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鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第三章:本所の若社長 ~一九六二年~
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本所の若社長 ~一九六二年~ 1

 作業場には、慣れ親しんだ機械や工具の音が今日も響いている。


「三島由紀夫だって結婚したんだぞ。おまえもさっさと身を固めて、孫の顔を見せろ」という父の言葉から逃げてきた(はや)(さか)()(ろう)は、作業机の前で小さく息を吐いた。愛用の黒縁眼鏡をかけ直し、やれやれ、と胸の内側でもう一度嘆息する。

「次郎さんも大変ですね」


 旋盤の機械を止めて、五十がらみの男性が笑顔で寄ってきた。工場で三人だけ雇っている職人のまとめ役、(おか)(もと)(まさ)(いち)だ。

 東京、(すみ)()(ほん)(じょ)。次郎が二代目社長を務める『早坂鉄工所』は、地元出身の父親が起ち上げて以来、この地で三十年以上営業を続けてきた典型的な下町の鉄工所である。

 主な製品は、自動車やオートバイの部品に公園の遊具、そして学校体育用品。特に体育用品は納入先からの評価も高く、バレーボールのネット用支柱、陸上ハードル、プールに設置するはしごや金具など、全国からの注文が途切れない。にもかかわらず、父の(かね)(つぐ)は六十歳にして早くも引退を宣言、今は名ばかりの「会長」となって悠々自適の生活を送っている。


「鉄工所のおやじなんて、還暦過ぎてまでやるもんじゃねえだろ」


 という彼の言葉によって、一従業員だった次郎が、若干三十歳の身で二代目社長に就任させられたのは昨年の話だ。


「ああ、すみません、岡本さん。僕のことは気にせず仕事を進めてください」


 古びた椅子に腰かけた次郎は、気心の知れた職人頭に苦笑を返した。小太り気味なため、腹の肉が少しだけズボンのベルトに乗ってしまうのが悲しい。


「いえ、こっちは順調ですから。私もそろそろ、昼休みにさせてもらおうと思ってたところですし」

「ならよかった。あーあ、親父とよりこうやって岡本さんと喋ってる方が、僕も気が楽ですよ」


 苦笑いを深くしたあとで、ついぼやきも漏れる。


「有名人と比べられてもなあ。大体、俺自身にそんな願望ないのに……」

「また、ご結婚の催促ですか」


 具体的な話は口にせずとも、二階の母屋から逃げるように下りてきた姿と合わせて、岡本は察したらしい。


「ええ。しかも今日は、三島由紀夫だって結婚したんだぞ、とか意味不明なことを言い出して」

「あはは。それはたしかに、比べられるもんじゃないですね」


 大人気作家の三島由紀夫が結婚したのは、何年も前だったはずだ。だが、町工場の隠居に似合わず(?)文学好きな父にとっては、昨今の結婚話としてはもっとも大きな話題のままらしい。


「三島由紀夫ってボディビルもやってるんでしょう。文武両道の大金持ちで、高級料亭の娘さんだの大会社のご令嬢だのとお見合いできるような身分だったら、僕だってもうちょっと前向きになりますよ」

「文武の〝武〟はともかく、〝文〟の方は次郎さんだって大したものじゃないですか。この前の絵も、区役所の入口に飾られてるんですよね」

「あれはたまたまです。役所に同級生がいて、応募者が少ないから出してくれって言われただけですし。八百長みたいなもんですよ」


 何を隠そう、次郎のささやかな趣味は水彩画を描くことなのだった。休みの日にはよく近所の(すみ)()(がわ)(りょう)(ごく)に散歩がてら出かけて、のんびりと絵筆を握っている。役所への失礼な言い草はさておき、区の文化祭で優秀賞に選ばれた次郎の風景画が、十月に入った先週から区役所に展示されているのも事実だ。

 恥ずかしさとともに片手を振って、次郎はつけ加えた。


「大体、このあたりで絵を描いてる大人なんていないじゃないですか。それに毎日図面を引いたりしてるんだから、普通の人より多少はこなれてて当たり前です」

「いえいえ。私みたいに学問や芸術に縁のない人間からすれば、凄いことです。それに次郎さんの図面は、本当にわかりやすくて良く出来てると思います」


 父の代からずっと仕えてくれている名職人に褒めてもらえると、お世辞だとわかっていても悪い気はしない。照れ臭さは抜けないが、次郎は素直に「ありがとうございます」と礼を述べておいた。


「機械をいじる方はまるで駄目ですけど、岡本さんたちに助けてもらいながら、少なくとも僕の代で会社を潰さないよう努力します」


 ふたたび笑ってみせると、岡本は「大丈夫です」と大きく頷いた。


「ただの勘ですけど、これからうちは、もっともっと忙しくなるような気がしてます。だから次郎さんも、ご結婚できるときにしておいた方がいいですよ」

「え? ……はあ」


 この人まで妙なことを言い出した、と次郎は笑みを保ちながらも、曖昧な反応を返すしかなかった。




 岡本の勘は、だが本当に的中する事態となった。

 それから一週間も経たない日の午後、早坂鉄工所に一本の電話が入った。一九六二年現在、まだ電話のない一般家庭はざらだし交換手という職業も残っていたが、まがりなりにも都内の事業所なので、早坂家には直通型の回線が引いてあるのだ。


「お電話ありがとうございます。早坂鉄工所です」


 作業場から続く事務所で次郎が電話を取ると、受話器越しに男性の声が確認してくる。


「突然申し訳ありません。そちら、体育用品を製造されている『ハヤサカ』さんで間違いないでしょうか」

「はい、そうです。製品は『ハヤサカ』の銘柄で納めさせていただいております」


 営業用の笑顔を浮かべながら答えたところで、相手は安堵したような声音で名乗った。


「私、東京オリンピック組織委員会の()(ぐち)と申します」

「オリンピック?」


 耳に飛び込んできた単語を、次郎は反射的に訊き返してしまった。次のオリンピックが東京開催に決定したと昨年の今頃、大々的に報じられたことはもちろんよく覚えている。だが早坂鉄工所は、体育用品こそ作りはするものの、それらはあくまでも学校体育のためのものである。当然ながらオリンピック選手の使用などは、まるで念頭に置いていない。次郎自身にしたところで中学、高校といずれも美術部だったので、スポーツにはとんと縁のない人間だ。

 しかし江口と名乗った男性は、「はい。東京オリンピック組織委員会です」と律儀に所属団体名を繰り返したうえで、単刀直入に伝えてきた。


「ハヤサカさんに、オリンピック用の製品を注文させていただきたいと思いまして」

「ええっと、それは試合会場とか選手村で使うパイプとか金具とかでしょうか」


 謙遜でもなんでもなしに、ハヤサカが関わるなら精々その程度だろう、と見当をつけて確認してみる。だとしたら組織委員会からのこの電話は、予約というか根回しみたいなもので、具体的にどんな商品が欲しいかや料金見積もりの問い合わせなどは、それらを請け負う建設会社からあらためて来ることになる。


 国立競技場の客席も増設するんだっけ。


 頭の片隅で他人事のように考えていると、江口はまたも予想外の言葉を伝えてきた。


「ハヤサカさんに是非、ウエイトリフティング用バーベルを作って欲しいんです」

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