光背
「――誰か来た」
拠点にしているホテルの部屋でノーンが呟いた。
窓際に置いたアームチェアに座り、首を横に向けて窓から外を監視していたノーンが身じろぎする。前衛が狙撃手の潜むビルに突入してから一時間だ。イフルズたちが戻ってきたのだろうか、とソフィアは思ったが、どうやらそうではないらしい。わずかに見える彼の横顔は険しかった。
「前衛のみんなが帰ってきたの?」
トレスの問いに、いや、と外を見たままノーンは答える。
「違うね。何も連絡が来てないし、四人組だ」
ノーンの言葉で室内に緊張が走る。他の学生奴隷が来た。ノーンは別として、ソフィアもトレスも戦闘は得意なほうではない。もしも相手が攻めてきたら、数で劣るこちらに勝ち目はないだろう。不安で、心が冷たくなるのに、体は熱くなる。
窓の外に目を向けたまま、ノーンが会話を通信に切り替えた。
〝向こうが去るまで、静かにしておこう〟
ソフィアはトレスと顔を見合わせ、一緒に頷いた。
外の様子を窺っているノーンを、息を殺してソフィアはじっと見つめる。張り詰めた空気の中で、状況を伝えてくれる彼の変化から目を離せない。そんなことをしても意味がないのに、どうか何も起きませんように、と息を呑んで祈ってしまう。
数分経っただろうか、それとも数十秒だろうか。動かない光景を見ていると、時間の感覚が狂う。地面が揺れている気がして、思わず床を見る。揺れが止まった――違う、これは自分の拍動だ。心臓の鼓動に合わせて体が心のように揺れ動いている。
がたり、と音がして心臓が飛び跳ねる。反射的に音の出所に目をやると、ノーンが椅子から立ちあがっていた。
彼は深刻そうな顔つきで言う。
〝まずい……このホテルに入ってきた〟
そのまま窓際から離れると、床に置いてあったボディアーマーを手に取る。
〝二人とも、戦闘の準備をして〟
〝え……なんで?〟
〝ホテルに入ってきた四人組に迷った様子がなかった。もしかしたら、こっちの居場所がバレてる可能性がある。時間がない、二人とも早く〟
ボディアーマーを着こみ、タクティカルベストを身につけながら答えると、ノーンはこちらに向き直った。その目には焦燥の色が見て取れた。差し迫った状況なのだ。緊張で出てきた唾を飲みこみ、ソフィアは装備を整え始めた。
手早く装備品を身につけたノーンが、バックパックを背負って入り口のほうに向かう。ARヴィジョンでホテルの見取り図を表示して、何やら確認している。戦略を考えているのだろうか、とハンドガンの準備をしながら思っていると、彼の顔色が変わった。
〝二人とも! 武器はいい、必要最低限のものだけ持って今すぐ逃げて!〟
張りあげたノーンの声にソフィアはびくりとして、手に持っていた銃を落とす。音を立てて床に転がった武器を慌てて拾う。そして、どういうことかと、視線で訴えるように相手のほうを見る。
ハンドガンをホルスターにしまいながら、困惑した表情でトレスが訊く。
〝ど、どうしたの? 何かあったの〟
〝エレベーターが動いているんだ。まっすぐこっちに来ている。完全にこっちの居場所がばれてる……!〟
曇った表情でホテルの見取り図を食い入るようにノーンは見ている。そして、ばっと彼はこちらを振り向いた。
張り詰めたような面持ちをしていたが、少し間を置いて目を瞑る。下ろした瞼と感情が繋がっていたかのように、彼の表情から焦りが消えた。その顔は、誰かに何かを詫びているようにソフィアには見えた。
目を開くと、ノーンは背負っていたバックパックを放り捨てた。
「ぼくが囮になる。二人は非常階段から逃げて。あとで別のところで落ちあおう」
それだけ言い残すと、静止する間もなく、ノーンは走って部屋を出ていった。
