鏖殺
目が醒めて、自分が生きていることにイフルズは驚いた。
道の真ん中で仰向けに倒れていた体を起こす。固い地面で寝ていたせいで筋肉が強張り、背中が軋んで痛んだ。口の中が渇いて粘ついている。寝起きのときに感じる苦味の中に、鉄の味が混ざっていた。血の味が記憶を刺激する。そうだ、イリィに殴られて昏倒したのだ。
唾液を溜めて道の脇に吐き捨てる。淡いピンク色をしていた。
その場に立ちあがりながら、殴られた後頭部に、そろりと触れてみる。ずきりと、刺すような痛みが走った。ずいぶんと思いきり殴られたようだ。傷口に触れた指先を確認する。小さな赤黒い粒が少しだけ付着していた。出血は止まっているようだった。
自分の両手を握って開く。それを数度繰り返す。痺れはない。数歩歩いてみたあとに、後ろ向きに戻ってみる。平衡感覚にも問題はない。
「オレは識別子IFLS-ALT4S。通称はイフルズ。適性試験中の学生奴隷……」
殴られた頬の痛みはあるが口も開けるし、きちんと喋ることができる。記憶にも問題はない。ひとまずは脳に障害は出ていないようで安心する。
周囲を見回してみるが、いやに静かだ。ファルマと名乗ったAIが操作していたUAVを破壊したことで、〈結節点〉がなくなったせいだろう。この辺りで戦闘はもう行われておらず、戦場の残骸として死体が転がっているだけだ。おそらく、自分も死体と勘違いされたのだろう。だから無事だったのだ。
しかし、イリィに殺されなかった理由がわからない。
いや、とイフルズは頭を振る。今はそんなことを気にしている場合ではない。
トレスたちが待つ拠点に戻るために、イフルズは装備を確認する。銃は、アサルトライフルもハンドガンも、マガジンがなくなっていた。唯一、ハンドガンの薬室に一発だけ銃弾が残っていた。イリィたちに盗られたのだろう。戦闘服に装備していたナイフまで持ち去られていた。
ARヴィジョンに3D地図を表示して、帰還ルートを確認する。地図上で確認できる範囲では、他の学生奴隷の位置を示す赤い点が少なくなっていた。赤点が動かないところを見ると、自分たちがいた領域の生き残りは、ほぼ決まったようだった。だが、この市街地演習場の広さからすると、他の場所で戦闘している学生奴隷たちは、まだまだいるだろう。
気は進まなかったが、心許ない装備を補うために、近くの死体から装備を拝借した。収穫は、残弾が四発のマガジンとナイフ一振りだけだった。
準備を整え、イフルズは帰還ルートを進み始める。
敵のいない道は、ただ歩くだけで済んだ。道中でリーダーであるノーンに連絡を取るべきか何度か迷ったが、どうしても自分からビブルとシュヴァが死んだことを伝える勇気が出なかった。
あのとき、どうするのが正解だったのかと反芻する。ビブルを追わず、シュヴァと一緒に戦うべきだったのだろうか。それとも、迷わずシュヴァにすべて任せて、ビブルのあとについていけばよかったのだろうか。一つの仮定でその他の仮定が通らなくなる。条件分岐は、すでに選択されたあとだ。
人生は先に悔いることができない。そのことは理解している。だから、この思考は後悔ではなく、自分への慰めなのだ。他の選択をしても大差なかったと、意地汚く自分の感情に折りあいをつけようとしているだけだ。
霧の中を歩くように煩悶しているうちに、視界が晴れたように目の前に拠点にしているホテルの正面玄関が現れた。
いつの間にか、戦場は夜になっており、辺りは暗くなっていた。ふいに空を見上げてみる。だが、そこにあったのは闇夜に呑まれて何も見えない無機質な天井だけで、月などなかった。
〈結節点〉の外側にあった拠点周りでは、ほとんど戦闘が行われなかったのか、演習場は市街地としての形を保っている。街路の電灯が、闇の中に等間隔の白い穴を開けていた。
拠点に戻る際は、正面玄関からではなく路地裏にある非常階段から入るように打ちあわせていたので、裏手に向かった。
ホテルの正面玄関を横に突っ切り非常階段に向かうと、二階の踊り場に一つの人影を見つけた。反射的に身を翻し、曲がり角の壁に背を張りつける。一瞬だけしか見えなかったが、確かに見知らぬ男がいた。非常階段に見張りを置くという話は聞いていないし、仲間が増えたとも思えない。
