【 プロローグ 】
「おい、ただの侍女が誰の許しを得てここにいる」
周辺を大きな山に囲まれた帝国、ザハール国の王城を出る最期の日、なぜか不機嫌そうなヴィクトルがその場にいた。夜も明けて間もないこの時間、陛下は1人で鍛錬をしている時間のはずなのだが…今日は気が変わったのだろうか?
風になびく銀色の髪と王家に伝わるサファイアの瞳。鍛錬中のヴィクトルはいつも薄着であることから、鍛えられた筋肉が目に付く。それと同時に、体中にあるいくつもの傷痕。彼は少し前に起きた隣国との争いで酷い怪我を負っただけでなく、裏切られた味方によって獰猛な動物たちがいる森まで誘導されていたのだった。
…それにしても、こんなところで再会するなんて本当についていない。
「帝国の偉大なる太陽に挨拶申し上げます」
震える声を必死に隠して、そう挨拶することにしたジャスミン。平凡な栗色の髪と同じ色の瞳。王宮にいるのにも関わらずドレスを身に着けているわけでも、侍女たちのようにメイドの服を身に着けているわけでもなく、ジャスミンは今から薬草園に向かうため女性らしくない泥だらけの庭師の服装をしていた。
確かに、彼にとって今のジャスミンの姿は怪しく見えるだろう。ヴィクトルは早足でジャスミンの元まで歩いてくると、剣を抜いてジャスミンの首筋に当てる。
「挨拶はいい。俺はお前の目的を聞いているんだ」
子供なら今にも泣き出してしまいそうな低く恐ろしい声。ジャスミンは顔を上げないまま、手にしていた鍵束をヴィクトルの前に差し出す。
「私は…この温室の奥にある薬草園を管理しているものです。薬草園の管理をする間だけはここの出入りを許されています」
「名は?」
「平民のため姓はなく、名はジャスミンと申します。この国では調薬師の資格をもち、半年前にこの薬草園の管理を任されました。身分証はこちらに」
胸元から小さな手帳のようなものを出したジャスミンは、自分の顔写真が載っている調薬師の身分証明書を提示し、顔が確認できるようにゆっくりと顔を上げる。ヴィクトルは変わらず冷たい視線をジャスミンに向けていた。
「半年前からだと?それにジャスミンという名も初めて聞く。俺はこの王宮に勤める全ての使用人たちの名を覚えているし、一度目を通した書類を忘れることはない。お前の雇用については正式に書類が提出されてないな?お前、一体何者だ?」
震えあがるほどに冷たいヴィクトルの声に、一瞬息をするのを忘れそうになるジャスミン。それでも、ジャスミンはゆっくりと唾を飲み込んだ後にかすれた声で返答した。
「…私を拾っていただいたのは陛下、貴方です。…いえ、もうきっと覚えていないでしょうが」
ジャスミンはピクリとヴィクトルの目元が反応したのを見る。きっと彼は今、覚えもない出来事に戸惑っているのだろう。
「私のことを近衛兵たちに突き出していただいても構いません。私の雇用は今日までであり、この後は王城を出ていくことになっていますから。…ただ、最後に薬草園の様子が見たくてここに立ち寄ったのです」
「…そうか」
そう返事した陛下が何を考えていたのかは分からない。ただ、ヴィクトルは何も言わずに、ジャスミンが持っていた身分証と手にしていた鍵を奪い取ってしまう。
「お前が嘘を言っているようには見えないが、怪しい者を放置することもできない。お前には一度取り調べを受けてもらおう。その場で待機していろ」
そう言ってヴィクトルは早足で温室を出ていくのだった。