幕間Ⅱ:神の滴
識別子1LL1-N42TYの少年――イリィは、VR空間で椅子に体を預けていた。
イリィの座る椅子は木製の簡素なもので、角材を釘で繋ぎとめただけのものだ。この空間には椅子以外に何もなく、銀灰色の空間が無限に広がっている。光源の位置設定すらされておらず、影すらない。
ここは、イリィのプライベートエリアだった。
集合的無意識情報網に参加している個人として確保された領域。肉体という器官の中で、他者からの干渉を受けない場所だ。
イリィは椅子の背もたれに寄りかかり、手足を放りだして脱力していた。その視線は虚空を向き、どこにも定められることはない。力なく椅子にへばりついているだけのような状態で、彼はぶつぶつと何かを呟いていた。弛緩しきった口の端は涎が垂れて汚れていたが、それを気にする素振りすらなく、延々と独り言を続けている。
彼は神と対話していた。
神は適性試験が始まってから、語りかけてくるようになった。神は名乗らず、突如としてプライベートエリアに降臨した。当然ながら初めのうちは困惑したし、その存在を疑っていた。しかし、自分しか接続できない領域に、ハッキングされた兆候や痕跡すら見せず、初めからそこにいたように存在しているものは、超自然的なものとしか思えなかった。
適性試験のストレスにより幻覚を見ている可能性も考えたが、神から授けられた啓示は、イリィには知る手立てのない知識ばかりであり、そのお陰で適性試験で容易に優位に生き残ることができた。
そしてイリィは確信した。
自分は選ばれたのだと。
そして神は啓示を授けつつ、イリィに託宣を与えるようになった。この適性試験で彼が行うべき行動の指針だ。
神は訊いてくる。
――君の目的は?
イリィは焦点の合わない目で神を見上げる。といっても、神がどこにいるのかはわからない。託宣の声だけが聞こえ、それが天上から降りそそいでいるように感じるから、天を仰いでいるだけだ。
何度この質問を受けただろう。そしてなぜ、何度もこの問いを受けているのだろう。イリィは神との対話の記憶が曖昧だ。しかし、これが必要なことだから神は問いを与えているのは違いない。
イリィは呂律の怪しい口調で答える。
「あ……あー……い、イフルズを、こ、殺して……トレスを……」
――違う。
次の瞬間、イリィの全身に電流を流されたような痛みが走る。彼の体は椅子の上で激しく跳ねて、ずるりと椅子から倒れそうになるが、枝の先に残る枯葉のように、辛うじて椅子にもたれかかる。
この痛みは神罰だった。神から与えられた目的を違えると、神はお怒りになる。神が望むことを理解し、正しい答えを出さないと、この痛みからは逃れられない。そうだ、思い出した。いつも自分が間違えるから、神は自分に悔い改める機会を与えるために、この問いをしてくださっているのだ。
――君の目的は?
神が再び問うてくる。嫌だ。痛いのは嫌だ。イリィは怯える獣のように唸りながら、椅子の上で体を縮こまらせる。朦朧とした意識の中で考える。自分の目的は何だったろうか? この適性試験で、イフルズをどんな風にして、トレスにどうしてもらいたかったのだろうか?
「ぼ、ボクは……い、イフルズを……」
神が求める答えがある。それを導き出さないと、また罰が下る。
「うぅ……」
イリィは考える。正しい答えは何か。必要なのは自分の答えではなく、神の答えだ。
「く、苦しめる……そのために、あ、ああ、あいつの、大切な人を……傷つける……」
痛みはなかった。
どこかで神が満足そうにする気配がする。
――この戦場で、君はボクが与えた目的のためなら、何をしても許される。いいね?
