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鳴らない鐘  作者: 迎ラミン
第二章:池ノ上の新聞記者 ~一九五〇年~
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池ノ上の新聞記者 ~一九五〇年~ 3

「朝比奈さんも、鍛錬はしていらっしゃるのですか?」


 三ヶ月ほど前の出来事に思いを馳せていた朝比奈は、呼ばれて我に返った。見ると自分の名前をすっかり覚えてくれたらしい若山が、すぐ脇に置かれたバーベルに片手を添えている。


「よろしければ、一緒に()()()でもしましょう」


 微笑んだ彼はすっくと立ち上がり、両側に何枚ものプレートがついたバーベルを部屋の中央へ転がしてきた。「よろしければ」と言って誘う行為がウエイトトレーニングという時点で、一般人からすればおかしな話だが、そこは朝比奈も驚かない。何せ似たような台詞を、毎晩のように高部からかけられているのだ。

 その高部も「いいですねえ」などとやる気満々である。おそらく若山の「かまど邸」にお邪魔するたび、こうして合同トレーニングを行っているのだろう。


「瑛人君、若山さんご自身も凄いけど、じつはこのバーベルも凄いものなんだよ」

「え?」


 若山のことを紹介してくれたときと同様に、やけに嬉しそうな笑顔で高部が言う。


「これはね、何を隠そう、日本初のディスクローディング・バーベルなんだ」

「てことはつまり、日本で最初のこういう形をしたバーベル?」


 やはり姉の影響だが、朝比奈自身も英語の勉強は嫌いではない。ディスク=円盤という意味も知っているので、高部の言葉はすぐに理解できた。つまりは、プレートをつけ替えて重りを調節できる形のバーベルとしては、日本初のものということらしい。

「へえ」と目を見開いて、目の前に鎮座するバーベルをあらためて見つめる。

 ところどころ錆の浮き出た様子から、明らかに使い込まれている物だというのがわかる。それでもシャフトが曲がったり、プレートが破損したりしていないのは、ずっと大事に扱われてきたからのはずだ。一体いつ頃作られたのだろう。そしてなぜ、そんな貴重なバーベルを若山が持っているのだろう。


「もともとは講道館の嘉納治五郎先生が、オーストリアで買って来られたものだそうです」


 疑問を察したのか、持ち主の若山が教えてくれた。


「最初はウエイトリフティングの研究用に、文部省の体育研究所が保管していたんですが、戦争のちょっと前に研究所としては閉鎖されて、体育専門学校の施設になったと聞いています。その体育専門学校も今は教育大に変わりましたが」

「去年の話ですね」


 自分が中学生からいきなり「高校生」になったように、学制改革に伴って全国でそうした変化は起こっていた。東京でも高等師範学校などのいくつかの学校が統合されて、『東京教育大』という新しい大学が生まれたことは朝比奈も知っている。

「ええ」と頷いて若山は続けた。


「いよいよ戦局が悪化して、東京も空襲がひどくなってきた頃だったかな。鉄製品の徴収からもずっと隠してきたけど、さすがにこんな重たい物を持って逃げるわけにもいかないからって、体育専門学校で先生をしてた知り合いに、このバーベルの保管を頼まれたんです。向こうは僕の家が銭湯だの料亭だのをやってることも知ってたから、倉庫の一つくらいあるんじゃないかと思ったんでしょう」

「なるほど」


 同じく頷く朝比奈だったが、若山はそこで「まあ、それ以前に」とおかしそうに頬を緩めた。


「戦時中なのに、食べることも着ることもできないバーベルなんぞを喜んで預かる人間なんて、若山くらいしかいないだろう、ってところじゃないでしょうか」


 太い眉をひょいと上げておどけるので、朝比奈も高部と一緒になって笑ってしまった。すさまじい存在感とは裏腹に、やはり子どものような純粋さも持ち合わせている人だと確信する。

