羊飼い
〝――狙撃手の痕跡が見つかったのは、間違いないんですね〟
音節がはっきりとした発音。だが非連続性の無い陶器的な滑らかさでビブルが言った。
少し躊躇ったような間を空けてから、ノーンは答えた。
〝……前衛の君たちが集めてくれた情報の中に、狙撃されたと思われる死体が何体かあった。で、その死体の情報を元に弾道計算をしたんだ〟
〝すべて〈結節点〉と繋がっていた。そうですね?〟
〝そう言うこと。最悪なことに、ぼくたちの目標は少なくとも激戦区に潜んでいる可能性が高い〟
イフルズは何かを言おうとしたが、BRで口を開くことしかできなかった。開いただけで、喉からは何も出てこない。隣にいるビブルの貌を見た。無表情だったが、空白ではない。その目は明らかに決意を固めていた。
ちっ、とシュヴァが舌打ちする。ヘルメットを脱いで頭を掻くと、また被り直した。
〝ったく、手間をかけさせてくれる敵だな。ノーン、俺たちの現在地から〈結節点〉への最短距離は?〟
〝駄目、最短距離は危険すぎる。戦闘が少ない場所を経由して、迂回するべきだよ〟
〝そんな悠長なことを言っている時間があんのかよ、狙撃手がいつまでそこにいるかもわからねぇのに。その〈結節点〉とやらは流動的じゃないってのか? 俺にはこの戦場、全体が動いてるように見えるぜ〟
シュヴァの意見にビブルが賛同する。
〝ノーン、僕もシュヴァと同意見です。それに僕とシュヴァとイフルズの戦力なら、目的地までの突破は十分に可能なはずです〟
ノーンは沈黙する。ビブルもそれ以上は何も言わない。イフルズには見えていない情報空間上で、睨みあいをしているようだった。
根負けしたのか、ノーンの嘆息が聞こえた。
〝……わかった。最短距離での強行突破で行こう。ただし、少しでも犠牲が出そうな状況になったら撤退すること。それが条件。ぼくたちの最優先事項は、生き残ることだから〟
シュヴァとビブルの意向に、イフルズが口を挟む余地はなかった。すでに二人とも腹を決めている。沈黙で否定を包み隠した肯定しかできなかった。
〝トレスとソフィアに、今ある情報から可能な限り、正確な狙撃手の位置の割りだしてもらう〟
ノーンが言い終わるのと同時に、ARヴィジョンの3D地図が更新される。数匹の蛇の頭が、イフルズたちの現在地から〈結節点〉へと伸び始めた。ルート候補だ。
〝できるだけルートは複数算出するから、その場で一番安全だと思う進攻ルートを選択して。帰還目標は後衛がいる拠点。いいね?〟
〝オーケー、リーダー。俺は問題ない〟
シュヴァが言いながら、こちらに視線をやる。イフルズが首肯するかたわらで、すでにビブルは装備の確認をしつつ、地図上にピンを打ち始めていた。シュヴァが困ったような顔で苦笑し肩を竦める。自分も同じような表情しか返せなかった。笑顔を作って、ふと気づく。シュヴァが普段通りの態度を貫いてくれているから、自分の中に余裕が生まれていた。次に顔に浮かんだのは、苦笑ではなく微笑だった。本当にいいやつだ。
ビブルに続いてシュヴァと一緒にイフルズも周囲の状況を確認しつつ、装備の状態確認を始める。これが終われば、戦場の引力に引かれ始めることになる。そうすれば、もう二度と戻れないだろう。一度始まった落下を止める術を自分は持っていないのだから。
〝――イフルズ〟
冷たい緊張感の中、イフルズはノーンに話しかけられた。
〝〈結節点〉へ向かうことに反対だよね?〟
突然真意を衝かれ、イフルズは息を呑む。弾薬の確認をしていたマガジンを掌から落としかけて、慌てて握りしめる。
〝大丈夫、これは個別通信だから、他の皆には聞こえてないよ。イフルズにしか相談できないことがあって〟
〝……何をだ〟
〝この戦場の違和感。〈結節点〉の不気味さ、かな〟
イフルズは他の二人にノーンとの会話がバレないように、BRでは黙々と装備の確認を続ける。
〝今形成されている状況は、不自然な点が多すぎる。それが〈結節点〉として表れている。でも、ぼくが一番疑問なのは『狙撃手』っていう存在なんだ〟
〝どういう意味だ?〟
〝おかしいんだよ、ぼくたちは皆、歩兵装備しか与えられていない。だから狙撃手がいるわけがないんだ〟
言われて初めてイフルズはその可能性に気づいた。この戦闘が始まった、チアが死んだときから、自分たちは己の判断で行動している。そう思っていた。だがしかし実際はどうだ? 流されるまま、混乱した状況下で最善策を取っていると思いこんでいたのではないだろうか。