イフルズは点検鏡を取りだし、手頃な長さに伸ばす。鏡を路地裏に向け、曲がり角の様子を確認する。仄暗い中で目を凝らすと、明らかに見知らぬ男が鏡に映っていた。アサルトライフルを肩紐で吊りながら欠伸をしている。苛立たしそうに、階段の床を足でかつかつと鳴らしている。耳を澄ますと、不満気に何かぶつぶつと呟いているのが聞こえた。
「かったりぃなぁ……さっさと交代してぇ……でももったいなかったなぁ、一人死んじまうんだもんなぁ……」
頭の中が真っ白になった。
その男の言葉に、イフルズは自分の頭の中が阿呆のように真っ白になるのを感じた。反面、白くなりすぎた思考の中で、自分の身体の輪郭がくっきりと浮かびあがってきたのがわかった。自分の中にいる選択者。イフルズという個人性が凝縮された選択者が、今その場では普段の彼とは取って代わっている。もはや、選択するまでもなく、自分がすべきことが明白にわかり、意識と身体は唯物論的な自然さで動作し始めた。
〝ノーン〟
短く呼びかける。
〝聞こえたら返事をくれ、ノーン〟
応答はない。トレスとソフィアにも同じことをしてみたが同じだった。
すぐにイフルズは手持ちのハンドガンからマガジンを抜き取り、一発だけ弾丸を取りだした。それを路地裏に投げこみ、聞こえるように音を立てる。金属音に反応した男は、怪訝そうに階段を降りてきた。闇の中で光を反射しないように注意してナイフを抜く。
男は弾丸を転がした辺りの地面を見回している。相手との距離は五メートルほどだ。一度だけ静かに深呼吸し、身を低くして路地裏に飛びこんだ。
闇の中から突然現れた影に、男は驚きながらアサルトライフルを構えようとする。だが引き金を引くよりこちらの動きのほうが速い。こちらに向けられた銃を空いた手で横に押しやり銃口を逸らす。同時にナイフを握りしめ瞠目している男の顔を殴る。男は呻き声を上げ、よろめいた。
隙を見逃さず背後に回り、相手の口を押さえながらナイフで一気に首を掻っ切った。ホースから放水するように、勢いよく首から血が飛び散る。がくん、と男の足の力が抜けるのを支えてやり、音を立てないように路上に転がした。男の体は、あっという間に自分自身の血溜りに浸かった。
その場で死体からアサルトライフルを奪う。試しに引き金に指をかけて力を込めてみたが、動かなかった。やはり使用者登録によりロックされている。仕方なくマガジンだけ奪った。
マガジンを自分のアサルトライフルに装填し、余った分はタクティカルベストにしまった。そして非常階段を昇り、拠点にしていたホテルの三階に入る。
三階の廊下には人影はなかった。物音も人の気配もない。拠点にしていた非常扉に一番近い部屋の中に入ってみる。誰もいない。荷物はそのままで、部屋が荒らされた様子もない。
部屋を出て、エレベーターホールに向かってみる。足音を殺しながら廊下を歩いてみるが、等間隔で並ぶ扉の向こうからは何の音もしない。廊下を歩ききると、エレベーターホールに倒れている男の姿があった。
イフルズは屈んで、彼を検分する。
アサルトライフルを片手に、仰向けに倒れている。身につけているボディアーマーには、何発もの銃弾を食らった跡があった。弾痕の数から推測するに、複数人から銃撃を受けている。彼の顔は黒く固まった血で覆われていて、頬が弾丸で抉られ刮げ落ちていた。肌色の皮膚と赤い肉に黄色い脂身が層状になった下で、白い歯が並んでいるのがよく見える。見開いた目の瞳孔は、油が固まったようにうっすらと混濁し始めていた。額や目の下には、銃創の穴があり、その中には沼地のようにどろりとした赤黒い血が溜まっている。
どれだけ損壊していても、死体の顔は見間違えようがなかった。
ノーンだ。
彼は、一人で戦ったのだ。シュヴァと同じように。
イフルズは、ノーンの顔に掌を置いて彼を眠らせると、しばらくの間、その場で俯き、目を閉じた。
その後、すぐに非常扉に向かい、外に出た。見張りをしていた男は、二階の踊り場にいた。ならば、他の連中は二階にいるのだろう。