突然のことにソフィアは混乱する。どうすればいいのかわからず、トレスの顔を見た。なぜかショックを受けたように、泣きそうな顔をしていた。そして、彼女は何かを振り払うようにノーンの走り去ったあとから目を逸らすと、バックパックを手に取った。
「ソフィー、言われた通り逃げよう。わたしたちは戦闘の足手まといにしかならない。ノーンの邪魔にならないようにしなくちゃ」
「た、戦うの……」
それとはっきり意識したことで恐怖が襲ってくる。戦況分析をしていたときを思いだす。銃弾一発で動かなくなるもの、顔が歪むほど歯を食いしばり、ナイフの刃を相手に突き立てるもの。生々しい殺し合いが始まるのかと思うと、足が竦む。
「戦うのはノーン。わたしたちは逃げるの!」
トレスに手を取られ、部屋の外にソフィアは引っ張られた。倒れそうになる体を支えようとして、ようやく動かなかった足が前に進んだ。連れられるままに部屋を出ると、すぐ右手側に非常口はある。トレスがドアハンドルを掴むと、同時に背後で銃声が響いた。
音に反応して二人は本能的に振り向く。まっすぐな廊下の先にノーンがいた。また銃声。彼がよろめく。ソフィアは悲鳴を上げそうになる。しかし、息を呑みすぎて呼気しか出なかった。
二歩後退りながら、ノーンはその場に踏みこたえ、アサルトライフルを撃ち返す。それ以上は恐ろしくて見ていられず、トレスの腕にしがみついた。相手は四人だ。勝てるわけがない。囮になるとノーンは言ったが、逃げきれるのだろうか。もしや、彼は死ぬつもりなのでは――それ以上考えるのをやめた。仲間が殺される想像をすると、心が耐えきれそうになかった。
腕にしがみつく自分の手を、空いた手でトレスがほどいた。手の甲をぎゅっと握りしめてくると、彼女はこちらの目を見据える。
「行こう、ソフィー」
トレスの手は震えていた。ソフィアと同じように彼女も怖いのだ。それでも気を張って、やるべきことをやろうとしている。自分は彼女の心に甘えていた。そのことを自覚すると、己の情けなさが急に恥ずかしくなった。
ソフィアはトレスの腕から離れて、相手に向かって頷いた。
非常扉を開けて外に出たトレスにソフィアは続く。拠点の部屋は三階だった。だから踊り場を三つ通れば一階に着く。先に非常階段を降り始めた相手の背中を追って段を踏んでいく。早く、少しでも早く――がくんと体が急に落下した。突然の落下感に呼吸が止まる。足を踏み外した。焦る心に体が追いついていなかった。空中で溺れたかのように手を振って手摺を掴む。衝撃で金属の手摺が大きく響く音を立てながら、何とか宙に浮きかけた体を留めることができた。
ほっとしていると物音に驚いた様子のトレスが、こちらを案じて足を止めてしまっていた。右腕をどこかにぶつけたらしく、疼痛があったが耐えられる痛みだ。すぐに立ちあがり「大丈夫」と声をかけ、残りの段を降りていく。二階の踊り場が見えて少しだけ地面が低くなる。
――あともう少し。
そう思ったところで、前を進んでいたトレスがなぜか後退る。彼女の背中に追いつくと、その理由がわかった。
下の踊り場に、銃を構えた男が待ち構えていた。トレスが背負っていたバックパックを男に向けて投げつける。男のくぐもった声と、銃弾が階段のどこかを掠める擦過音がした。
「ソフィー、非常口で中に!」
悪態とともに男が階段を昇り始める音と、トレスの言葉は同時だった。
飛びつくようにして、ソフィアは非常口のドアハンドルを掴む。しかし、押しても引いても扉はびくともしない。何で開かないの――パニックになりかけると、トレスが叫ぶ。
「オートロック!」