〝――お前、それって〟
〝平静を装って。ただでさえ、イフルズは顔に出るんだから〟
言われ、イフルズは他の二人を目の端で捉える。すでに苦虫を噛み潰したような顔を自分がしているのがわかっていたので、装備を整えるふりをして二人に背を向けた。
〝何で……オレにだけそんなことを言うんだよ〟
いつだったか奴隷学校の課外学習で行われた、羊の放牧の見学をイフルズは思いだす。高級品である天然の食肉の生産場。奴隷が働く場所の一つ。あそこでは広大な敷地の中で、放し飼いにされている羊を効率的に誘導するシステムがあった。雑然とした状態に、あえて逃げ道を残すことで管理する手法。
この戦場すらも、国の管理者たちにとっては放牧場にすぎない。奴隷という知性を持つ羊の群れの殺しあい。
家畜が頭にボルトを撃ちこまれて屠殺されているのを連想した。家畜と奴隷。国家にとって、そこに大した差はないだろう。急激に喉の奥から苦いものが迫りあげるのを感じた。どうにかそれを嚥下して唾を飲みこむ。
〝イフルズにしか話せない、本当に〟
ノーンの言葉に応えようとすると「おい」とシュヴァに呼びかけられた。
「準備できたか、イフルズ?」
〝このまま、ぼくの話は黙って聞いてくれるだけでいいよ〟
音を立ててマガジンを銃身に収めながら、イフルズは息を吐く。
「……あぁ、問題ない」
「そんじゃ、行くか」
アサルトライフルを肩で担ぐシュヴァの口調は、ちょっとした遠出にでも行くかのようだった。
〝ノーン、隊形とポジションはどうする〟
シュヴァに指示を乞われて、個別通信などしていなかったようにノーンは答える。
〝縦隊で移動して。ポジションは、先頭で前方警戒をするポイントマンがシュヴァ〟
〝あいよ〟
〝スラックマンはビブルで、シュヴァの後ろで側面警戒と援護〟
〝了解です〟
〝殿のリアセキュリティはイフルズ。三人編成になるから、各自の警戒範囲は広めに取って〟
〝わかった〟
ポジションを告げられ、イフルズたちはすぐに縦隊を組む。先頭に立つシュヴァが、身を隠しているビルの陰から周囲の状況を窺い、擬験しているノーンの判断を黙って仰いだ。いまだに辺りの銃声が止む気配はない。戦場のシュバルツシルト面はそこにある。これから始めるのは自由落下だ。この重力の井戸の底には何があるのだろう――
〝作戦開始〟
ノーンの声と同時にイフルズたちは一気に走りだした。
境界線を越える。ビルの陰から躍りでて戦場に足を踏みいれる。装備を身につけた体は重い。だが授業で繰り返してきた演習通りの重さだ。今まで鍛えてきた肉体はそれを苦にしない。それなのに感じている、まとわりついてくるこの重さは何だろうか。
市街を駆け抜けていると、広く開けている道に入った。先頭に立つシュヴァが、前を向いたままで掌をこちらに押しだす。『待て』のハンドサイン。硝煙の臭いと破裂音。それから意味不明な叫び声。耳を澄ますと、戦闘音の中から罵り声を拾いあげることができた。『死ね』、『殺せ』、『撃て』、『畜生』。ステレオタイプの罵声だ。
〝一番最初のポイントに着いた。広場で何班かが交戦してるみてぇだな……ノーン、そっちで数はわかるか?〟
〝多分、五、六個班かな。どの班も損耗はしてる……トレスとソフィアに戦況分析をしてもらう。それまでは安全な場所で待機してて〟
〝了解〟
イフルズは後方警戒をしながら剣呑な会話を聞く。自分は口出しする役割ではないし、自分の見張る範囲でいつ他の学生奴隷と遭遇するかもわからない。じわりとアサルトライフルの銃把を握る手に汗を感じた。見つかったならば撃たなければ――殺さなければならない。戦場の緊張感。本物の戦場のそれだ。さっきから身体にまとわりついているのは、肉的な重さではない。戦争神経症にはまだ全然早いぞ糞が。自分にそう言い聞かせる。そんな贅沢は殺すだけ殺した奴のものだ。だからこれは、ただの臆病だろう。そう考えると、怯えられるだけの余裕があって、逆に喜ばしかった。
〝イフルズ、さっきの話の続きなんだけど〟
不意にかけられたノーンの言葉に、思わずびくりとする。
〝あ、ごめん。驚かせた?〟
〝……いや。いや、逆に落ち着いたよ。で? 続きだろう、何でオレに話したんだ。この戦場には《羊飼い》がいるんだろ〟