非常階段を経由してホテルの二階に入り、手前にある部屋の扉をゆっくりと開ける。灯りは消えているが、寝息が聞こえる。暗がりに目が慣れるまで待ってから、部屋の奥に入っていった。
二つ並んでいるベッドのうちの一つに、男が一人全裸で寝ていた。鼻につく臭いがあったので、すん、と嗅いでみる。石鹸かシャンプーだろう。シャワーを浴びて、そのまま寝たに違いない。
イフルズはハンドガンを腰から引き抜き、空いているベッドにあった毛布を手に巻きつける。空いた手で枕を手に取り、男の顔に押しつけた。急に眠りを妨げられた相手が、布地の下で酸素を求めて身じろぎする。ハンドガンの銃口を枕の中に突っこみ、引き金を二回引いた。
変にくぐもった銃声がして、枕の下の男が身動きしなくなった。銃口を離すと、枕に焦げた穴ができていて、じわりと赤くなる。布の皮と綿の肉を持つ生き物のようだった。
二発分、ハンドガンが軽くなると、心も軽くなった気がした。
イフルズはそのまま部屋を出て、向かいの部屋に入る。次の部屋は灯りが点いていた。入り口から見える奥に、半裸でアームチェアに腰かけて寝ている男がいる。その顔は見間違いようがなく、イリィだった。
部屋の中に入ると、手前のベッドには、裸のトレスが寝かされていた。酷く殴る蹴るされた痕があり、動かない。
動いてくれない。
死んでいる。
想定していた最悪だった。わかっていて、覚悟していたつもりだったのに、全身の筋肉が強張る。涙は出なかった。正しくは泣くのを堪えた。瞳から感情を漏らして、体中に巡る怒りを弱めたくない。もはや感情の代弁は、銃以外に任せるつもりはなかった。
奥のベッドを見やると、裸の小柄な少女に覆いかぶさっている男がいた。荒い吐息のような喚くような声を出している。少女は項垂れていて、細い金色の髪で顔が隠れていたが、誰だかわかる。他にいない。ソフィアだ。
男がこちらに気づいた。不思議そうな顔でこちらを見てくる。何か言おうと口を開きかけた。だが、粘つく唾液が糸を引く口腔から吐きだされる声を聞きたくなかったので、頭に二発撃った。男の額に二つの穴が開く。牛乳がこぼれるような音がして、相手はベッドから落ちた。
銃声で目が醒めたのか、椅子の上でイリィがびくりと体を震わせる。彼は瞠目すると、こちらの姿を視界に捉えた。イフルズは弾の尽きたハンドガンをしまう。アサルトライフルのセレクターを、フルオートに切り替えて構えた。
驚いた様子のイリィは、隣に転がる肉塊を見る。そしてこちらに顔を戻す。血の気の引いた顔で、体の前で両手を広げた。
「イフリ――イフルズ、これは神の」
撃鉄を落とした。
嵐のように銃声が鳴り響く。最初の一秒でイリィは死んだ。三秒ほどでマガジンが空になったので、次のマガジンを装填して撃った。着弾の衝撃で彼の体が椅子から転げそうになる。それを許さないように、あとから銃口から飛びだした弾丸が縫い留める。前後に揺れるイリィだったものは、壊れた電動の人形のようだった。
あぁ、いけない――イフルズは思う。
弾の無駄だ。肉の塊に撃っても意味がない。止めないといけない。頭ではわかっていたが、引き金から指が離れてくれなかった。まるで、人差し指が引き金に張りつき、自分の腕が銃になってしまったかのようだった。
銃弾を一発撃つたび、銃身が軽くなる。同時に心も軽くなった。しかし弾はまだある。装填する。また心が重くなる。軽くしたい。だから撃つ。銃弾が尽きるまで、この重みはなくならないだろう。何発も何発も撃つ。薬莢の転がる音がして、火薬の臭いがする限りは、止められない。
止まらない銃弾は一発ずつイリィの肉を貫いていく。排熱で銃身が赤熱する。歪んだ薬室から飛びだした薬莢が頬を掠めた。火傷したようだが無視する。人間の形ではなくなった、射撃の的にもならなくなったものに撃ち続ける。手元のマガジンが尽きたところで、引き金から指が離れた。
椅子の上には、大きなブロック肉が残っていた。
銃身が曲がった銃を、床に転がるマガジンの山にイフルズは力任せに叩きつけた。