 笑顔のまま、今度は高部がつけ加える。


「バーベルはね、()()()()()なんだ」

「え?」


 突然の妙な台詞に、朝比奈は小首を傾げた。


「バーベルやダンベルは、唖鈴とも呼ばれるよね。その語源を瑛人君は知ってる?」

「いや。そういえば、全然気にしたことなかったなあ。どういう語源なの?」


 友人の素直な質問が嬉しいようで、高部はますますご機嫌な様子で教えてくれた。


「ヨーロッパの人たちは昔、大きな鐘みたいなものを使ってトレーニングしていたんだって」

「大きな鐘って、教会にあるようなやつ?」

「うん。まさにああいうのだったらしいよ。実際に本物の鐘だったっていう説もあるけど、なんにせよ運動用だから音がならない鐘だね」

「へえ」

「音が鳴らない、を英語で言うとdumb。そして鐘はbell」

「あっ!」


 この話を知っているらしい若山は、学生二人のやり取りを微笑ましく見つめている。


「そう。文字通りのdumb-bell、ダンベルなんだ。それにバーをつけたから、長いものはバーベル」

「そういう意味だったのか。……ああ! だから!」


 ぽんと朝比奈は手を打った。


「喋らないっていう意味の《唖》と、ベルっていう意味の《鈴》で《唖鈴》?」

「ご明察」


 さらに笑みを深くして、高部が首を縦に振る。なお、「唖」の字が差別表現に当たるとして「亜鈴」標記が一般的になるのは、現代に入ってからの話である。


「名前こそ『鳴らない鐘』だけど、きちんと使えばバーベルは必ず応えてくれる。やればやっただけ響いて、強い身体と心を授けてくれる。こんなに素晴らしい相棒はいないと、僕も若山さんも思ってるんだ」


 朗らかに、そして力強く持論を述べた高部は熱が入ってきたのか、「しかも」とバーベルの前へとにじり出た。阿吽の呼吸よろしく、心得ている様子の若山が逆に後ろへ下がり、周囲の空間を広げるようにする。


「ありがとうございます」


 若山に礼を言った高部は、両脚を長座のような格好でバーベルの下に滑り込ませた。そのまま慣れた手つきで全体を手前に転がし、バーが股関節のあたりに来たところで、膝を立てながら上半身を後ろに倒していく。

 背中が床につくと同時に、今度は尻が持ち上がった。


「よっ」


 肩でブリッジするような格好になるため、その勢いと身体の傾斜によって、バーベルがさらに上半身の方へと移動する。胸の上までバーが到達したところで、高部はふたたび尻を床につけ、膝を立てた仰向け姿勢になった。


 ああ、こうやって寝差しをするのか。


 初めて見る動作だったが、出来上がった体勢と先ほどの会話から、朝比奈にもすぐにわかった。若山の誘いに応じて、高部は床に寝てバーベルを持ち上げる「寝差し」の運動をするつもりらしい。


 いや、それにしても……。


 一方で、分厚い胸板に乗ったバーベルの大きさをあらためて確認してしまう。高部が持ち上げようとするバーベルには、どう見ても三十貫はありそうなほどのプレートがついている。普段はクリーンやスクワットといった立って行う運動ばかり教わっているが、我が友人はやはり上半身の力も相当なもののようだ。


「しかもバーベルは、強い身体と心を授けてくれるだけじゃない」


 途切れていた会話の続きとともに、実際に寝差しの運動が始まった。巨大なバーベルが軽々と上下する様は、準備運動がてらという感じで明らかに余裕がある。


「トレーニングを通じて、若山さんや瑛人君のような素晴らしい人たちと僕なんぞを、こうして繋げてもくれる。おたがいに何かを教え合ったり、楽しく語り合ったりする機会をくれる」


 だからこれも一緒にやろうよ、と言わんばかりに十回近くも寝差しを行ってみせたところで、高部はようやくバーベルを下ろした。最初と同じく慣れた動作で、もとの胡座をかいた格好に戻る。

 その表情がいつの間にか、きりりと引き締まっていた。


「〝馬鹿力を出してるだけ〟でも結構。〝低級スポーツ〟でも結構。言いたい人には言わせておけばいい。そういう人たちは、むしろ損をしてるんだから」 


 彼にしてはめずらしい、ずばりと誰かを非難するような口調。対面にいる若山も、「おっ」と眉を上げている。しかし厳しい顔つきと声は一瞬で、


「こんなに素晴らしい道具や、心身を鍛える行為の良さがわからないなんて、もったいないのにね」


 と結論づけた瞬間には、もういつもの穏やかな笑みだけがあった。

 置いたばかりのバーベルにそっと手を伸ばして、高部が続ける。


「僕も、鳴らない鐘になりたいんだ」


 奇妙な言葉の意味を、だが朝比奈はすぐに理解できた。


「余計なことは言わずとも、真面目に向かい合ってくれる相手には、自分も真面目に何かを返したい。あとは、誰かと誰かを繋げるような行いもしていきたい、って意味?」


 自然と口が動いた。解釈が間違っているなんて欠片も思わなかった。当たり前のことを、当たり前に確認する感覚だった。


「その通り。さすがは瑛人君」


 いつもそうだが、高部はなんのてらいもなく自分を褒めてくれる。しかも無邪気そのものの笑顔で言うので、純粋にそう思っていることが伝わってくる。

 慣れているつもりでも面映ゆさを隠しきれない朝比奈、そして変わらず見守ってくれている若山へと交互に視線を向けて、高部はさらに語る。寝差しを始めたときと同じ朗らかな調子で。細い目の奥で、きらきらと瞳を輝かせて。