返事はすぐに返って来なかった。代わりに、息を呑んだような気配が伝わってくる。
〝――どうした?〟
〝あぁ。いや、さ。やっぱりイフルズにしか話せないなって、再確認したっていうか。VRPDだからかなぁ、そういう肉のついた表現ができるのって〟
冗談めかしたノーンの物言いに、釈然としない気持ちでイフルズは返した。
〝……褒め言葉、として受け取っておく〟
それで、とイフルズは続きを促す。
〝結局、何でオレに話したんだ。それこそ……それこそ、他の奴らに隠す必要もないし、ましてVRPDのオレよりも、ビブルに話したほうがいいだろ〟
〝ビブルには話せない〟
ノーンは断言する。
〝平然としているようには見えるけど、チアが死んで一番ショックなのはビブルだよ……《羊飼い》なんてものがいることを話して、これ以上動揺させたくない。きっとそれはビブルを殺すことになる〟
〝冷静さを欠いている、ということか……そうは、見えないけどな〟
〝今の状況では、良くも悪くもビブルは優秀なんだよ、やっぱり。それに、もしかしたらぼくが気づいているぐらいだから、すでにビブルもわかっているかも知れない。でもそれでも言えない。リーダーとして、ぼくは皆の命を守ることを最優先に考える〟
情報空間上でノーンが溜息を吐いたような気がした。心労から来る疲れだろうか。心にも肉体のようにわかりやすい疲労感があるとしたら、真っ先に現れるのはVRだろう。ノーンが――いや、他の友人たちも、この戦場でどれだけの情報量を処理しているのかわからないイフルズには、それが少しもどかしい。
〝だから、シュヴァにも言えない。曲がったことが嫌いだし……何て言うのかな、仁義ってやつ? 性格上、きっと――いや絶対黙っていられない。ビブルの復讐の協力に、できる限りじゃなくて、全面的になると思うんだ〟
〝つまり、消去法でオレだったのか〟
VRでノーンが微笑ったのが、イフルズにもはっきりとわかった。湿ったような〝笑い〟だ。渇いていないだけ、まだマシなのだろうか。
〝そういうこと。あと、言い方がアレで悪いんだけど、イフルズは汚く生きられる〟
〝……本当に、もう少しマシな言い方なかったのかよ……〟
〝いや、悪い意味じゃなくてね? もちろん、汚いってだけなら、こうして内緒話をしてるぼくも十分汚いよ。でも、それ以上にイフルズは、生きることに対して貪欲になれる〟
〝あんまり褒められている気がしないんだが……〟
〝何て言うか、何だかんだで、イフルズがぼくたちの中で、一番肉体的な自覚があるって言うか。良い意味で軍人気質って言えばいいのかなぁ〟
また湿った〝笑い〟。なけなしの潤いを絞りだしているかのようだ。当然だろうか、この戦場で唯一の外部から得られる水分は、血ぐらいのものなのだから。
〝だからイフルズには《羊飼い》のことを、この戦場を理解していてほしかった。きっと、他の皆が事実に直面して迷っても、自分自身に従って行動できると思うから〟
それは、他の誰かの感情よりも、自分を優先させるだけではないだろうか。ノーンにかけられている期待が、イフルズはあまり理解できなかった。自己中心的なだけで、とてもじゃないがポジティブな側面を感じられない。
今、イフルズが感じているのは、この戦場で起きている何もかもが間違っているということだ。だからこそ大切なものを何一つ失いたくない。不条理に対する感情論だけで、大層なものは持っていない。ノーンが評価するような、迷いのないまっすぐなシュヴァの正義感のほうが、よほど役に立つ気がする。
ふざけやがって。
それが今、最もしっくりと行く表現だろう。その程度の行動理念しか持ちあわせがない。特に理由のない本能的な反抗心だ。生存戦略に従った生存競争への怒り。泥臭い足掻き。いっそ、自然界の弱肉強食の食物連鎖のほうが、ずっと美しいだろう。自分の中にある感情は、動物的な澄んだ真水の中に、人間性という汚れを一滴垂らしたものだ。
そこから導きだせる結論が一つだけあった。オレはヒーローにはなれない。どうにか自分の中で落とし所――そのレトリックに意味があるのかは判断できないが――を見つけ、ノーンに訊く。
〝汚く、か?〟
〝汚く、だね〟
VRを介したBR側で、湿った〝笑い〟でノーンが応えてくれたようにイフルズは感じた。
〝少し話しすぎたね、戦況分析も終わったみたいだ。頼んだよ、イフルズ〟
ノーンはそう言うと、個別通信を終わらせた。