はっと思いだし、慌ててホテルキーで認証を行う。スマートキーの施錠が解除され、がちゃりと錠の降りる音がする。扉を引きながら開いた空間に体をねじこみ、倒れるようにホテルの中に戻る。数歩進んだところで、足がもつれて廊下に膝を突いてしまった。
きゃっ、と短い悲鳴が背後で上がる。振り向くとトレスが閉めようとした非常扉の隙間から指をかけて、待ち伏せていた男が扉をこじ開けようとしていた。
ソフィアはトレスの元に行き、彼女の腰に手を回して扉を引くのを手伝う。いくら相手が男とはいえ、こちらは二人分の筋力と重さがある。ゆっくりとだが、確実に隙間は小さくなっていった。最後の一押しに体を揺り戻して重力の力を借りる。扉とドア枠が相手の指を挟み、痛みの叫び声が上がった。男の指が扉から離れ、その隙を逃さずに非常扉を閉めた。
男はホテルキーを持っていないようで、外から扉が開けられることはなかった。代わりに、扉を挟んだ向こう側から、罵声と扉を蹴るような音が聞こえてきた。
息を切らしながらトレスが言う。
「まさか、待ち伏せされていたなんて」
「どうしよう、レシー……」
ノーンの言う通り、こちらの居場所が完全にバレていたと考えて間違いなさそうだった。そうでないと、非常階段に待ち伏せされていた説明がつかない。
逃げようにも、上にも下にも敵がいる。ホテルの非常階段を押さえられていたことを考えると、正面玄関に誰もいないわけがない。持ち物も、二人でそれぞれハンドガンが一丁ずつだ。ろくに武器を持っていない自分たちが、脱出する方法はない。今や、ホテルは巨大な密室になっていた。
頼みの綱は、今も戦っているはずのノーンが、相手を倒してくれることだ。しかし、その綱はあまりにも細く、もしかしたらもう切れてしまっているかも知れない。
ソフィアはトレスの表情を窺う。彼女がノーンのことを口にしないことを考えると、絶望的なのだろう。今にも、通路の向こうから敵がやってきても不思議ではないのだ。
トレスが深刻そうな顔で、口を開いた。
「どこかに隠れて、相手をやりすごすのはどう?」
「でも、どこに……」
「……どこかの部屋ぐらいしか、なさそう」
廊下は一本道で手を広げられる程度の広さがあり、両側の壁に等間隔で扉が設けられている。もし、このまま廊下を進んでいても、この階から移動することしかできない。そして、階を移動すれば、それだけ敵と鉢合わせする危険が高まる。逆に、部屋のどこかに身を隠していれば、すでにどこかに逃げたと思わせられるかも知れない。
ソフィアはトレスの目を見て首肯した。
ホテルのルームキーシステムをクラッキングして、事前にマスターキーを作成しておいたのは幸運だった。おかげで、どの部屋にでも入ることができる。だが実際は、こうも簡単にシステムを破ることはできないだろう。これも適性試験の一環かも知れなかった。
一番近くにあった部屋にソフィアたちは身を隠すことにした。ホテルの部屋はすべてオートロックなので、外からは鍵なしでは入れない。相手もマスターキーを作れる可能性があるので気休めにしかならないが、施錠されているのは精神的に安心する。本当はドアガードも掛けておきたかったが、そうすると中に人がいると自ら教えているも同然だったので、できなかった。
選んだ部屋は、拠点にしていた部屋と同じタイプのツインルームで、調度品も同じものが用意されている。二人で相談し、身を隠した痕跡が出ないように、部屋の内装を弄らずに済む場所を探すことにした。
しっかりと吟味する時間もなかったため、人ひとりが入れる場所は安直にしか選べなかった。ソフィアはベッド脇のクローゼットに、トレスは入り口横のバスルームに。
クローゼットは、家具ではなく部屋に造りつけられた壁面型だった。片開きの戸にはルーバーがあったため、扉を閉めても隙間から漏れる光で、中が真っ暗になることはない。間隔を空けて水平に組まれた羽板から、走査線が走っているような部屋の様子が見える。
