かれた部屋は、個席が設けられた小型の軌道走行車のようだ。周囲では他の学生奴隷が戦闘訓練を続けている。自分の隣には、無表情のシュヴァが座っていた。シミュレーターとの接続をまだ切っていないようだ。
「戦闘ログを見てんだよ……失笑もんだな、こりゃ」
こちらの視線に気づいたシュヴァが真顔で笑った。
ARMは並列意識で両方の現実に心的表象を出せない。喜びながら怒ったり、哀しみながら楽しんだりする矛盾に、人間の精神が耐えられないからだ。そのため、感情領域は片方の現実にしか向けられず、結果的に表情と口調がちぐはぐになることがままある。
チェアから乱暴にイフルズは身を起こす。無様な戦闘を思いだし、不甲斐なさに怒りが混ざって、大きく息を吐いた。勝てなくても、せめてもう少し戦闘の形になると思っていた。というよりも、驕りがあった。指揮官が無能でも、自分なら戦況を好転させられると、過信していた。
「完敗だな……」
「やっぱ強ぇよなぁ、ビブルは」
シュヴァが顔に疲れを浮かべる。シミュレーターから戻ってきたようだ。そのまま彼は制御椅子に身を預けて脱力した。
確かにビブルのギャロップの操縦技術は、イフルズも認めている。だが今回は、それよりも口車に乗せられたことが大きな敗因だろう。
「一騎打ちを挑まれたからって、ノーンを見逃すべきじゃなかった」
チェアから立ちあがり、シュヴァが伸びをする。
「その後、戻ってきたノーンに挟撃されてたもんな。いやぁ、ありゃ酷い」
「撃墜される直前に言われたよ、『騙して悪いですが、これが僕の仕事なので』だと。あの合理主義者を疑わなかったオレのミスだな、一騎打ちなんてするわけがなかったんだ」
「安心しろ、片腕吹っ飛ばされて五分も戦ったお前も、大概おかしかったから。あいつの計算もそれなりに狂っただろうよ」
二人で話しながらシミュレータールームを出ると、廊下に見知った二つの人影があった。壁に寄りかかって時代錯誤な板状の書籍端末で読書する、見慣れた物好きな姿はビブルだ。もう一人の、大柄な体格とは裏腹に、牧歌的な雰囲気で欠伸をしているのは、同性愛者のシュヴァの恋人のノーンだ。
二人はこちらに気づき、挨拶代わりに軽く片手を上げた。
「どうも、二人とも」
「お疲れさま、やっと授業終わったね」
イフルズは相手と同じように片手を上げて返事をした。隣でシュヴァが皮肉っぽく微笑う。
「わざわざ出迎えかい。勝者の余裕だな」
まさか、とビブルは相手の言葉を意にも介さない。
「イフルズへの対応は、中々危ないところでしたよ、さすがです」
心の底から称賛している様子のビブルに、イフルズは複雑そうな表情をする。
「お前、毎回そう言うけど、大体オレは勝てていないんだが……」
「VRのシミュレーターだからですよ。BRでは君の方が強い」
確かに授業では、ギャロップの演習に実機を使わない。本物の敵との遭遇や、不測の事態が発生するかも知れない混沌の外へ行く許可は、学生奴隷には下りないからだ。そもそも、高価な兵器であるギャロップ自体を使わせてもらえないだろう。シミュレーターを使うのも当然だ。
だが、そんなことはイフルズには関係ない。
「どんな状況でも結果を出せないなら意味がない。それが軍人だろう?」
VRPDのあるイフルズは、VRでの訓練というだけで不利だ。ほんの少し、BRで問題があれば、すぐにVRの意識を正常に保てなくなる。物理空間と情報空間では、身体の感覚にずれもある。だからといって、それを言い訳にして負ける程度の実力では意味がない。
まったくだ、と誰かが背後から会話に割りこんでくる。
「障害者のせいで、こっちは勝点を取れなかったんだからな」