「世間から見れば、僕らはおかしな人種かもしれない。たった一人で重い物を持ち上げて、身体をいじめて喜んでるわけだから。けどおかしな人種にだって、世のため人のためになれることはあるはずだよね。力や知識の正しい使い方を伝えたり、友情や愛情の輪を広げたり深めたりするお手伝いくらいは、絶対にできるはずなんだ。少なくとも僕はウエイトトレーニングを通じて、そうした行いができる人、その道を学び続ける人に若山さんを含めて何人もめぐり会ってきた。バーベルやダンベルが、めぐり会わせてくれた」


 朝比奈の中で、すとんと腑に落ちるものがあった。

 世間から見れば「おかしな人種」であるはずの高部に興味を惹かれたこと。若山を前にした瞬間、この人の前で嘘はつけないと感じたこと。その理由が、わかった気がしたのである。


 彼らはスポーツ選手であると同時に、求道者なのだ。ウエイトリフティングやボディビルを通じて、心身を鍛える行為を通じて、人としての在り方そのものを高めようとしている。それも朗らかな、開かれた心持ちで。引きこもって自分にだけ向き合うのではなく、高部が語るように誰かと誰かの手を取って、自分自身も輪に入って、世のため人のために役立ちたいという想いを忘れずにバーベルを上げ続けている。

 これほどの人たちが、「馬鹿力を出してるだけ」なわけがない。「低級スポーツ」選手であるはずがない。


「実隆君も、若山さんも――」


 そうだ。目の前にいる彼らは――。


「僕から見れば、もうじゅうぶんに鳴らない鐘みたいな人たちだよ」


 輝く視線を真っ直ぐに受け止めて伝えると、高部も、そして若山も逆に恥ずかしそうな表情になって、「ありがとう」と揃って頭を下げてきた。


 照れ隠しのように若山が、「さあ」と声をかけてくる。


「朝比奈君も、遠慮なくどうぞ」


 高部と同様にはっきりとマメの出来た手のひらが、バーベルを示す。朝比奈ですら名前を知っている、あの嘉納治五郎が持ち帰ったバーベルを。二人と同じ心意気を持つ沢山の先達に愛され、大切にされてきたであろう貴重な「鳴らない鐘」を。


「じゃあ、失礼します」


 会釈した朝比奈は「あ、でも」と苦笑しながら先に断っておいた。


「僕は初心者なので、シャフトだけでお願いできますか」

「もちろん」


 二人の求道者から、見事に重なった答えと頷きが返ってくる。


「重さは問題じゃありませんから」


 若山の笑顔。


「そうだよ」


 高部の笑顔。


「友情の輪が広がること」

「そして深まることこそが、大事なんだから」


 心から尊敬できる笑みと声に導かれるようにして、朝比奈もバーベルに手をかけた。



   ◆◆◆



【雑記 ~『明大スポーツ』創刊に当たって~】


《友人にウエイトリフティング選手がいる。国内有数の実力を誇る、W大学の高部実隆君という人物だ。

 明朗で実直な人柄の高部君は、筆者のような素人にもウエイトリフティングやボディビルディングにまつわる貴重な話を、いつも楽しく、かつわかりやすく聞かせてくれる。最近、中でも特に印象に残った話があった。かつての力自慢たちは、音の鳴らない大きな鐘で鍛錬に励んでいたという逸話である。

 鳴らない鐘。鳴らない鈴。だからバーベルやダンベルは「唖鈴」と呼ばれるようになったのだとか。


 ウエイトトレーニングに励む人々を見て、馬鹿力を出しているだけだの、低級スポーツだのと言って軽んじる者も世間にはいると聞く。しかし、それが何ほどのものであろう。ことの始まりからして、本来の役に立たない「鳴らない鐘」で心身を鍛え上げていた猛者たちなのだ。言いたい人には言わせておけばいい。

 そして高部君は、こうも語る。「自分も鳴らない鐘になりたい」と。

 一見すると役に立たない風変わりな存在。けれども真摯に向き合えば向き合っただけ大きなものを返してくれる、誠実極まりない中身。むしろ多くの人間が、彼らを見習って心身の鍛練に励むべきではないだろうか。

 かく言う筆者も高部君ご指導の下、密かにバーベルでの運動を行っている。もっとも、まだまだ小さな「鐘」しかつけられないので、こちらは本当の意味での役立たずかもしれないが。


 本紙創刊に当たり、今後は少しでも役に立つ記者となれるよう、そして皆様により良い記事をお届けできるようにと、身が引き締まる思いである。

 明大スポーツを、今後ともよろしくお願い致します。》 


(文学部一年 朝比奈瑛人)

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