クローゼットの中で壁に寄りかかる。そのまま、ずるずるとしゃがみこんだ。数時間ぶりに休んだような気持ちだった。この疲労感は肉体ではなく、精神のものだろう。けれども精神労働はまだ続く。見つからないことを願う。だが、どれだけ待てば安心だと言いきれるのか。
不安が心の体力を削っていく。
緊張で呼吸が乱れそうになる。
〝大丈夫、絶対なんとかなるよ、ソフィー〟
トレスが優しい口調で通信してきた。安心させようとしてくれてるのだろう。落ちつきを取り繕える彼女がソフィアには不思議だった。
〝レシーは、何でそんな平気でいられるの〟
〝平気じゃないよ、わたしも怖い〟
知っている。震えているのを見た。しかし、恐怖していても怯えていない。彼女の心には何かがある。怯懦な自分との決定的な違いがある。
〝でも〟
〝わたしは、信じているだけ〟
〝何を……〟
〝イフ君を〟
細くて長い息を吐いて、トレスは言葉を続ける。
〝きっと、前衛の人たちが戻ってきて、何とかしてくれる。そう信じて、耐えようと強がってるだけ〟
何かを信じる。ソフィアにはそれができない。信じたこともない。そもそも信じるという行為は、自分に軸がないとできない。信頼は、親和や畏怖で作る寄る辺だ。感情の湖に立つ鉄心が響いたときだけ描かれる波紋の一つ。自分の湖面には鉄心がない。その鉄の棒の名前を知らない。だから何も信じられず、誰の内面でも訝しむ。
あぁ――と、腑に落ちる。
信じる心が強いのだから、疑う心が弱いのは当然だ。
がちゃり、と部屋の扉が開く音がした。
息を呑む。
誰かが入ってきた気配がする。静かで素早い足音。一人だけではない。数人の衣擦れが聞こえる。思わずソフィアは自分の口を両手で押さえた。ノーンが話していた四人組だ。彼らがここにいるということは、ノーンは――考えない。思わない。直視しなければ、事実は現実にならないで済む。
〝レシー〟
気を紛らわせようと、トレスに話しかけた。
〝わかってる。静かにしてよう〟
きっとトレスも自分と同じように口を押えているのだろう。VRでの通信なのに、彼女は小声だった。
息を殺しながら願う。どうかこのまま出て行ってくれますように。
クローゼットの中で膝を抱えて座りこむ。抑えようとしている呼吸の音がやけに大きく聞こえる。大丈夫だろうか、外に音が漏れてしまわないだろうか。不安が大きくなっていく。仄暗い闇に押し潰されそうになる。狭い空間の中で、自分しか音源がない。心音と脈拍がはっきりと感じられる。体中の血管に血が流れ、拍動する肉の体はこんなにうるさいものだったろうか。耳の奥で溶岩が流れているように錯覚する。自然な呼吸の方法が思いだせなくなる。どうやって息を吸って吐いていたのか、全身が未視感に襲われる。
部屋の中に破裂音が響いた。
驚きのあまり声が出なかった。そしてそれを安堵する。次に何が起こったのか理解する。
銃声だった。
入り口のほうが騒がしくなる。苛立つ男の声。嫌がる女の声。
――撃ちやがったこいつ
――引っ張りだせ
――やだ、やめて
――大丈夫か
――当たってない
――痛い、痛い
知らない声に耳慣れた声が混ざっている。トレスの声。
声は大きくなり、人の気配が部屋の奥にまできた。ソフィアは思わず、クローゼットの中で立ちあがり、ルーバーの隙間から様子を窺う。
部屋の奥にまで入ってきた男たちは、全部で四人いた。一人は見覚えがある。非常階段にいた男だ。彼らは全員、全身が汚れていて、どこかしらに包帯を巻いていた。前衛として戦ってきた証だ。一様に、戦場には似つかわしくない薄ら笑いを浮かべている。