振り向くと、苛立ちを隠さず、不快そうな顔のイリィが腕を組んで立っていた。シュヴァが肩を竦める。彼はそのまま相手の方を見ずに、わざと聞こえる大きさの声で当てこすりを言う。
「おやおや、敗残の将のおでましだ」
「ちょっと、やめなよシュヴァ」
ノーンがシュヴァの横柄な態度を注意するが、彼はお道化た調子で言葉を返す。
「何がだ? 俺は事実を言っただけだぜ」
イリィがシュヴァをきっと睨みつける。
「黙れよシュヴァ。ボクの作戦通りに事が進んでいたら、勝敗は逆だったんだ!」
「よく言うぜ、部下のせいにできるほどの作戦でもなかったろうが。それに戦術なんてもんは結果がすべてなんだよ。お前は戦場で死んでから反省するのか?」
「死なないための授業だ。ボクはお前と違って大局的に物を見ているんだ」
「その大局的な物の見方とやらで、好きな女を取られたって逆恨みか。大したもんだ」
イリィの頬にさっと赤みが差した。次の瞬間には、憤怒の形相でシュヴァの顔目がけて右腕を振り抜こうとしていた。咄嗟のことに、イフルズ以外は誰も反応できていなかった。シュヴァには避けられそうにない。見ていられずに、思わず手を出してイリィの拳を受け止める。
ぱん、と小気味いい音がして、廊下が静まり返った。
しん、とした空気の中で、お見事、とビブルが小さく呟き、ノーンは溜息を吐いていた。
イリィははっとした顔をすると、ばつが悪そうにこちらの手を振り払う。彼は何かを言おうと口を開きかけたが、苦虫を噛み潰すように、そのまま唇を閉じた。
恥と悔しさからか、顔を真っ赤にしている相手にイフルズは言う。
「解ってるよ、イリィ。俺がビブルを止められなかったのが敗因だ。それは間違いない」
「な、なんだ、解ってるじゃないか。なら、もう少しVRでもマシな動きができるようにするんだな!」
こめかみを引きつらせながら吐き捨てると、イリィはその場を大股で去っていく。彼の成績は優秀なほうだが、決して才能があるわけではなく、努力していることをイフルズは知っている。ちらりと横目でビブルを見る。それでも頂点には爪をかけることすらできず、焦りが募っているのだろう。もがいて空回りしている後ろ姿が、哀れっぽく見えた。
「本当に何なんだ、あいつ」
「今のは喧嘩を売ったシュヴァが悪いよ」
不愉快そうに舌打ちするシュヴァを、呆れ顔でノーンが咎めた。
「お前、自分の恋人が殴られそうになったのに、冷たいな……」
「そりゃあ、本当に殴られていたら怒ったけど。止めてくれたイフルズにお礼を言いなよ」
恋人に注意され、思いだしたように「助かった」とシュヴァはイフルズに頭を下げた。
「オレは別に気にしてないよ」
それに、実力不足なのは事実だ。イリィの言葉をイフルズは反芻していた。VRPDのあるこの体で軍に入るには、もっと強くならないといけない。
技術支配の時代である現代で、情報処理能力が皆無のイフルズが生きてこられたのは、たくさんの人の支えがあったからだ。誰かに助けられた分だけ誰かを助けたい。そう考えるようになったのは、いつからだったろう。
誰かを助けられる強い人間になりたい、という願いが少なくともイフルズの原点だ。だからこそ、国を守るために働く軍人になりたい。そのための唯一の方法が、身体能力が重要視されるギャロップのパイロットだ。たった一つの可能性にしがみつくしかない。無茶だろうと何だろうと、できることはすべてやってやる。
ビブルがぽつりと漏らした。
「イフルズのせいで、軍事演習の成績が万年三位なのも、イリィは気に入らないんでしょうね」
「いや、オレはお前のせいで万年二位なんだが?」