神は言った。
その言葉は、何としてでも目的を遂行しろという神命であることを意味していた。
イリィは答える。
「……はい、神の仰せのままに……」
無限の銀灰色の空間に残響するのは、イリィの声だけだった。
「――イリィ君、聞いてる?」
呼びかけられ、イリィは我に返った。
夢現の端境に立つように、頭に靄がかかっている。自分が壁に寄りかかって船をこいでいたのだと自覚した。無意識に何度か目をこすり、目脂が取れると、意識がはっきりしてくる。そうだ、神からの託宣を受けていたのだ。神の呼びだしはいつだって突然だ。毎回、白昼夢を見ていたようになってしまう。しかし、神は必ず自分が話を聞けるタイミングにだけ語りかけてくれる。何と慈悲深いのか。
イリィの目の前には半裸の男が立っていた。汗を掻き、饐えた臭いを漂わせる中に、わずかに鉄錆の臭いが混ざっている。
彼はイリィが指揮する班の部下の一人だった。
ここは適性試験の市街地演習場にあるビルの一室だ。この場所も神からの啓示により授けられた安全地帯で、敵に見つかりにくく、こちらは敵を見つけやすいロケーションだ。コンクリートの打ちっぱなしなのは他と変わらないが、休息を得るには十分すぎる場所だった。
イリィは自分の口の端が涎で汚れていることに気づき、拭う。
「……どうかしたかな」
部下には交戦した他の班の人間を捕虜にし、情報収集のための拷問を任せている最中だった。確か、彼は率先して拷問の役目を引き受けたはずだ。半裸の部下が手にしているナイフの切っ先からは血が滴っている。
部下の男は頬を上気させ、興奮した様子でナイフを握りしめた。
「あぁ、うん。ごめん、実はまだ情報を聞きだせてなくてさ、もう少しお話してもいいかな?」
イリィは部屋の奥に視線をやる。そこには、猿ぐつわを噛まされ、拘束された血だらけの男がいた。男は全身から血を流しているが、その出血箇所はどこも命には関わらない場所――痛みを与えることだけを目的とした傷なのは瞭然だった。
しかし、すぐに死ぬことはないとは言え、血を流し続ければ当然死ぬ。イリィの見立てでは、男はもう助からないし、まともに話すこともできない。ただ苦しみ続けるだけの肉塊だった。
情報収集を目的とした拷問としては、これ以上の成果は得られないだろう。
「いいよ、好きにして」
だがイリィは許可を出した。
元々、イリィはこの適性試験の中で、自分の部下の班員には、捕虜への拷問や虐待を推奨していた。無力な相手を痛めつけ、犯し、殺すことを許すのは、班の統率力に直結したし、士気向上に繋がるからだ。
そして何より、イリィにはそれを簡単に行わせるための手段があった。
許可を得た部下の男は、満面の笑みを浮かべつつ、申し訳なさそうにイリィに言う。
「ありがとう。あとごめん、またアレ、貰えないかな? そろそろ切れちゃったみたいでさぁ」
「いいよ。さぁ、使うといい」
イリィは部下の男に、あるデータを手渡す。
そのデータの名は《滴》。
神がイリィに与えたデータだ。
「やった、イリィ君! やっぱ君は最高だ!!」
データを貰った部下の男は興奮した様子で、それを口の中に放り投げる。本来、実体のないデータを使用するのに経口摂取する必要はないのだが、この《滴》を使うものは、ほとんどが口の中で舐めるように使用する。まったく意味のない行為を恍惚とした表情で行うのだ。
「お、お、おおお、きたきたキタ! これだよコレ!」
そのデータは不揃いな飴玉の見た目をしている。イリィのプライベートエリアで、いつのまにか、一時間に一粒生成されるようになっていたものだ。
《滴》を使用すると、眠気は消え、疲労は感じず、痛みに怯まず、恐怖心は消え去り、暴力に快感を覚えるようになる。意識は変性し、どんな臆病者でも屈強な戦士の精神を持ち、一度使うとすぐにもう一度使いたくなる。戦場で戦う兵士のためにあるような、最高の戦意高揚剤だ。
《滴》を使った部下の男は、勃起していた。
果たして、この状況で捕虜を相手に何をするつもりなのか。しかし、イリィはそこに対して興味を持たなかった。
今の彼にとって最も重要なのは、神から受けた託宣を、どのようにして現実化するかという一点に限られている。
神から語りかけられ、《滴》を与えられ、ここに来るまでに何人も部下は死んだ。しかし、捕らえた捕虜に《滴》を与えると、誰もが従順になるため、班員が減ることはなかった。
慣れた手つきで、イリィも《滴》を一つ、口の中に放りこむ。
ただのデータなのに、口腔にコーラのような甘い味が広がり、その中に香辛料のような刺激がある――と錯覚する。神から与えられた恩寵は素晴らしい。もう二度と手放す気はなかった。神から与えられた目的を果たすのだ。
神は戦場の一部を意図的に活性化し、そこにすべての学生奴隷が集まるように誘導していると告げた。ならば、自分もそこに向かい、待ち構えていれば、目的を果たせるのだ。そう、イフルズを■す――いや、違う。そうじゃない、自分の目的は何だ? イフルズを、イフルズをどうするのが自分の――神の目的だ?
不意に、全身に電流が走ったような痛みを感じ、体が跳ねる。
そうだ、当座の目標ただ一つ、イフルズを見つけ、苦しめることだ。