彼らは、トレスの両腕を二人がかりで掴み、引きずっていた。トレスは両足をばたつかせるが、どこに引っかかることもなく、床の上を移動させられる。彼らは抵抗するトレスを、無理矢理ベッドに押しやった。マットレスで跳ねた彼女の上に、一人が馬乗りになった。
トレスが相手に話しかける。その声は震えていた。
「イリィ君、何でこんなこと……」
知己の相手なのか、トレスは相手の名前を口にした。
「何で?」
イリィと呼ばれた男の声は、心底から不可解といった風だった。
「それは、君のことを愛しているからだよ。だからボクは、君の居場所を探したんだ。君に死んでほしくなかったから、戦場の中で君の姿を探した。ボクは優秀だからね、班のリーダーと、君の探索を両立させられたんだ。そしてボクは、この戦場であの障害者――イフリィをころ――」
そこまで語って、イリィは急に電源が落ちたように黙りこんだ。その視線はどこにも定まっておらず、虚空を見ている。開きかけた口の端から一筋の涎を垂らしたかと思うと、今度は突然、電源が戻ったように体をくの字に曲げた。
苦悶の表情を浮かべながら激しくえづいてイリィは言う。
「ちが、違う――ボクは……ボクがすべきことは、イフルズを苦しめること……そ、そのために君を探したんだ。そうだ、君を愛しているから、君が大切だから、イフルズを苦しめるのに役立つから……! そして、あの障害者をクラッキングして、君を見つけたんだ!!」
そしてイリィは急に大声で笑いだした。リーダーの様子が明らかにおかしいのに、それを気にするどころか、彼に呼応するように周りの男たちもけらけらと笑いだす。言動が支離滅裂だ。どう見ても正気ではない。あまりの不気味さに、ソフィアは総毛立った。
イリィは感極まった様子で勢いよく諸手を上げる。
「ボクは神に選ばれたんだ。君のことが心配で、君を見つけるために何人も殺したよ……生き残って感じたね、君のおかげでボクは生きているって!」
イリィは急に天啓を受けたように目を瞠った。
「――あぁ、そうか。ようやくわかったよ。神命の、イフルズを苦しめろという神の真意が! 君はボクの幸運と勝利の女神だったんだね! だから神は、この戦場でボクに君を追い求めさせたんだ! 見せたかったなぁ、ボクの銃弾がすうっと吸いこまれるように相手の体に向かっていくんだ……百発百中とはいかないけど、負けなしさ」
くつくつと陶酔の笑みで、戦闘を思いだしている様子だった。どこかおかしい。螺子が外れて止まらなくなってしまった歯車のように、うっとりとした顔でイリィは戦場を思い語っている。
戦争中毒症だ。彼らは暴力の毒に中てられている。
トレスの腕をイリィは押さえつけた。彼女に顔を近づけながら言葉を続ける。
「そんなことより逆に聞かせてくれよ、何で君はあの障害者――イフリィなんか選んだんだ、君はボクの女神なのに」
一つの式の証明に悩む数学者のように彼は訊いた。
「そんなの、言葉にできないよ。誰かを愛するのに、理由なんかないもの」
トレスの答えは、数学で記述不可能なものだった。
「は」
呼気なのか声なのか、感情を読み取れない音をイリィは口から出した。相手に言われた言葉を理解しきれていないようだった。ソフィアにもわからない。だが自分は、愛するということ自体がわからない。だから、答えを告げられた相手の心を推し量ることもできなかった。
トレスの言葉を聞いたイリィは、間の抜けた顔で首を傾げる。やがてその表情は見る見るうちに歪んでいき、爆発するように絶叫した。
「ああ! あああああ! 何で? 何でだ!? 君はボクの女神のはずなのに、なんで拒絶できるんだ!! 神に間違いはない! き、君がボクを受けいれるのが運命のはずなのに……」
喚き散らしながらイリィは頭を激しく掻きむしる。もはや何を言っているのかわからないほど回っていない口で、激しく感情をただの音にして吐き出していく。
そのまま頭をぶんぶんと振り回していたかと思うと、天上を見つめ、動きをぴたりと止めた。
「……そうか。神はイフルズを苦しめろと言った。神は、ボクにそうやって女神を与えたんだね」
イリィは片腕を上げて、後ろにいた三人に何かの合図を出す。それに応じた男たちが、トレスの両脇に行き、彼女の両手両足を押さえつけた。
イリィは満面の笑みで万感込めるように言った。
「君を愛するために、君を傷つけるよ」
トレスに馬乗りになったままのイリィは、戦闘服の左胸に装備していたナイフを引き抜いた。凶器を見たトレスが抵抗しようとするが、三人の男の腕力には敵わない。ただベッドを軋ませるだけだった。
このままではトレスが死んでしまう。しかし、ソフィアは体が動かなかった。自分が出て行って何ができるというのか。逆に、今のタイミングなら、もしかしたら自分だけこの部屋から逃げだせる――無理だ、どうせすぐに追いつかれる。自分にはただ見ていることしかできない。
逡巡している間に、手に持つナイフをイリィが振り下ろした。親友の体に刃物が通されてしまう音が聞こえてしまう恐怖に怯えながら、ソフィアはぎゅっと目を閉じる。
しかし、聞こえてきたのは、布を裂く音だった。
恐るおそる目を開くと、イリィはトレスの戦闘服の胸元をナイフで切り裂いていた。
ぞっとする。
怖気とともに全身が粟立つ。イリィの言葉の意味を理解した。表情から察するにトレスも同様のようだった。しかし、彼女は怯えるでもなく、憎むでもなく、憐れむような視線をイリィに向ける。
「……イリィ君。わたしは、どうなってもいい。耐える……耐えて、みせるから。だから、お願い――どうか、暴力に呑まれないで。誰かを傷つけることで、救われようとしちゃ……駄目だよ」
ソフィアはトレスが何を言っているのかわからなかった。いや、意味はわかる。しかし、彼女が相手に語りかけた言葉は、状況と乖離しすぎていた。
トレスは、目の前の狂ってしまった少年に――人としての最後の慈悲を向けていた。
彼女の言葉に、イリィはナイフで服を裂く手を止める。
そして、言う。
「……ごめん、何か言ったかな?」
イリィには、トレスの言葉などとうの昔に届かなくなっていた。
トレスは、祈りを捧げるように目を閉じた。
その間にもイリィは、悠々とトレスの服をナイフで裂いていく。トレスの肌が露わになっていくたびに、男たちが下卑た歓声を上げる。
「リーダー、あとでおれらにも手伝いさせてよ」
「構わないよ、ボクが満足したあとは、好きにするといい」
「さすがリーダー。今までついてきた甲斐があったなぁ」
「どうせ試験で死ぬかも知れないんだから、少しはいい思いしてもバチは当たんねぇよな」
男たち口々に卑猥なことを言うかたわらで、イリィは淡々とトレスの服を布切れにしていく。あっという間にトレスの身を隠すものがなくなり、それに合わせて男たちの囃し立てる声が大きくなっていた。
男たちの騒ぐ声に混ざって、わずかにトレスの呻き声と鼻を啜るような音が聞こえる。男たちの陰に隠れて、トレスの顔は見えない。しかし、彼女が涙を流していることは容易にわかった。
今、自分は何をすべきか、ソフィアにはわからなかった。こんな状況でも他人に心を寄せられるトレスは、傷つけられるべきではない善性だ。あぁ、ならば彼女を守るために自分が身を差しだせばいいのだろうか。いや、そんなことに意味がないのわかりきっている。現実はひたすらに非情で、無力な自分にできることはない。
見守ることすらできず、親友を見捨てるしかないのだ。
ソフィアは耳を塞ぎ、目を固く瞑り、トレスに背を向けて闇の中で俯いた。
やがて、音が聞こえてきた。
耳を塞いでいるのに、音が漏れるように聞こえてくる。ベッドの軋む音。呻き声。笑い声。ソフィアは痛くなるほど掌を耳に押しつける。それでも聞こえる。音が消えない。だから祈った。どうかこの世から音が消えてください。
ソフィアは祈るべき相手を知らなかった。それでもただ祈った。原始的な逃避の感情に従った。祈った。音は消えなかった。ただ祈る。
数十分経ったのだろうか、それとも数時間だろうか。時間の感覚が曖昧になるほど、祈り続けた。そして、己の内語にだけ耳を貸しているうちに、音が消えたことに気づいた。
クローゼットの仄暗い闇の中で目を開く。瞳に張りついていた瞼が、ほんの少しの光に剥がされた。耳から両手を離すと、耳の奥に空気が入りこむ音がした。狭い空間の中で、そっと立ちあがる。走査線の入った部屋の風景を覗こうとして――
ぎっ、と扉が開く音がした。
目の前に裸の男が立っていて、こちらを見ながら軽薄な笑みを浮かべていた。
「次はお前ね」
何を言われたのかわからなかった。ただ見つかった恐怖心だけを自覚していた。じわりと、股間から太腿が温かくなり、ズボンが湿り気を帯びたので、自分が失禁したのだと気づいた。
男が何かを言いながら、ソフィアの手を引く。「どうせ汚れるから気にすんなよ」とか、そんなことを言われた気がした。恐ろしくて仕方がないのに、体は指先一つ動かせなかった。
クローゼットから引きずりだされたソフィアは、たどたどしい足取りで男に引っ張られる。二つあるベッドのうちの一つには、トレスが寝ていた。気絶しているのか、ぴくりとも動かない。よく見ると、首に大きな痣があった。奇妙な形をしていて、それは何だか手のように見えた。
あっ、と服の汚れを見つけるように、トレスの状態にソフィアは気づいた。
「何だよ、次のは随分と貧相だな」
「おれは小柄なのも好きだぜ?」
男たちの言葉は耳に入ってこなかった。トレスだけを見ていた。どれだけじっくりと見ても、彼女の胸が上下することはなかった。それを見て、何かが恐怖を消化した。
もういいや。
トレスの死体を見て一番最初に湧いてきた感情がそれだった。一気にすべてが遠くなる。まるで幽体離脱でもしたかのように心が浮遊する。自分自身を俯瞰してしまおう。諦めたほうが楽に違いない。
手を引く男に、荷物のようにソフィアはベッドに放り投げられた。マットレスに沈んだ小柄な体躯の上に、二回りも大きい鍛えられた男の体が覆いかぶさる。トレスのときと同じように、男はナイフを構えていた。
生まれたままの姿にされたあとは、すべてが遠かった。
自分が何をして、何をされているのかも曖昧だった。男たちは、自分のことを温かい人形だと思っている。抵抗すると反発が帰ってくる。自分の姿に似た人形が壊されるのがどれほど恐ろしいのかすら、もうわからなかった。ただ、何もできなかった。
自分は今、痛いのか苦しいのか、感覚すらも遠い。意識があるのか、夢を見ているのかすらもあやふやで、肉体が消えてしまったかのようだった。
視界が白くなっていく。自分以外のすべてが光で満たされている空間。そこには彼女がいる。彼女がわたしを見ている。わたしも彼女を見ている。だから今、この場で彼女は光を背負っているように見えた。
あの光は安らぎに違いない。
あの光が欲しい。
あれ? と自分の感情に気がつく。生まれて初めて何かを求められた。でも足りない。届かない。光までの距離には、まだ先があるのだろうと直感する。
その光は美しくて、とても尊いものように感じられる。
そして、
わたしは、
白い
感覚
――光背が。




